あすか・よしの談義(第13話:吉野の中で天武天皇を語る④) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

本日2度目の更新です。


6月29日の「天武天皇③」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10574191817.html 以来、久々のあすか・よしの談義です。

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(5)天武天皇は当時から確実に『天皇』だった最初の天皇である。

Y女史(以下Y)「皇位継承の話が続きましたが、天武天皇が最初に『天皇』を名乗った可能性が高いという話を聞いたんですが。」


Prof. H(以下H)「あくまでも可能性の話です。現状としては推古以降天武以前の時期はいわゆるグレーゾーンという扱いの様ですね。」

※本ブログの「歴史用語の基礎」(第6回:「皇太子制」と「大兄制」,前編)http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10602846525.html の(3)に関連事項が有ります。ぜひ御参考に。


Y「そうですか。それでは、推古『天皇』や天智『天皇』だった可能性は有るのですね。(※もちろん諡号は死後です。)でも、どうして天武朝以降は確実なのですか?」


H「決定的な証拠が有るからです。それは『大津皇子』と書かれた木簡が出土している事です。」


Y「大津皇子といえば、先程(前回)の吉野の盟約http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10574191817.html で皇位継承順位2位だった方ですね。」


H「そうです。なまじ皇太子次位だったために、天武天皇が亡くなった後で『皇太子草壁の地位を揺るがす者』として持統天皇に反逆の罪で粛正された悲運の皇子です。まあその話は時間のある時にさせて頂くとして、皇子の『皇』は天皇を指しますからね。」


(6)天武の皇孫である長屋の『親王』号が示すものとは?

Y「日本書紀では遡って天皇号を贈っているから、こういった称号の議論がやりにくいのですね。」


H「初代から既に『神武天皇』という事になっていますからね。まあ記述の統一性を考慮すれば仕方ない面も有ったのでしょう。

その関連で言いますと、1986年に出土した『長屋親王』の木簡も話題になりました。

長屋王は吉野の盟約で皇位継承順位3位の皇子であった高市皇子の王子で、高市皇子は草壁・大津の兄です。なぜ両皇子よりも順位が低いかというと・・・」


Y「母親の身分が低かったからでしたね。」


H「やはり草壁も大津も母親は皇女ですから、他家の娘では身分の上では太刀打ちが出来ません。ただそれよりもここで議論を呼んだのは、日本書紀では『長屋王』となっていたのが実際は長屋『親王』だったという事でした。」


Y「日本書紀の称号が遡って手が加えられているのは充分にあり得る事ですが、これって長屋王が反乱を起こした事(長屋王の変)が関係しているという事なのでしょうか?」


H「いえ、『変』による『格下げ』というのは考え過ぎです。書紀の編者が『親王は皇子に限る』と考えたからでしょう。」


Y「そうすると、高市皇子は即位したのに準ずる扱いという事に・・・。」


H「そうですね・・・確かに皇子は太政大臣に任じられています。草壁がなったと考えられる皇太子が導入される以前は、この太政大臣が皇太子に擬せられていた時期がありました。」


Y「大友皇子(弘文天皇)がその先例ですね。」

※こちらの件は、本ブログの「歴史用語の基礎」(第6回:「皇太子制」と「大兄制」,前編)http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10602846525.html の(2)の方です。


H「任命された理由として考えられるのは二つ。まずは単純に壬申の乱での功績に報いるため。そしてあと一つは・・・」(つづく)