GWに陰陽師0を見てきました。
しかも、雨が降る中を…。
…なんだけど…私メッチャ腰が重いのよぉ。
現役中は週末は外出をする気にもならない位精神的に疲れていたし時間もなかったので、見たい映画があっても「そのうちTVでやるよ」と見送っていたのですが、何故か陰陽師0は今行った方が良いような…その位、何故か惹かれるんです。
確かに野村萬斎さん主演の陰陽師も1・2と両方見たし、安倍晴明セミナーに出る程の陰陽師好きではあるけれど……そして映画を見て納得。
だって、統合のクラスで学んだ内容がエンタメとしてリンクしていたのですから…これは、上が「行け!」と言ったな。
これから映画を見る方の為にストーリーは特筆しませんが、晴明さんの性格と言うか生き方を一言で言えば「極める人」
陰陽師0はまだ陰陽道を学ぶ学生の晴明ですので、極めるどころか発展途上です。
「物事をありのままに見る」と言う中庸の状態で在り続ける事も、両親の死の前では感情に飲み込まれてしまう程。
しかし、地位や権力を求め人の上に立ちたい、少しでも良い暮らしがしたいと思う人の世は陰陽師の世界も同じで、暦を作り政の助言をする立場にある上司や師でさえ欲にまみれている中、晴明さんは人の世の汚濁には我関せず。
実際の晴明さんは果たして映画の様に陰陽師になる事に関心がなかったのか否かは分かりませんが、それでもこの世は常世(あの世)の現世(うつしよ)。
現世のフィルムとなっているあの世(見えない世界・エネルギーの世界)の仕組みを極め、その副産物として呪術の使い手となったのだと思います。
ある意味、悟りに近い様にも感じますが、悟りとはマトリックス・制限を抜けて行く事。
陰陽師として生きた晴明さんは制限を抜けて悟りの世界を目指すと言うよりは、陰陽師として生きた職人的な人だった様に思います。
ところで萬斎さん主演の映画はまだ人の情念と言うものが如何に人を狂わせるのか、それを妖に例えてエンタメとして楽しめたに過ぎなかった様に思います。
でも、今から約20年程前ですから、あの時代はそれで良かった。
しかし、今回は「空」という場で形作られた映像を現世である現実で見た時、人はそれぞれのフィルターを通してしか解釈が出来ないと言う、あの世とこの世のしくみという視点が根底になっている様に感じました。
これ、今、多くの人感性が上がってきているからこそ出来た映画だと思うんです。
アニメーション「君の名は」や「すずめの戸締り」などもそうですよね。
今だから若い世代を中心に支持される映画です。
皆…特に若い世代は、潜在意識の奥底でこの世がイリュージョンである事や、目覚め(美しい意識)て生きる事に同意して今、ここに存在している事を知っていて、今が正念場な事もわかっているから上映されているんだなぁ、と思います。
統合のクラスにいた時、よく並木良和さんは外は映像と仰られていました。
外側に求めていくら外側を追いかけても外には何もないよ。繋がるのは内側。内(自分自身・自分の本質)に繋がれば全部に繋がるんだよ、と仰っていました。
言葉だけだと、ちょっと分かりづらいですね。
並木さんが伝えた通りに引用すると、掌を見て下さい。
親指が自分だとして、他の指と触れようしても指先さけしか触れ合えませんね。
しかも指と指の間に隙間が空きます。
でも、親指の根元深くに入れば掌に出ますよね。
掌からは人差し指も中指も、全部の指に繋がっていますし、そこに隙間はありません。
指1本1本は独立して立ち上がっているけれど、根底では繋がっています。
これって「寂しいから」とか「彼氏がいれば幸せになれる」等と外に意識を向けても、そのパートナーなり友人、親や同僚・兄弟が自分の期待通りに動いてくれなかったら「なんで?意味わかんない!」とキレる事になりますが、自分の内側に繋がれば全てと繋がっているので、相手がどんな反応をしようが既に自分は満たされ、全てを持っている状態のでAll OKなんです。
少しストーリーを話してしまいますが、陰陽師0でも、奈緒ちゃん演じる元斎王の徽子(よしこ)女王は帝の要請に従って入内裏する事になるのですが、実は徽子女王と博雅はお互い想い合っている仲。
お互いに想いを告げられずにいるところ、博雅は帝から徽子女王に文を届けて欲しい頼まれ、帝の意思には逆らえない博雅は自分の想いに蓋をして徽子女王の元に帝の恋文を届る事になります。
恋する博雅から、やっと恋文を貰えたと徽子女王は喜ぶのですが、文を読んで愕然とします。
帝の文を読んでしまった以上断る事は出来ないからです。
そして博雅に「何故この文を持って来たの?きっと私の事なんて嫌いなんだ。嫌いだから帝の文なんか持って来たのね」と感情をぶつけます。
それを機に、これまで自分の人生は全て他人に決められてきたと自分の意思など考慮されない事に対する怒りが爆発すると言うシーンがあります。
映画は、映画の中で描かれるシーンは全てそれぞれの潜在意識の中で映し出されている事で、相手はホログラムに過ぎないと言うあの世とこの世の仕組みをベースに描かれていて、博雅が潜在意識の中で徽子女王を見つけ出し、(自分の本質と繋がれば)実は、自分達は最初からずっと一緒にいたし、これからもずっと一緒だと諭し、それを理解した徽子女王は帝の元へ行く事を決意すると言う、自分の内側に繋がっていれば必要な事・物は全て持っている、と言う概念が描かれています。
晴明の師にあたる陰陽博士達の呪術は全て妖(仕掛けがあるもの)なのですが、晴明は勿論妖の呪術も使いますが、ここ一番ではこの物象界に空(エネルギー場)から現象として見せる事が出来る類まれな陰陽道の使い手となるのですが、その違いは、この世が空という見えない世界のエネルギーが映し出されている事、初めにエネルギーがあって物質・現実があると言う事を看破している、感得しているからなんですね。
空海さんも空の世界と現象界の使い手です。
因みに、私の龍「さいこんりゅう」も一緒です。
実際に物事を動かすには、知っている・理解している、信じているだけではダメなんです。
例えば、目の前にコップがあるとします。
私達はこれを見て「これはコップだと信じています」とは言いませんよね。
コップだと信じなくても、こればコップだと分かっています。これが感得。
どこまで自分を信じられるか……ここがポイントなのよぉ。
だって、意識が現実を作っているんだも~ん。
映画が終わって私の隣にいた親子のお父さんが娘さんに「どうだった?」と聞いたら、娘さんは「面白かった!龍が出てきた時はちょっと怖かったけど、凄く面白かった」と仰っていたのですが、やはり子供はエネルギーの世界を純粋に受け入れられるんだなぁ…だってコードがディバイン(源)繋がっているからね、と別の観点で感動しちゃいました。
※成長過程で人はディバインと繋がっているコードをぶっち切りますので、大方の大人はディバインと繋がっていません。なので、エネルギーの世界の話を疑ったり信じないの。
色即是空 空即是色
全てはここに集約されています。
感動ついでに、久しぶりに映画館に行って驚いたのは、今ってエンドロールが全部終わって会場が明るくなるまで皆大人しく席に座っているのねぇ。
しかも、1回上映される事に場内清掃があって、若い清掃の子達は礼儀正しく「有難うございました」と挨拶をされて……余りのマナーの良さに再び感動しちゃいました。
映画は統合クラスの復習みたいな感覚で「そう、そう」と1人頷きながら見るは、マナーで感動するわで実り多い1日となりました。