尊厳は守られているでしょうか | Salon.de.Yからの贈りもの〜大事な事は全てお姫様達が教えてくれた。毎日を豊かに生きるコツ

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元ワイン講師であり歴史家。テーブルデコレーションを習いに行った筈が、フランス貴族に伝わる伝統の作法を習う事になったのを機に、お姫様目線で歴史を考察し、現代女性の生きるヒントを綴ったブログ。また宝石や精神性を高め人生の波に乗る生き方を提唱しています。

フランス革命のさ中、コンコルド広場に現われた王妃マリー・アントワネットは、死を前に毅然としつつも、まるでワルツでも踊る様な優雅な足取りで断頭台に向かったと伝えられています。

母マリア・テレジアから「王家の子と生まれたからには死をも恐れてはいけませんよ」と教えられ育ったアントワネットは、自分が死ぬ事に対する恐怖はなかったそうです。

ただ…

死ぬことは怖くない。
でも…自分が死んだ後、自分の遺体が冒涜される事、自分の尊厳が汚される事こそがアントワネットが最も恐れた事だったんです。

暴徒が荒れ狂うパリの街。

これまで王室と親しく親交を深めていた貴族達が、王家の者と親しいと言うだけで恨みを買い惨殺され、身体を切り刻まれ晒しものにされる。

ある者は首を槍の先で突き刺され、まるで道化が先端に玉の付いた棒を上下に揺らす様に頭を突き上げられたり、皮膚ごと切り取った体毛を頭にのせて鬘の様に扱ったり、口元に付けて髭の真似をしておどけて見せる。

笑い転げる民衆。

その様な目を覆う光景を見聞きしたアントワネットは、自分の遺体が民衆の前で裸にされ、その様に弄ばれる事を恐れたのです。

王妃として、死ぬことよりも尊厳を傷つけられる事にこだわり、嫌悪を持ったアントワネットですが、ここまで来ると、王妃云々と言うよりも人としての尊厳にかかわりますね。

さて、そこまで大ごとではありませんが、先日職場の方と話をした時にふと気づいた事があります。

彼女はゼネコンで作業所の事務を担当している派遣職員さんです。

大きな現場なので事務所も綺麗なビルの一角にあり、環境は良いのですが、どうやらゼネコンと言う独特な雰囲気に馴染めない様です。

フワッとした雰囲気の美人さんで、ネイリストやアパレル、カフェなど女性が主体のお洒落な職場が似合いそうな雰囲気があるので、上記の様な職場が似合いそうですねと言った所、以前アパレル業界や飲食業界でお仕事をされていた事があり、ネイリストは憧れのお仕事なのだとか。

「なんで分かるんですか?」と驚かれていました。(ふふ~ん、分かっちゃうんだよねぇ、何故か知らないけど)

そんな一見華やかな業界からゼネコンと言う男社会のガテン系業界の事務ですから「なんか違う…」と悶々とされるお気持ちもよぉ~く分かります。

だって、私自身40年以上も縦割りの男社会の職場に「なんか違う…」と思いながら、辞める勇気が無くライスワークと割り切って勤め上げて来ましたから。

彼女の気持ちに重ね合わせる部分もあります。

そこで、暫く彼女とメールの遣り取りをしたところ、協力会社の方が来ても特に紹介される事もない、派遣だから下に見られている様な気がする、等という不満があった様です。

私の勤め先は、殆ど正社員と派遣さんの区別はなく、均等に扱われているのが一般的でした。
少なくとも、私がこれまで携わった部門は、皆、区別なくお互いの考え方を尊重しながら仕事をしていたので、少なからず彼女に関しては、その様に捉える人もいるんだぁ、と驚きました。

年配の男性職員は正社員でも事務を担っている女性職員の事を、例えば「書類はうちの女の子に渡して」と言う様に女の子とか事務の子、という言い方をされる方もいらっしゃいます。

私くらいの年齢になると逆に「女の子」と言われる方がこそばゆい様な、申し訳ない様な…あっ、そこじゃないか…。

社員の私達は「そんなもの」と思っていたのですが、他所から来た方からすると「何故?」と思う、ある種文化の違いがある様です。

他にも業界の違いによるギャップがあったり、そもそも内勤の一般事務ではなく「現場」と言う事や、会議や上層部が来た時のお茶出しからして「私はそんな事する為に働いているんじゃない!」
と悶々とされている様でして…。

最初、私は「入って半年位なのに権利ばかり主張するなぁ」とか「紹介されないのなら、自分から積極的に入っていけば良いのに…」等と、それなら何故受け身のままで居るのだろう?とお局さん的な感情を持ってしまいました。

私の根底に「私はもっと大変な状況を我慢して来たんだからね!!」という恨み節の様な気持ちが潜んでいて、お局根性がムラムラっと湧いてきたのでしょうね。

でも、相手のメールを読みながらフッと思ったんですよ。

人にはそれぞれ「尊厳」があるよね、って。

経験が浅くても自分の意思を尊重すると言う権限はあります。

人はそれぞれ得手不得手があります。

私達はみな外側からみれば得意不得意のあるいびつな存在ですが、それでも、私達は皆「尊厳」を持っています。

誰一人残らず!です。

そこに収入の差、能力の優劣、男女差や年齢の差、国籍や肌の色の違いはありません。

ただ、多くの人は皆平等に「尊厳」というものがある事に気付かずに過ごしているんですね。
そして、同様に人は、自分にはまるで尊厳に値しないかの様に、自分を小さく見積もっています。

だから他人の尊厳を無視して傷つけたり、他人から傷つけられる事を許してしまっているんです。

冒頭のマリー・アントワネットの話しに戻りますが、彼女は自分を貶めないと言う尊厳を持っていたと思います。

そして(第三者側からみて達成出来たかどうかは別として)彼女なりに、自分の周りにいる人は国民も含めて幸せにする、つまり相手の尊厳も大事にすると言う観念で行動をしてきました。

ただ彼女の視野は狭く、彼女の考える幸せと民衆の欲する幸せに大きな隔たりがあっただけ。

だからこそ、革命によってフランスの文化が壊され、国が分断されていくのを見て「自分が死ぬ事でこの国は救われる」と責任を受け、断頭台の露として消えていったんです。

国王夫妻は残された家族に「決して国民を恨んだり復讐しようなどと思ってはいけないよ」と言い残し別れていきました。

新たな争いを避ける為とは言え、これも民衆や自分達を死に追いやった内部の裏切り者を含む他者への尊厳を汲み取った証ではないでしょうか。

現代の私達は自分の主張を表現する事はしますが、他人の尊厳を大切にする事には少し訓練が必要ではないかとも思います。

自分を大切にすると同時に他人も自分と同じように思いやる。

それでこそ、自分を十二分に表現しつつも摩擦のない世界が広がるのではないかなぁ、と思います。

今年最後の投稿は少し重い話しになりましたが、最後迄お付き合い頂きまして有難うございました。

皆様にとって来年も良き年になります様、心より応援しております。

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来年も宜しくお願いします。
良いお年をお迎えくださいませ。