モーツァルトの楽曲に「橇遊び」と言う小さな曲があります。
故郷のザルツブルグの風景なのか、ウィーンの冬の風景を曲にしたのか分かりませんが、雪が降り積もるウィーンの冬は、街中で橇遊びをする風景も見られた様です。
モーツァルトの楽曲の中では、温か味のある穏やかなメロディーです。
橇遊びと言えば、子沢山のウィーンの王宮でも橇遊びは王子や王女達の冬の風物詩だったようですよ。
さて、話しは変わりますが…
16人(成人したのはその内の10人ですが)の子供がいれば、1人1人の教育に目は届きませんね。
それでも、女帝マリア・テレジアは多忙にも関わらず、子供の教育の報告書には必ず目を通し、それに基づいて子供の教育方針は自分で決めていたんですって。
ハプスブルク家の人達は、自分がハプスブルグファミリーの一員である事を誇りにしていたのですが、マリア・テレジアもハプスブルグの子として、どこに出しても恥ずかしくない様しっかり育てたいと思っていたので、大分厳しいお母さんだった様です。
それ故、多くの子供達は、厳格な母親に怯えていたそうです。
勿論、マリー・アントワネットもヴェルサイユに嫁いでも母親からの手紙が来る度に、母の影にビクビクしていたそうですよ。
とは言え、普段のテレーゼは、大らかな肝っ玉母さんと言ったところ。
子供達は泥だらけになって、シェーンブルンの庭を走り回っていたそうです。
小さなマリー・アントワネットも大勢の兄や姉達に遅れを取るまいと、息せき切って走り回っていたとか。
そんな大公女様ですから、儀式尽くめでカッチコチのヴェルサイユのしきたりに馴染める筈はありませんね
人は誰でも、自分が育った環境が心地良ければ、同じ様に子供を育てたいと思うものです。
母になったマリー・アントワネットは、時には少し厳しいお母さんでもあったそうです。
旦那さんのルイ16世が子煩悩で余りにも子供を溺愛する為、「自分が嫌われ役にならなくては」と、王女や王子達にお小遣いの一部から恵まれない人に施しをさせる習慣を身に着けさせようとしたり、社交界でリーダーシップが取れる様に、子供達の小さな集まりを開催させたりと、上流社会で必要な行儀作法が出来る様厳しく躾けたのだそうです。
意外でしょう?
その反面、自分が子供時代に伸び伸びと育った為、子供達にも同じ様に伸び伸びとした子供時代を過させたかったそうで、特に、雪が積もると自分の子供時代の様に雪遊びをさせてあげたいと思ったんですって。
そこで、ある年、橇を作らせて子供達と橇遊びに熱中したのだそうです。
この橇遊びは、瞬く間に宮廷の貴族達の間でも広まって人気となったんです。
ファッションリーダーのアントワネットですから・・・と言うより、宮廷貴族達は暇ですから、王妃がやっている事は何でも真似をしようとする
そうなるとトンデモナイ輩出てくるもので、パリ市内まで橇を滑らせる、悪ふざけをする様な貴族連中もいたのだとか。
アントワネットの作った橇も綺麗で豪華なモノだったそうですが、貴族達の乗る遊び用の橇ですから、きっと豪華に飾り立てた橇だったのでしょう。
貧しいパリっ子にしてみれば、豪華な橇がサーっと駆け抜けて行くのを見て「あんな豪奢な橇なのだから王妃に違いない」と思ったのでしょうね。
アントワネットの評判が悪い時代ですから、パリの街を王妃が橇で滑って行ったなんて、根も葉もない評判が立ってしまったんです
悪い事は、なんでもかんでも目立つ人のせいにさせられてしまうのは、今も昔も同じですね。
さて、何事も直ぐに熱中する割に、サッと熱も冷めてしまう王妃は、次の年には橇遊びも飽きてしまった様で、せっかく王妃の為に作られた橇は出番も無く片隅に追いやられていたとか。
その誰も使わなくなった橇を「これは私の橇だよ」と家臣に言って、恵まれない人に薪を配ったと言う逸話が夫のルイ16世に残されています。
幾ら国民が好きな王様とは言え、一国の王様にそんな暇があったのかしら?と訝ってしまいますが、ルイ16世の国民寄りの性格を物語るエピソードとしては、さもありなん、と言ったところですね。
人は誰でも、自分が生まれ育った環境が一番と思うものです。
フランスにお輿入れした時は、フランスの王妃になると心に決めたものの、アントワネットは堅苦しいフランスの宮廷作法には馴染めず、何かと故郷オーストリア式を取り入れたがったと言われています。
夫の兄弟仲の悪さを見るにつけ、自分の子供達には、伸び伸びと育ったオーストリアの様な環境の下で、せめて子供の間位は子供らしい時間を過ごさせてあげたかったのでしょう。
窮屈な王妃でいる事より、子供達と一緒に遊ぶ、優しい母親だったアントワネットが偲ばれる素敵なエピソードです。