夫カール亡き後、遺言に従って、チタと子供達は、スペイン王アルフォンソ13世を頼ってスペインに渡りました。
アルフォンソ13世はチタ一家を手厚く保護し、マドリード郊外のバルト宮に生活の場を与えました。
ここからチタと子供達の流浪の人生が始まるのです。
確かにスペイン王はハプスブルクの寡婦達に親切にしてくれました。
しかし、子供が成長するに従って、チタは子供達には王家の血筋に相応しい、世界に通用する人間になるべく、一流の教育を受けさなければならないと考えていたのです。
何故って?
帝国消滅後のオーストリアはナチス・ドイツに併合され悲惨な状態に陥っていたのです。
特にハンガリー等の東欧諸国はソ連の共産主義に組み込まれ、その住民たちは共産党員の恐怖政治の下、自由を奪われ、飢えと恐怖に苦しめられていたのです。
そして、その魔の手はオーストリアにも伸びて来ることになるのですから…。
チタの心には王政復古と言う幻想ではなく、一日も早く独裁者の手から祖国を開放し、国民が平和で豊かに暮らせる事だけを願っていたのです。
そして、将来的にはカールと共に夢みた、東欧共同体構想へ近づけたいと思っていたのです。
チタは流浪の人生を送っている時も新聞を読む事は欠かしませんでした。
世の中の動きをくまなくチェックし、帝国なくとも、ハプスブルク家の一員として東欧の和平に向けて、独自の活動を推し進める為、不屈の信念を燃やしていたのです。
スペインを後にしたチタ一家は、ベルギー、ケベック、ニューヨークと移り、多くの支援を得ながら8人の子供を育てあげ、講演活動や祖国オーストリアへの支援を続けていたのです。
「東欧諸国の経済力は脆弱な為、独立した個々の国家を統合する君主体制下で経済共同体を作るべき」これがチタと長男オットーの考え方でした。
オットーもオーストリアがドイツ帝国に併合されると、抗議文書をパリへ送るなど、国際的にオーストリアの支援活動を始めまたのです。
講演旅行をする時もホテルには宿泊せず、講堂や修道院の一室を借りなるべく旅費を押えたチタ。
そして、講演後は夜遅くまで支援の洋服や毛布、お金等を仕分けし、オーストリアに送り、生活苦に喘ぐ国民達の用立てとしたのです。
これ程まで祖国の為に動き続けたチタとオットーですが、国家は、2人に入国許可は与えませんでした。
そして、1940年。
40歳の時にチタはアメリカでルーズベルト大統領と歓談し、オーストリアへの支援の約束を取り付ける事に成功したのです。
・・・・・to be continued