マデイラ島での生活は極貧を極めました。
バターや肉を買うお金さえなく、一家は毎日ニンジンや豆、魚等の粗末な食事を強いられたのです。
それでも、いつの日か王座に帰り着く事を諦めず、子供達は数ヶ国語の習得が義務付けられ、皇帝夫妻によって、家庭内で教育は続けられたのです。
慎ましやか生活とは言え、一家が寄添い仲良く助け合い、また地元の住民達に助けられながら、それでも皇帝一家は幸福な日を送っていたのです。
しかし、心労と過酷な自然環境が祟ったのでしょう。
1922年、カールは赤貧の中、志半ばで帰らぬ人となったのです。
カール・ルードヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいと言う子供達を、町まで連れて行ったカールは、立ち込めた霧に濡れ、それが元で風邪を引きました。
この風邪が段々悪化し、医者に診て貰うにも医療費が心配で診察を受けずに放置してしまった為、苦しんだ挙句に息を引き取ったのです。
父と手を繋いでプレゼントを買いに行く途中、カールと子供達は1つの葬列に出会いました。
父親を亡くして泣いている子供を見て「パパ、あの子、可愛そう・・・・」と言って、父の顔を見上げた大公女。
まさか、その数週間後に、自分があの時泣いていた子供と同じ運命を辿るとは夢にも思っていなかった事でしょう。
カールが息を引き取ると、チタは気丈にも、長男オットーの肩に手を置き「皇帝陛下」と呼んだそうです。
遺体は粗末な棺台に乗せられ、その棺は一番安い荷車に載せられ数人の従者に引かれて教会へ向かいました。
馬車すら借りる事が出来ず、これがヨーロッパの名門中の名門と言われたハプスブルク家最後の皇帝の葬儀かと、参列する僅かな人々の涙を誘ったそうです。
・・・・・to be continued