宮殿を追われ、国外に亡命した皇帝一家。
亡命時の皇帝一家の所持金は7,000スイスフランのみでした。
暫定政府は、ハプスブルク家の所有していたシェーンブルン宮殿や女帝のネックレス等国宝、全ての財産を凍結し、皇帝一家にその一部すら支払われる事はありませんでした。
スイス銀行は一族や随員の滞在生活費、オーストリア政府から見捨てられた外地にいる捕虜達を本国に帰還させる為の救援金を、高利でカールに貸付ました。
実は、カールには祖国を追われる際、184,000,000スイスフランの弁済金を入手する事が可能でした。
これは外国の金融機関に保管されているカールの動産、不動産、宮廷財産や貴重品の総額でした。
しかし、この弁済金・・・元はと言えばカールの私的財産ですが・・・を得る為には、
① 完全に帝位を退く事。
② 旧帝国内に25年間足を踏み入れてはいけない
この2つの条件が付帯していたのです。
カールは金銭より皇帝の地位に拘りました。
自分は声明文に署名しただけであり、完全に廃帝はしていないと考えていたのです。
そして、経済基盤が整っていない、独立諸国を束ねて行くのは、その傘下で扶養してきたハプスブルクしかないと言う強い信念があったからです。
亡命後、外出時はスイス当局への報告義務がある程、自由を拘束されていたにも関わらず、皇帝夫妻は2度のオーストリア入国を試み、2度とも失敗に終わったのです。
オーストリア入国未遂の黒幕とされたチタ。
しかし、事実は違います。
チタはカールのオーストリアへの復帰計画を知ると、その計画の詰めの甘さを見抜いていたのです。
しかし、失敗したら最後。
何をされるか分からない為、妊娠中の身ながら、殺される事を覚悟でカールと行動を共にしたのです。
計画の失敗によって身柄を拘束され、拘束先からカールとチタはスペイン沖のマデイラ島に護送。
遅れて子供達もマデイラ島に送られました。
ここで皇帝一家を待っていたのは、灼熱の太陽による環境の悪さと貧困でした。
帝位に拘った為、生活の保障となる弁済金を受取る事が出来なかった皇帝夫妻に対して、チタの実家の所有物であるピアノーレ城の一部分だけがチタに返還されたに過ぎませんでした。
皇帝一家が、弁済金をフイにしてまで、帝位に拘った裏には、自分達の財産を引き出せる当てがあったから。
実は皇帝一家は以前から皇帝の財産管理をしていたシュタイナー男爵から、預けておいた財産を引出せるものと思っていたのです。
しかし、この時既に、シュタイナー男爵は一族の動産、不動産を何の権限もなしに売却し、行方不明になっていたのです。
・・・・to be continued