東西を問わず、お姫様達はある程度自立した考え方を持っていたと思います。
日本の姫君達や武将の奥さん達も、しっかりと自立して、時には弱腰になる男性を陰ながら支えて、それぞれ意義ある人生を生きたのだと思います。
レオポルディーネも、果敢に人生を生きた女性です。
19世紀、フランツ帝の次女として生まれた彼女は、凡庸なフランツ帝の子供達の中では、例外的に優れた女性で、教養も芸術的才能にも恵まれていたそうです。
後のナポレオン皇妃となる6歳上の姉マリー・ルイーズとは大変仲の良い姉妹でした。
優しいけれど、気弱で優柔不断、とても皇帝の器ではなかった父フランツの宮廷は宰相メッテルニヒが牛耳っており、皇女達の運命はメッテルヒにの手に握られていました。
皇女達はメッテルニヒを恐れて「M」と呼んでいたのです。
皇女達は年頃になると、Mの策略で姉はナポレオンに嫁がされます。
そして、レオポルディーネは既にザクセンの王子との結婚が決まっていたにも関わらず、ヨーロッパ大陸外への足掛かりとしてブラジルに宮廷を置いていた、ポルトガルのブラガンサ王家のドン・ペドロ王子の元へ嫁がせる事になりました。
未開の地である南アメリカ大陸へのお輿入れが決まった彼女は、悲壮感に溺れる事なく、結婚生活が始まると、同行したオーストリアの学者達と協力し合って、ブラジルの地勢、種族、自然の生態を調査しました。
野性的で自由奔放な性格だった夫も、レオポルディーネがみるみる内にポルトガル語を習得し、王子が歌うと彼女はピアノで伴奏し、馬での遠出や狩猟にも同行する優しい妃を得て、性格も安定し、理想的な結婚生活が始まります。
やがて本国ポルトガルからの搾取に反発を覚えていた王子がポルトガルからの独立を望むと、夫を絶えずサポートし独立運動を本格的に推進させ、ついにはブラジルの独立に成功するのです。
レオポルデイーネは、貧しい者や困った者に援助の手を差し伸べ、人々から慈愛に満ちた優しい女性として国民から愛されました。
しかし、幸せな結婚生活はそう長くは続きませんでした。
レオポルディーネの肖像画を見ると、素朴な可愛らしい顔立ちですが、姉のマリー・ルイーズと違い、艶やかな女性らしさが欠けており、どちらかと言うとずんぐりとして小太りな女性でした。
結婚当初は髪の手入れをするなど美容にも気にかけていた様ですが、段々余り容姿に気に掛ける事もなく、結婚数年後には女性らしさが大分失われてしまった様です。
すると夫は、女性的な魅力に溢れた女性を愛人にし、王妃の女官として宮廷に取り立てたり、愛人の子供と王妃の子供を一緒に育てるなど、彼女のプライドを平気で踏みにじる様になりました。
不幸な事に、レオポルディーネも7人の子供の出産ですっかり体力を消耗し、最後の子供を生み落す体力は既に残されていなかったのです。
異国の地で不幸な結婚生活の末にみまかった彼女ですが、ブラジル国民は生前彼女がしてくれた慈愛に満ちた行為を忘れる事はありませんでした。
永遠に彼女を「我らが王妃様」と讃え、夫ドン・ペドロはやがて悪政と亡き妃への非道ぶりが怨嗟の的になり、国外追放となるのです。
後にレオポルディーネの唯一の息子が帝位につくと、彼は母に似て賢明な君主で60年近く善政を行いました。
彼の美徳、無私と言った良い面はひとえに母レオポルディーネから受け継がれたものとして、彼女は末永くブラジル国民から称えられたのです。
別に誰に認めてもらいたい訳ではないけれど、いつも損な役回りなってしまう貴方。
「なんで私ばっかり」って時には思いたくなりますよね。
気づいてくれている人は少ないかもしれないけれど、でも、どこかで誰かが貴方の頑張りを絶対に見ています。