そもそもAちゃんのママと出会ったのはウチの息子が生後8ヶ月になったころ、入院していた病院でたまたま一緒になったのが始まり。

偶然同じ町に住んでると知り、連絡を取るようになった。

そのころはウチの息子は三歳まで生きれるのか!?という状態。

本当にいろいろあって…気が付いたら幼稚園。

幼稚園でも何故か一緒。

入園前のお試し保育で通う幼稚園を決めたんだけど、申し合せたわけじゃなく一緒になった。

Aちゃんの年子のお兄ちゃんがすでに通っていたそうだが、あとで知った。

で、小学校はそれぞれの学校へ通うことになったんだけど、市の就学前相談で地元の小学校の普通クラスでと決定が出たわけで、そのころまではウチの息子の体調も微妙で広汎性発達障害という診断がついていた。

入学してすぐに授業について行けないとわかり、夏休みになってウイスクⅢを受けることにした。

秋になって結果が出て、軽度と判定。

すぐにみどりの手帳申請へと動いた。

2年生になって算数と国語の通級が始まり、しばらくするとイジメに合った。

3年生になるとき校長が変わり、通級は認めないと言われて支援級になった。

そしてその年の11月に私が骨折入院。

4年生になって離婚して、就職した私が夜勤があって困るので、実家へ息子を預けた。

小学校卒業まで実家のつもりだったので、母校の校長はすぐに特別支援教員を呼んで担任につけてくれた。

元気いっぱいに田舎で過ごす息子は、地元の友人たちがみんなで見守ってくれ、すっかり地元の子とかしていたが…

田舎の母の体調が思わしくなく、私の仕事が在宅ヘルパーに変わったので、引き取ることになり市営住宅へ引っ越し、一昨日卒業した学校へと転校になったのが昨年の1月。

再びAちゃんと同じ学校に通うことになったが、教育委員会で支援クラスがある学校へ通学するように言われて、歩いて通える距離にあったのが今の学校というわけ。

Aちゃんは、2年生の時学校で頭部を怪我したらしく、学校と揉めた。

1年の時からイジメに合い、3年生になってもイジメに合うと、時々聞かされていた。

4年生から支援級に入ることになり、この時みどりの手帳をとることにしたらしい。

放課後は1年の時から年子の兄とともに学童に行っていたそうだ。

ウチも4年生の頃、少しだけ学童に通ったが、指の骨折やら何やらと怪我が多くて、あまり行かせたくなかった。

が、一昨日卒業した小学校で、転校してすぐに学童でイジメに合って登校拒否。

結局、5年生の3学期は1週間登校しかできなかった。

6年生になる前、震災があって一人にしておけないので、市内唯一の障害児のデイサービスを利用することにした。

すると、6年生からは登校できるようになったが、Aちゃんママから相談の電話。

学童を止めたいと…

結局、一緒に放課後デイへ通うことになり…

息子は2学期から通うのを止めた。

すると今度は同じクラスのR君まで通い始めた放課後ディ。

息子は一人でも留守番ができるので、合鍵持たせて鍵っ子して過ごした。

そしたら、今度は年末年始にAちゃんまで放課後デイを止める方向に…

障害児が増えて予約が取れなくなり、使い難くなったと。

放課後を自宅で過ごさせることに不安があるという。

病気がちな割に元気なときは多動傾向が強く落ち着きがないのである。

ウチの子は逆に小学校になってから風邪ひとつひかずに過ごせている。

放課後、震災直後の不安は消えた今は一人で過ごせる。

なので、中学は部活をさせて鍛えようと思っているのだ。

また、集団行動ができるので、宿泊学習も修学旅行も社会見学も問題なく普通クラスに交じって行ける。

Aちゃんは、いじめが理由で4年生から交流クラスに行っておらず、健康を理由に5年生の宿泊学習も行かなかった。

修学旅行も直前まで行かないと言っていたが、ウチの子が一緒だから行こうと誘って行くことになった。

一方、もう一人のR君も親が心配で5年生の宿泊学習に行かせなかったらしいが、修学旅行はウチもAちゃんも行くので三人そろって参加となった。

R君の親は、どういうわけかみどりの手帳をとっていないという。

ま、それぞれの親の教育方針があるのだと思うけれど、手帳があれば放課後デイとかショートも利用可になる。

私は一人で子育てしているので、いろいろ使える方が便利なのだけど…

ウチは自立させようと思っているので、なるべく自分で出来るように持っていきたいのだ。

ただ、何かあった時のためにサービス利用できる手帳は持っていようと思っている。

だけど、ウチの子が出来る事はAちゃんやR君に真似できるのか?というと、出来る事と出来ない事があると思う。

家庭環境も違うわけだし、同じである必要もないと思っている。

障害名は同じであっても特徴や性格は様々で、顔や体格が違うように同じではないと...

でも、それが嫉妬や妬みになる。

今回の事はそれがよくわかった出来事だった。












逆に相談を聞いてしまった...orz

幼馴染みとは小学校からの付き合い。

いわゆる竹馬の友というやつだ(笑)

そんなわけで、何かとお互いを知っているので、相談が愚痴になり、愚痴が相談になってしまう。

今回も私が愚痴りたくて久しぶりに電話した。

が、なぜかいつものように、いつの間にか聞き役に...orz

結局、人の相談事や悩み事を聴いていると、鬱々とした気分も晴れて忘れてしまう。

毎度のことながら笑ってしまう(笑)

コレが関西人の気質なのだろう。

友人は言った。

苦労をしていると…

けれど、人生は楽しい事より辛く苦しい事の方が多いもの。

そういうものだと話した。

生きているといろいろあるさ…とね(爆)








昨日の卒業式で皆から避けられました。

2週間前、疼痛の睡眠障害で無呼吸症候群の疑いがあり、お試しでデパスを処方されたのですが、そのことをママ友(看護師)に話したら…

まあ当然の結果でしょうが、誰も目を合わせようとしませんでしたね。

ホント、マジで死にたくなりました。

精神科通院→基地外ということでしょうか。

いっそ末期ガンか膠原病(ベーチェットの疑いあり)でも認定されれば、まだ救われるんだけどね...orz

今日は本気で具合が悪いっす。

久々にMAXで痛いわ~~~しょぼん汗


昨日の卒業式は冷えた。


帰り際には雨降るし、マイッタガーン











どうなんだろうか!?と思う。

何の話かというと、4年余りもの間痛み続ける右腕の事だ。

骨折当初、普通に立って歩ける程度の痛みだった。

が、手術日までの間の固定しなくてはならないのだが、シーネをするためにいったんギプス固定するのだが、その前段階に折れて歪んでずれた骨を補正しなくてはならず、X線による透視を行いながらゆがみを治していく。

コレが言葉にならないほどの激痛である。

よく女性の陣痛は男性には耐えられず失神するというが、それに匹敵する激痛であり、要するに麻酔無しで外科手術を受けているようなものと思って間違いはない。

2~3度ほどチアノーゼをお越し、数時間にもわたる処置を立位のまま(通常は寝台に横になるか座る)行い、地下1階のフロア全体に響き渡る叫び声を上げつつ、涙と大量の汗をかいて終了したのは、病院に担ぎ込まれて6時間が経過していた。

その後私は病棟に移動になったが、激痛と高熱で数日間動けなかった。

そして1週間もすると痛みはあるモノの、歩いてトイレにも行ける状態であり、右手の指先は動いて感覚も普通にあったのだが…

10日目の朝、自分で点滴をガラガラと左手で押して徒歩で手術室に入り、寝台に横になった。

それが、手術の翌日から再び高熱と激痛...orz

やがてヒリヒリと焼ける痛みに…

疼くような痛みや虫が這いずり回るような痛み、電気が走る痛みに…

退院後、1年経っても治まらない腕の痛みに耐えかねて、いろいろな診療科や病院を回ったけれど、大抵の医師は「リハビリを急ぎ過ぎ」と言われた。

必要以上に負荷をかけ過ぎだと、それがいつまでも引かない痛みの原因だと言った。

でも私はそれはただ単に、医師が責任転嫁を理学療法士に向けているものと思っていた。

ある時までは…

でも、病院をペインに行先を変え、PTをOTにかわり、無神経なリハビリ医の言葉で通院を止めて、今思うことは...

痛みが引かない原因は、そもそもの原因を作ったのは執刀医であり、その後の経過観察では痛みを無視したリハビリが行われていたということで、それは医師が治療を放棄したということなんだと、他所のいい加減な処置をしたデタラメな術後の患者を、ペインのリハビリ医は診ていく気が無いということだと思った。

結果的にペイン医が言うように、長く放置した疼痛障害の根治は難しいということだろう。

結局、他が痛むのも最初の処置がまずかったせい。

「医者には治せない」が本音だろう。

本当、一生この痛みとは付き合っていくしかないのかもしれない...