明治150年記念事業 大磯別荘公開 後編

 

大隈重信邸は、古くからあった家屋を購入され、大正12年9月の関東大震災では陸奥邸が倒壊、大隈邸の倒壊はなかったと、ある筋から伺った。

 

 

 

ボク石を使用した作庭地で知られている都内の庭園といえば、旧芝離宮と旧古河庭園の二例が挙げられる。多孔質の溶岩石の特徴として鈍鋭角質の両極の性質をもち、石どおしの密着度が高く組積に適し、苔乘り易く加工造形組みやすい素材として旧芝離宮大久保忠朝の上屋敷内に作庭として使われている。

 

また、根府川石は、江戸時代には関東の名石として板碑、庭の構造石、標識などに用いられてきた。箱根古期外輪山溶岩の一つで、きめの細かい輝石安山岩で石質はとても固く、板状に節理が発達している。

 

陸奥邸、大隈邸に使われている石材等をみると根府川石とボク石が主に使われその他は、相模川系玉石であることに気が付く、使われている材料は敷地スケールに対してもやや小ぶり。この点について何に影響されているのか考察してみた。その一つは石材供給側の整備が満たしていなかった。二つめに搬入経路の不整備、三つめは搬入手段の不整備が影響していたのではないかと考えてみました。

 

そこで当時の機械史を調べてみます。

 

建設機械史 http://hw001.spaaqs.ne.jp/geomover/hstry/hstry.htm#m0 引用

建設機械史のサイトを見ると日本国内の民間住宅に於ける建設機械導入は1945年以降顕著な発達をとげるが、戦前までは人力に頼らぜるを得なかった状況がある。

 

大正10年頃から昭和初期にかけては、労働力不足から各地で機械化が進展し、昭和に入ると建設機械の内燃機関化も始まる。昭和初期、大恐慌による失業匡救事業と公共事業が活発化するが、不況下の雇用対策により機械使用を禁止した。このため機械化は中断というより後退する。また、昭和7年頃よりの戦時体制で、公共事業は不急不要事業として凋落期に、建設機械化も終焉。満州・朝鮮の一部では機械化を続行。

 

この時期米国では日本と逆に、ニューデール政策等の不況対策と、同時期のブルドーザやスクレーパ、モータグレーダ等の出現と相まって、機械化施工が革命的に進展する。しかし、これらの機械は国内では知られず、彼我の差は20・30年位になってしまった。太平洋戦争が始まり、南太平洋の飛行場建設競争で、昭和17年に初めてこれらの革新的土工機械に出くわすことになる。急遽、研究を始め、模倣機械を製作するが、実用的なものは戦後に再挑戦することになる。

 

戦後は、米軍の払下げ機械でこれらの機械化施工を始め、建設省直営工事等で国産機械を育成した。昭和30年代は、大手ゼネコンが建設機械部門を拡充、昭和40年代に機械保有が専門工事業者にシフトした。とあります。

 

明治6年 本邦初の土木寮建設局深川摂綿篤(セメント)製造工場が完成(米国より僅か2年遅れ)明治14年 小野田セメント設立。現在では当たり前のスコップ、シャベルの国内生産が明治26年(1893)はじまり、明治27年8月~28年日清戦争、この戦勝による賠償金が我が国の社会資本整備に貢献した。その後大正3年~大正7年(1914~1918年)第一次世界大戦の大戦が日本の産業界に大繁栄をもたらす。

 

昭和初期(1926~1934)昭和に入ると機関車運搬から次第にトラック運搬が増加する。1929年(昭和4年)10月 ニュヨーク株式大暴落、世界大恐慌始まる。米価・生糸価格崩落昭和5年(1930) パワーショベルを製作、日立鬼頭製作所に於けるチェンブロックの開発は86年前昭和7年(1932)になる。戦前の3tチェンブロックは人力で上げる事は不可で1tのチェンブロックでハッカーに掛けていたと先代より聞いている。

 

土木重機略史

明治3~5年(1870~1872)新橋~横浜の鉄道建

明治3年(1870)10月~7年5月神戸~大阪の鉄道建設

明治5年(1872)9月 新橋~横浜の鉄道開通

明治6年(1873)本邦初の土木寮建設局深川摂綿篤(セメント)製造工場が完成(米国より僅か2年遅れ)

明治9年(1876)3月(1976) 廃刀令

明治10年(1877)2~9月西南の役9月西郷隆盛が鹿児島城山で自刃(西南戦争終了)8月モース大森貝塚発掘

明治11年(1878)5月 内務卿大久保利通暗殺

明治14年(1881)12月日本鉄道会社(私営)設立小野田セメント設立12月~24年9月上野~青森の鉄道建設

明治18~23年(1885~1890) 琵琶湖疎水事業

明治26年(1893) ショベル、スコップ等の国産を開始

明治27年(1894)8月~28年 日清戦争 この戦勝による賠償金が我が国の社会資本整備に貢献

明治36年(1903)ライト兄弟の初飛行(16馬力複葉機)

明治37年(1904)2月~38年9月日露戦争戦費の圧迫から社会資本投資が大幅に減少、自動車の初国産明治

明治38年(1905) 吉田式ガソリン乗合自動車

明治39年 (1906)3月 鉄道国有法公布これにより、百数十社(17社)の私鉄を国有化し、統合運用(8,000km)

大正3年~大正7年(1914~1918)第一次世界大戦 この大戦が日本の産業界に大繁栄をもたらす

大正末期 小型スチームショベルが多数導入される。

昭和初期(1926~1934)昭和に入ると機関車運搬から次第にトラック運搬が増加する。

昭和4年(1929)10月 ニュヨーク株式大暴落、世界大恐慌始まる。 米価・生糸価格崩落

昭和5年(1930)パワーショベルを製作、日立

昭和16年(1941)12月~20年8月 太平洋戦争

昭和18年(1943)1月 本邦初のブルドーザ 軍需産業期

 

なんと国産スコップが生産されたのが明治26年!意外の意外でしたね。

 

 

旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。

 

旧芝離宮恩賜庭園は江戸幕府の老中・大久保忠朝の上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園である。作庭当時は海岸に面しており、浜離宮恩賜庭園同様汐入の庭であった。現在では周囲の埋め立てとビル群により海の眺望は失われた。

 

一部が鉄道の増設用地に提供され面積が狭くなった。根府川山は大久保忠朝の藩地小田原から運び入れた火山石などからなる山に使われている事で目視できる。

 

 

 

 

 

延宝6年(1678)、老中・大久保忠朝が芝金杉の地を拝領し、屋敷を構える。

貞享3年(1686)、大久保忠朝屋敷内の庭園楽寿園として作庭される。

文政元年(1818)、大久保忠真が邸地を返上、堀田正功が拝領する。

文政4年(1821)、堀田家が邸地を返上、御用屋敷となる。

文政6年(1823)、清水家の下屋敷となる。

弘化3年(1846)、紀州徳川家が拝領、同家の別邸となり、芝御屋敷と称された。

明治4年(1871)、有栖川宮熾仁親王邸となる。

明治8年(1875)、英照皇太后の非常御立退所として皇室が買い上げた。

明治9年(1876)、芝離宮となる。

明治24年(1891)、迎賓館として洋館を新築。

大正12年(1923)、関東大震災で洋館焼失。

大正13年(1924)、昭和天皇の御成婚を記念し、1月に東京市(現東京都)に下賜され、園地の復旧と整備を施した後、4月20日、旧芝離宮恩賜庭園として開園。

昭和8年(1933)、史蹟指定を受ける。

昭和54年(1979)、文化財保護法により名勝指定を受ける。また、この年から入園が有料となった。

 

旧古河庭園

 

旧古河庭園(きゅうふるかわていえん)は、東京都北区にある都立庭園1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定され東京のバラの名所として親しまれている。

 

1956年(昭和31年)4月30日に都立旧古河庭園として開園。面積は30,780.86m2(平成26年10月1日現在)。公園種別は特殊公園(歴史)。平成25年の年間利用者総数は237,257人。1982年(昭和57年)8月、東京都名勝指定。2006年(平成18年)1月、国指定文化財(名勝)指定。

 

 

 

 

材質神奈川県平塚市博物館【石材ウォッチング】より

 

富士溶岩

 

黒色多孔質の玄武岩溶岩で、溶岩流の上下のガサガサ部(クリンカー部)を利用したもの箱根赤ボサとは色調と多孔質な点で区別されます。一般にカンラン石斑晶が少なく、斜長石斑晶に富むものが多くみられます。山梨県鳴沢村等で近年まで採取され基礎や縁石としてよく利用されています。

 

根府川石

 

画像は根府川石採石場 亀川石材店協力

 

白ボサ石組作例 作成年1980年頃

 

画像は、珍しい白ボサ石の石組。赤ボサ石は暗褐色~赤褐色のごつごつした溶岩(復輝石安山岩)ですが、ほとんど発砲していません。岩石学的には小松石と同質です。暗褐色との縞模様(溶岩の流れを示す流理構造)を示すものも見られます。黒色で多孔質の富士溶岩とは区別がつきます。一般に塀の基礎や植栽基礎に利用されます。

この赤ボサは小松石等の溶岩流の最上部や基底部(クリンカーという)にみられる多孔質のごつごつとした赤褐色の溶岩を赤ボサと呼びます。一般的には赤渇色系が多いですが、暗灰色との縞模様をなすものも見られます。塀や生垣の基礎によく使われます。富士溶岩のクリンカーに比べて発泡が極めて悪いのが特徴です。

 また、小松石に似た赤褐色の肌を持ち、斜長石斑晶に非常に富む切石があります。これは赤ボサ溶岩の比較的緻密な部分の切石です。

 

 

 

 

石碑によく使われ、褐色で厚手の板状に割れた緻密で、斑晶の少ない安山岩です。板状の外観は溶岩が冷却する過程で板状に割れたもので、板状節理といいます。この滑らかにやや弯曲する板状節理の自然面が、根府川石の特徴。

 

斑晶はほとんど目立ちません。石碑では一面を研磨すると小松石に似ていますが斜長石斑晶(2mm以下)は小松石に比べて極めて少なく、非常に緻密です。(小松石は49頁参照)。根府川石は石碑の他崩れ積みの塀基礎[ロ67] .飛び石[口125, 126] .道祖神[口107]等にも利用されます。根府川石は小田原市根府川·米神間に分布する根火山の古期外輪山溶岩流で、かつては根府川で採取されていたが、現在では北側の米神で採掘されいます。 

 

材質神奈川県平塚市博物館【石材ウォッチング】より転載

 

以下は、昭和20年(1945)頃普請の茅ケ崎の園庭(撮影年1982年頃)、当時の手法の一つ、三つの築山滝口部分への設えに安山岩系の玉石に荒々しさを表現するための黒ボク石が施され、明治後期から大正、昭和なかば頃までの流行の材料であったことがうかがえる。

 

 

 

 

 

明治150年記念事業 大磯

かねてより、告知されていた明治150年記念事業の一つ明治期の別荘公開に伴って今月2018年11月6日、寒川図書館から大磯郷土資料館に行く前に陸奥宗光・大隈重信邸の公開先を訪ねた。

 

大磯町HP

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oshirase/1539051165330.html

 

陸奥宗光、明治27年(1894年)に大磯別邸を構える。明治30年1897年54歳で死亡、死後陸奥の次男・潤吉の養子先古川家に引き継がれた。わずかに3年、したがって陸奥邸というより古河邸といったほうが正確であり旧陸奥宗光邸といった名称の方がふさわしいかもしれない。

 

大隈重信、明治30年(1897年)に大磯別邸を構える。陸奥宗光に隣接している二人は犬猿の仲であるが、陸奥の死亡は同年なので二人が顔を合わせる事はなかったと考えられる。

鈴木博之『元勲・財閥の別邸』

 

陸奥宗光邸

方向的には陸奥邸、大隈邸どちらが先でも境界無く行かれるので陸奥邸から訊ねた。いずれも屋内には入れないので園庭から望む。おそらくは陸奥邸、大隈邸樹木が低かった当時、遠く大島や伊豆諸島、江の島と遠望出来たのだろうと思われます。

 

 

 

園内には蹲踞、井戸囲いがあり、一つは南方向に滝口へと至る設えになっている。が、井戸囲いに至っては砂地故、自然排水、蹲踞にいたっても流れた水はすべて蹲踞の海に吸い込む様になっており、凡そ滝口へ流れは所謂枯滝の仕様となっている。

 

対岸の小さな雪見は小さい足元燈籠。

 

 

 

役石は火成岩系安山岩、蹲踞海周り縁石は安山岩質凝灰岩

 

 

渡り石や縁石に使われている石は近郊近在の安山岩系凝灰岩で近郊の材料と推測される。滝組を見ると根府川石とボク石で組まれた滝組となっており特徴的には砂地に設けた滝口で高低差があるが故に段落ちの滝組となっている。

 

根府川石の特徴から薄く剥離した特徴、岩盤掘削状況に近い組み方が地域技術として特徴的に見られる。そのうえ火山岩であるボク石を配し滝口の荘厳さと険しさを表しているが、降りてきてもツツジが大きすぎて、なかなか発見できなかった。つまりツツジの成長を計算したものではないといえる。結果的には枯流れの中に分け入ってみないと滝口が見えない。瀑布に使われた根府川石の根入れが浅く、斜面の土圧によっては崩壊も考えられるがモルタルで止めている事でモルタルの接着性を過信している風潮はこの当時あったのかもしれない。

 

 

 

 

 

根府川石(小松石)採掘場に於いて、根府川石を採掘するにあたり、先ずは植物の繁茂する堆積土壌の下にボサ石、その下位に根府川石がある。小田原周辺の土留に於ける組積姿は採掘現場を思わせる組積がうかがえる。陸奥宗光邸の滝組を見ると根府川石とボク石で組まれた滝組は、瀑布面を根府川石、その上部層いわくボサ石ではなく、黒ボク石で荒々しさを表現していると想像できる。

 

 

 

 

画像は根府川石採石場 亀川石材店協力

 

 

 

 

陸奥宗光邸と大隈重信邸は共に隣接しているので幾つかの疑問を感じながらの内覧でした。当時、持ち主の異なる敷地、境界際がどうであったのか。それと使われている石材スケールが通常サイズのものとこのスケールでこの小さい素材(石材)という違和感を感じながら園内を散策した。

 

もう一つ特徴的なのは、ボク石の接着にモルタルが使われている事。それと石の据え付け根入れが浅い事が第一印象に感じた。今まで旧芝離宮に見られるように溶岩山の表現から組積という積み上げる技術手法として取り入れている事があげられる。住宅庭園や富士山信仰に素材として神奈川近郊の庭造りに欠かせない材料として大正9年(1920年)前後より取り入れられた素材の一つとして流行の材料であったことが認識できる。

一つには、小さなボク石を使って大きな築山を表現するという組積性の特徴を生かし、住宅の庭に使われてきた。そして、関東大震災後の住宅壁を変えたのはモルタルの登場ともいえる。漆喰ではなく間柱を露出しないモルタル塗装工法によって火災の延焼を防ぐ素材と意匠に特徴を見出す事ができる。

 

一方屋外の作庭に於いてもより崩壊を防ぐ手法材にモルタルが使われる画期的な工法を見出す事になる。

 

幕末からの動乱や廃仏毀釈や神仏分離、上知令の影響でどの様にしていたのだろうか。そうしているうちに出された資料が昨年2017年に出た京都大学学術出版会:京都の庭園 上

www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784814001019 

 

京都の庭園 上. 御所から町屋まで. 飛田 範夫氏のご本。さすが飛田先生よくお調べになっています。今回かなり参考になりましたが、植熊の存在は今一つ明らかになりませんでした。

 

翌日、6日にお会いした植彌加藤博士もご存じないという事でした。是非次回、機会があれば植熊さんに直接聞いてみようと思います。

 

京鋏大覚寺

大覚寺の鋏は1973年昭和48年口清が廃業し、京都太秦、大覚寺の近くで野鍛冶をやっていた野中氏。周辺には植木屋も多く、鋤や鍬鉈などの注文も多かった。当時、口清や正隆の鋏はでっぷり太く握っていたらタコができるようなつくりであった。野中さんの工夫で鋏を作り上げる。

 

口清の鋏は実際太目で自重があり、打ち鳴らした時の音もいい。例えが良いかどうか判断しかねますが、リーガルの靴の様に程よく重さがあり安定感を感じます。30年前に使っていた鋏の重さは252g通常の重さは250gと思っていい。重春246g口清270g大隅297gとすると口清の鋏は20g重い。270gの目安はUCC 上島珈琲店 ミルク珈琲 270gとほぼ同じ重さ。

 

ちなみに、およそ10gの目安はミニトマト(プチトマト)一個に相当するらしい。

 

 

大隅細足252g

 

重春246g

 

口清270g

 

大隅全鋼297g

:今までの切箸と同じ重さで切り口の綺麗な鋏を作ることに成功。

 

キリバシ8寸で255gこれはあらまし想像ができる。

 

焼き入れして強度を増し、華奢ではあるが剛性がある。

 

7.5寸で237gのキリバシは、バランスの取れた大きさになっていて使いやすいですね。

おそらく手入向きの大きさと云えるかもしれません。

:刃の寿命となると、刃先だけ交換した。

 

これについては、ブログにあるように慣れた持ち手に固執したため溶接で刃の部分を付けた。

 

溶接の技術が素晴らしい技術だと想像できます。作業場に勾玉の様に下がっていたのを確認しました。

 

馴染んだ持ち手と刃が交換出来たら理想的だと思いますが現在では無いということは、鋏の使用頻度が低くなっているという事だろうか。

確か30年前の一丁の値段はたしか8000円ほどだった記憶があります。

 

どうしても材料や政策手間を考慮すると親方一人工分以上の制作価格はかかりますよね。

 

大覚寺の初期の鋏は丸棒のかしめでなく、大きさの違う片方だけ回るかしめだった。

これは「かち込み」といって、片方を止める技法で播州物に多い技術です。片方を止める事で芯金を打ち丸め易い工程の一つであったろうと考えられます。

 

もしかしたら口清さんの初期は「かち込み」だったのか、という疑問から質問しました。が、そうでもなかったようです。お客さんからの要望で、芯金を途中から7mmの丸棒に製法をチェンジ。

 

鋼に軟鉄を付ける。

これについては、鋼の厚みと裏スキに関係していて、厚みがないと裏スキが出来ないのと厚みと重さを軽減するための工夫だったと推測できます。ご存じのとおり京鋏は当初からガタガタに出来ており、堺の鋏面で切る構造と比較すると京鋏は点で切る構造といえる。その時、口清さんが云っているように「噛みださない事」というのは、空握りの際に握り締めた時、刃どおしが噛合う事を指し、お互いに鋼の剛性と裏スキ部分と擦りあう併せの微妙な部分が働いて切断に至っていることになる。

 

 

画像は、京鋏三態、左側が口清型(神戸型)といわれる形、ツル部分を取ると素直にキリバシになる。右側の胴長タイプはこれよりももっと長い胴長を希望されることがあったそうだ。(重春の当主談)

 

 

 

現在の京都に現存する京鋏を見ると重春・大隅・野中これらの特徴として鋏が回転する構造になっている。

これについては、鋏を研ぐ際大変便利な構造となっている。

 

芯金が丸棒の特徴をいうとある程度使い緩くなったころ回るようになる。この構造に慣れると手放せません。