脚立のたて方(三脚)

えっと、もう分かってるし…….。と、ベテランの方から叱られそうですが、今回は脚立のたて方です。

 

意外にもこのブログでアクセス解析ランキングに出てくる記事は「丸太差し込み 梯子掛け」が常にトップです。

 

なので、今回は脚立の掛け方について

 

世の中いまだに判らない事はあるけど…….。釣りそこなった魚を此のくらいとか、こんな奴だったとか、もうやめよう。しかも怪我につながることだし、21世紀だし現象や感じとか、感覚で伝えるのではなく計量とか数値で伝えられるのであれば解り易いと思うのです。

 

 

脚立、自身も見様見真似から入ったものです。3年ほどの経験から安全性を体得しました。だからといって昔と異なり若衆には安全管理上、理論から教えるべきだと思います。

脚立のたて方はこの歳になるまで今まで同業者からの納得のいく説明はありませんでした。結果的にこんな感じとか、いつの間にか配置説明に転化している。

 

そして、脚立の掛け方でモーラできる箇所をみればその人の腕がわかります。

 

なので脚立を制すもの手入れを制します。

 

危険回避と効率性の要点

1、危険、斜面高い方から低い方へは掛けない。

2、足の掛ける方向、慣れるまでは振り子方向(垂直点)に従う。

3、危険、15度の角度、開いた角度は30度。地上を0度としたとき75度の角度を保つ。

4、危険、直角三角形に配置しない。

5、安全と効率性、対象箇所、頂点は正面に、右利きであれば左方向奥から掛ける。

 

以前、ブログでゲシュタルト心理学・群化「経験の要因」と白砂石組みに於ける心理効果 5で脚立のたて方を紹介しましたが、いま一つ理解されにくい様なので改めて説明する機会を設けました。

 

最近、YouTubeで脚立のたて方を紹介していますが、効率性についての説明が多く、つまり作業効率上たてる位置や場所の説明はされても、どの様に立てるのか安全性を含め考慮した設置説明が不足しているので文章説明で出来うる限りの解説をします。

 

MOSS  脚立の安全な使い方【三脚と四脚】

https://www.youtube.com/watch?v=3UD7ClLB-PI

ピカ安全啓発チャンネル 三脚脚立の啓発

https://www.youtube.com/watch?v=xr-aTuiZo2Q

作業スピードを圧倒的に上げる【脚立】の立て方

https://www.youtube.com/watch?v=EjQzkG7LmKc

 

模型脚立の形状は、梯子側巾90㎜、高さ180㎜の割り箸で作られた脚立。

 

 

なので、まず何をどうすると危険かを示します。

足部分が滑ると画像の様になります。

足部分がコンクリートやアスファルト舗装だったり表土が凍って滑った時は冷や汗が出ます。同時に刈込鋏やら刃物を持っているので注意が必要です。竹丸太の脚立を使っていたので意識はしていませんでしたが、アルミ製の足可動タイプにもクサリが付いているので滑動防止に注意しましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=Zp-eqYRmrAg&list=PLMGgWKK4n1jevcyrHKI03jT4PJXwNqcW_

画像参照

 

 

1、斜面の場合、高い方から低い方へは掛けない。

前後起伏の場合、掛ける樹種や枝つくりによって異なりますが、直接足を掛けずに脚立をハシゴの様にかけるケースもあります。

斜面の場合、掛け下り(下り足)の場合、そもそも開脚角度下り足が15度を超え危険。

 

掛け登りは逆にアルミ製脚立に足の長さを調節して15度程度を保てる様にする事で危険を回避することができる。このケースの場合は、昨今のアルミ製の脚立の中にも足の高低調整が出来る脚立も出ています。

 

 

2、慣れるまでは振り子方向(垂直点)に従がおう

左右の起伏の場合

次に起伏や高低差のある場所では赤いラインの方向で安全な角度であっても画像の様な場合、左側足部分から右方向へ倒れることになり、たいへん危険な状況となる。

 

この場合、青いラインの位置に足がくる様にします。この足の方向は重りや下げ振りが垂直に示している方向に足を置くと安定がはかれます。

脚の高低調整の出来ない場合、必ずしも駒が水平にならず上りにくい事もありますが振り子に従って方向を定めてください。

 

画像の鎖方向は下げ振りと同じ様に垂直に真下を示している。右の画像は上からの画像、十字部分が足の方向になります。

 

3、15度の角度、開いた角度は30度。地上を0度としたとき75度の角度を保つ

 

次は角度、次の画像は水平面に立てた脚立の画像、横から見た時の鎖と開いた足の方向は15度の角度、開いた角度は30度。地上を0度としたとき75度の角度になります。

 

 

重力は常に下に向いているので、重力の掛る方向に足が無いと倒れます。次に斜面の場合は斜面上側に支える足、下に梯子側になる様設置します。そして、梯子部分は地上水平部分の場合15度になるよう務め、それ以上それ以下が過ぎると前後のバランスが崩れ倒れます。

 

 

 

 

4、直角三角形の配置しない

 

三点支持、安定性の証明

結論からいうと、それぞれのABC足の位置が水平面で正三角形であれば安定の三角形。

 

直角三角形のABC配置では倒れる。

 

 

 

5、対象箇所、頂点は正面に、右利きであれば右方向奥から掛ける。

 

効率性

作業効率利点1、対象物に近づける

つまり、四脚と比較すると前足一本、枝中に立てる事で作業する部分に近づける利点、

作業効率利点2、現場の起伏にも対応できる。

掛ける足場が起伏やデコボコでも三点支持を安全に設置できる。

 

脚立、道具の目的

この道具がいつ、何処で発生したのか記録もなく故上原敬二氏の造園大辞典にも構造説明と対象部分への対処器具の説明がなされている。固定されたハシゴの領域外、移動可能で樹冠整姿等を目的に造られたハシゴ。地盤地形に対応可能な三点で支持され、三角すい状のハシゴを脚立いう。

 

さて、この脚立を数学的に解説説明する。二点を定めると一本の直線が引ける。そこにその直線上にない一点を定めると、一つの平面(三角形)が指定できる。つまり、ある平面を示したかったら三点あればよいという平面三角形の証明。

 

数学的に考えると、3点が一番安定する。根拠は、「3点を通る平面は、1つしか存在しない」したがって、少しでもずれていると安定した平面を作れないので、必ずしも地面が平面なところで使うわけではない脚は3本にすると安定する。現実、私達の現場では総てが平面とは限らないので実際はもっと複雑な地形に三点に設置しなければならない。

 

つまり、数学的な証明だけでは脚立は立たない。何故三点なのか判ったところで何故安定するのかの理由を説こう。ほぼ平面に自立している姿は、数学的な説明で3点の安定が図れる。しかし、一点地盤の起伏で設置位置がその場所である場合、数学のいう三角形の証明だけでは自立しない。

まもなく開催される東京オリンピックを前に.......。

 

1964年、東京オリンピックの前後が高度成長期の前後、このころから住宅地開発や観光産業といったレジャー施設、車社会、新幹線といった夢の様な社会と共に育った私。

 

https://natalie.mu/comic/news/153011

 

そういえば子供の頃みていたマンガ、六つ子である『おそ松くん』(おそまつくん)松野兄弟とその周囲の人間たちが織りなすドタバタを描いたギャグ漫画『少年サンデー』に1962年16号から1967年33号まで連載されていた。

 

自身が5歳ころからの掲載なので初期の連載は記憶にないが、フィクションながら当時の貧乏や億万長者といった内容がペーソスとして自身には刺激的なマンガでした。

 

『おそ松くん』(おそまつくん)は、赤塚不二夫とフジオ・プロによる日本の漫画作品。『天才バカボン』以前に描かれた作品で、赤塚のギャグ漫画家としての確固たる人気を確立した。Wikipediaより

松野家は父・松造さん、母・松代さんと六つ子の8人家族。六つ子である松野兄弟、おそ松 カラ松 チョロ松 一松 十四松 トド松、子供ながらに誰がおそ松で誰がちょろ松なのか、六つ子でほぼ同じなのでいま一つわからなかった。(笑)

 

いずれにしても後に調べるとまず、名前がひらがなはおそ松のみ、カタカナが3人、漢字が2人と統一感がないのも今となっては不思議だ。

 

そして何故六つ子なのか?

 

当時よく言われていたのが、貧乏の子だくさん。

 

自身の兄弟は2人、長女が存命であれば自身はこの世に居なかった。かもね.......。

 

 

そうそう、本題に入ろう。今回、何故おそ松くんを枕にしたのか.......。

 

最近目にした幹途中で切られている松、何故そこで切る?しかし永く手入された松、この歳になるとご時世が少しずつわかってくる。

 

金持ち三代続かず.......。この慣用句もここ最近よく理解が出来る。

 

相続や施主の事情、世代交代で人生は様々だ。

 

住宅地を見ればあたりまえの様に庭のあるお宅が一世代を境に一気に色褪せてきた。

 

焼け野原に高層ビルが建ち、通勤圏内に家と庭を持つ、時代はまさに高度成長期の象徴ともいえる。

 

それがここのところ、いきなり幹途中で切られている松を見かける。

 

水落親方と電話で会話中出てきた名称、途中で切られた松の姿がなんとも「出光」っぽい!

 

そう幹途中で切られ出光の字に似ているのでおそ松くんにあやかって「出松」と命名した。

 

 

まぁまぁこの形状に於いてはそれなりの理由があるに違いない。

 

経済的な理由、施主が亡くなる。

 

世代が代わって好みが異なる。

 

様々な理由から飛ばされてしまう。

 

最近ではいきなり松が枯れて茶褐色の葉を貯えている松も暫し出会う。

 

寂しい限りではこの先、手入の美しさや整った樹形、個性的な樹形の松は限られた場所でしか見られなくなるかもしれません。

 

しかし、この日本振り返ってみると禁門の変でボロボロになった京都、地震で焼け崩れた関東大震災や阪神大震災、焼け野原になった東京や各都市、そして東北震災。

 

犠牲になった方々の礎によって日本はその後、たくましく復活しています。

 

東京オリンピックから57年、コロナ後の日本人は寡黙に希望を持って働けば必ず復活する事を知っているはずです。

 

ガンバレ出松!

堺打ち、三吉 両手鋏

 

2021年4月半ばヤフオクに笹刃、特徴のある木柄の両手鋏を見つけた。

 

オヤ?

 

見た限りでは肩が細いので竹差しでは?と

木柄?

 

竹差しと思われた木柄の両手鋏、これどう見てもオヤっさん(正定)の両手鋏です。

 

確認の為に水落親方(河内長野鋏鍛治)に再度確認…….。

 

間違いないですね。これ、オヤっさんの若い頃の両手鋏です。

 

という事で落札。

 

到着後の確認

刻印は堺打ち三吉とあります。

 

三吉.......。坂田.......

 

堺....... 三吉。

なんとなくゴロが…….。

 

坂田三吉

wikipediaには堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市堺区協和町)で出生。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。

 

(・_・D フムフム、

誕生地舳松村は仁徳天皇陵に近く、鍛冶屋町にもごく近い地域で坂田三吉の馴染み深い場所と言えます。

 

堺打、三吉。なんとも堺らしい刻印です。

 

私らの父親の世代、大正から昭和初期の人であればおのずと連想する「王将」

 

今だと餃子の「王将」かもしれませんが、父親世代では村田英雄の「王将」と    阪東妻三郎、阪妻の「王将」映画でしょうか。

 

阪妻、映画「王将」

 

 

 タイムリーなニュースでは阪妻の子息田村三兄弟の田村正和さんが先日お亡くなりになりましたね。77歳、ご冥福をお祈りいたします。

 

今や将棋界は藤井聡太七段の活躍で将棋界の追い風になり、将棋を指す子どもたちも増えたと言われています。

 

そして130年前にも将棋の虜になった少年、坂田三吉。

 

その反骨の棋士、坂田三吉。

 

そんな坂田三吉を連想させる堺打ち三吉。

 

今回は、この両手鋏をさっそく水落親方に相談して、修理と共に柄の交換をお願いしました。

何枚かの画像を送り、ご意見をいただいた。

 

見立てとおり、おそらく竹差しの竹がダメになったので木柄に交換している。

裏スキがとっても上手いですね。

 

その際に木柄の差し込み口が広くボンド止め、肩が細いのと差し込みが浅くてアンバランス。

研ぎはしっかり砥いでいます。

 

そこでチョットそそるのは佐助さんところの鉄砲型

 

O釜さん所持の鉄砲型

前回自身で交換した柄栃(600g)、今回の交換柄は樫の鎌柄、「藤原産業 厚鎌・木鎌の柄 No.15 364円/本」カツラは18㎜銅管、一般的には720gから750gで樫鎌柄の差から160gほど重い。勿論竹差しに比べると120g軽い。

 

文章だとわかりにくいので

トチの木鎌柄600g 元々薄鎌の柄なので軽くできています。

竹差し640g

樫鎌柄760g

 

あれ?パク〇じゃないすか…….。

其々重さに関しては刈る対象物によっても異なるし、軽すぎて自重がないために安定しない場合もある。

なので相対的にバランスがよいかどうかで判断すべきかと思います。

 

大事なのは使いやすくカスタムするスピリッツが大事、何よりも道具の自分感が増し、愛着度は高くなる。

 

関西に比べ関東の職人はあまり道具をいじる人は少ないかもしれません。

当時を思い起こすと、とくに刈込鋏についてもそのままの長さで自身が慣れるるまで使いこなし、柄を切って使う発想は現役当時(40年前)あまりありませんでした。

 

恐らく誰でも手入れの苦手な樹種があると思います。自身どちらかというと刈込は得意な方ではありませんでした。

 

何だか刈込鋏がやたら重かった様な気がします。

気持ちの重さも加わっていたのでしょうか…….。

 

若い頃、思う様に刈込鋏が使えず微妙にトラ狩りになるのがどうしても許せなくていつまでも気にしていた自分がいました。どうも両手鋏が安定しないことが原因だったと思いますね。

ここ、このときですよ思い出したのは、

子供の頃T木という友達がいて、生意気にもヴァイオリン弾いている彼曰く、円弧では音律が出せないので上腕二頭筋を真っ直ぐ引き下ろすのだと子供ながらに教授されたのを思い出した。

 

なるほどー、安定した引き下ろしと同じく、上腕二頭筋をブレない事がコツであると悟った。しかも正確に無駄なく確実に枝葉をとらえる事が大事。(笑)

 

若いうちは上手く刈れる事を誇っていましたが、ある時を境に一変した経験。それは自身が手入をする事でその庭の景色をつくっている事に目覚める時。

 

あなたにもあるでしょう?

手入は庭作りとおなじなのだと気が付く瞬間

 

動作はなんとなく武道に近いかもしれない。毎日携わることで脚立の掛け位置、間合いの取り方を体得し、克服できることを学ぶ。

 

いま思うと、スポーツの様だった。

 

当時そんな自分がいて今があります。

 

そんな事でこんな風に仕上がり、水落親方ありがとうございました。

 

そうそう坂田三吉かなりの負けず嫌いの様ですね。

 

 

 

彼の負けず嫌いは徹底しており、人生に於ける生き様を資質に変換し、彼の負けず嫌いを糧として品格形成していったといってもよいようです。

 

ネットからの引用になりますが、坂田三吉の次の様なことばを見つけました。

 

「悔しさを忘れたら、あかん。人間をいちばん、成長させるんは、負けたときの悔しさや」

 

還暦を過ぎてもハングリーなこころ大事かもしれません。

 

シルキーさん、アルミダイカスト製の鋸本体是非切望します。

 

両手鋏三吉の前にシルキーTETUについて

 

昨年から気になっていた鋸、シルキーTETU

 

K野さんから水落親方経由で届きました。

 

ありがとうございます!

 

さっそく磨き出ししました。

 

昨年、 焼き討ちにしたフェルコのメタリックにシルキーTETUのメタリックがきっと似合うと探しましたが、こちら既に廃盤になっています。

シルキーには数度リクエストをしましたが、廃版の決意は固く他商品への案内を勧められます。

 

再度リクエストしたいと思います。是非、アルミダイカスト製の同じデザインから販売してください。

 

 

 

たつみや刃物

2月、奈良に行く前に一枚の画像が届いた。

たつみやという鋏、

 

どうやら奈良の鋏らしい…….。

 

さっそく、応援先で出会ったY際さんに鋏を見せてもらう。

って…….。

えっ〜「鋏」って…….

Y際さん曰く、「庭」はよく見るやろ!

なので「鋏」…….。

 

あははは.......。

 

何と丸棒ですか?の問いに、そうです。

 

京都の他に丸棒って…….。聞いたことがない。

改めてもう一度尋ねると、ずっと前からこんな感じです。と

 

丸棒である理由のひとつに芯金部分の緩みによる刃当りが線から点に近い接点になる。

 

つまりよく切れるという現象。

 

しかし、それはまもなく否定されることになる。

2021年2月26日、水落親方の元へ

 

頼んだ竹差しが出来上がったという事で鍛冶場に…….。

そこで目にしたのはたつみやの鋏。

 

佐助の鋏と交換してくれと懇願しても換えてくれない「たつみや」の鋏。

 

たつみやとはいったいどんな鋏なのか…….。

 

3月、戻ってすぐに連絡を入れたが既に一丁も無し。

在庫の鎌も鋏もあっという間になくなったという。

 

時すでに遅し、たつみやの窯の火は既に落されていた。

 

地元ではたつみやの鋏を使っていない職人はハブにされる。

 

「もう~そんな、たつみや以外の鋏でやらんといて!」って

 

白子のリのコマーシャルみたいな地元愛たっぷりのたつみや

 

 

 

 

詳しい事は取材していないので又聞きのレベルですが独自に育まれた地元の鋏、この辺の人はこれ以外の鋏は知らない。

 

はぁ~? 

 

なに言うとんじゃい佐助の鋏と交換?

 

だから何!という感じ。

 

偶然メルカリで、たつみやを検索すると…….。

さっそく、出てきたので即決で購入。

タイムリーな買い物でした。

 

見ると穂長で全体が硬い仕上げになっています。

刃渡り3寸5分、かなり長物

サトちゃん曰く、河内も大阪好みの長さだそうです。(笑)

 

そして、重心は? 

穂長なので重心バランスが軸に近い処にあります。

調べると山一つ越えると大阪に近い場所、恐らく手入れも河内刈りに近い手入で穂長の好みも似ているのかもしれない。

と、いうことで

芯金は堺と同じく角丸、長い間使っていると芯金が減ってボケた状態であることが確認された。芯金がボケる理由は芯金材が通常の鉄のために使い減りが激しく、如何に鋏自体が硬い材質で作られているか想像ができる。

 

これと同じことでハイスの刃は切止みはしないが、どうしても芯金が減るのと同じ現象になることがわかりました。

 

次回はヤフオクに出ていた三吉という両手について

平城宮 宮跡 東院庭園。2021年2月28日(日)

平城京、宮跡東院庭園に何故築山が無いのか?その謎に迫ってみました。

 

東院庭園 平城宮資料館より

https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/guide.html

庭園内の建物跡

 

東院庭園では池の北東方や中央に主要な建物を配しています。左に見える建物が中央建物、右奥に建つ建物が北東建物です。このほか、庭の南東隅でも特殊な建物跡がみつかっています。ごく最近の発掘調査で、逆L字形の特殊な平面配置をもち、頑丈な地盤固めをしていたことがあきらかになりました。正八角形(経約32cm)の柱も4本出土しています。しかし、建物の上部構造や意匠、庭園内で果たした役割などについては不明なところが多く、庭園空間全体との関係をふまえ、今後詳しく検討していく必要があります。

 

復元整備の基本方針

 

平城宮跡全体の整備は『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』(1978年、文化庁)に基づいて行われています。平城宮跡に設定されている4ヶ所の立体復原地区の一つが東院庭園であり、平城宮内で営まれた宴遊空間を再現することをめざしています。復原に際しての基本的な方針は以下の通りです。

 

1奈良時代後半の庭園の姿及び建物を復原整備する。

2遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原するが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する。

3出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料をもとに、植裁樹種を選定し、古代庭園にふさわしい景観を復原する。

庭園地形の復元整備

 

中央建物と平橋

中央建物は池の西岸中央にある東院庭園の「正殿」で、宴会や儀式の際に中心となった場所と推定しています。池に張り出す露台がつき、ここから東岸と平橋で繋いでいます。平橋は桁行4間×梁間1間の堀立柱建の東西橋です。柱は中央建物縁束の出土柱根を異本として、八角形断面(経約24cm)と復原しました。また平橋、反橋ともに、擬宝珠は1966年に平城宮東南隅で出土した瓦製擬宝珠にならっています。

 

庭園地形の整備では地下に残っている遺構をきずつけないように、土盛による保護を原則としておこなっています。遺構の真上に復原建物や築地塀を建設する場合、40cmほど盛土して整備地盤面としました。一方池の部分では、地形そのものが遺跡であることから、景石や洲浜石敷の遺構そのものを見ていただきたいのですが、洲浜の遺構は大変壊れやすく露出に耐えないため、砂と不織布で覆って保護した上に遺構と類似した小石(経5~10cm程度)を厚さ10cm程度に敷き詰め、奈良時代の洲浜を再現しました。盛土の厚さによって生じる地盤高の差については、庭園の各所でなめらかに繋いで処理しています。露出している景石の表面は合成樹脂で強化し、割れていたものは接着して修復しました。景石が失われたと考えられる位置には、裏に補充年度を墨書きした石を新たに据えて、奈良時代のものと区別するようにしました。

 

池の水

 

反橋

桁行5間×梁間1間の堀立柱建、南北橋です。平橋とほぼ同じ桁行総長ですが、平橋が4分割したのに対して5分割とし、柱間隔をせまくしています。さらに柱間隔は、中央3間の方が両端2間より広いことから、橋の曲折にあわせて柱を立てたと考え、反橋として復原しました。

 

池を持つ庭園に於いては水の扱いが重要となります。奈良時代後期の東院庭園では庭園北方の西から東へ流れる石組水路とこれを受ける石組護岸の小池が給水施設の中心で、このほか池北東部のわき水部分には曲げ物を据えて水源を確保していました。また、池を乾すために水を抜く際は、南面大垣の下をくぐらせた暗渠を使いました。整備では石組み水路と小池を復原して池の給水を行うとともに、水の淀みをなくすために池の西部を中心に池底の9ヶ所に給水管を増設してあります。池の水量は約350立方メートル、給水には井戸水を使い、「宇奈多理の杜」の北西方に設けた管理施設で最高1日3回の割合で循環浄化し、正常な水質を保つ工夫をしています。

 

植栽の復元

 

東院南門

桁行5間×梁間2間の礎石建、東西棟建物です。東院の正門で、中軸線の北延長上には東院玉殿があると推測しています。構造と部材寸法などは法隆寺東大門にならい、単層切妻造の五間三戸門にしました。

 

 植裁は庭園の景観を形づくる重要な要素です。発掘調査によって池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉など)を分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。この成果を中心に、『万葉集』や『懐風藻』などにみられる庭園植裁の記録も参考にして樹種を選びました。植裁の位置は、樹木の植え穴、もしくは抜き取り穴の可能性がある浅い窪みや、大きな枝がまとまって出土した位置などを参考にして復原しました。また樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』などの絵画資料を参照し、全体の景観に配慮して決めました。

東院庭園 平城宮資料館より

 

 

平城宮左京三条二坊宮跡庭園、

 

平城京左京三条二坊宮跡庭園

 「宮跡庭園」(みやあとていえん)

宮跡庭園は、昭和50(1975)年の発掘調査で発見された奈良時代の園池を中心とする庭園遺跡です。平城宮の離宮的な施設または皇族等の邸宅(宮)であったとも考えられるため「宮跡庭園」と名付けられました。

 

 保存状態がよく、奈良時代の意匠や作庭技法などを知ることができる、きわめて貴重な遺跡です。昭和53(1978)年に国の特別史跡に指定され、奈良市が庭園の復原整備をおこないました。平成4(1992)年には国の特別名勝にも指定されました。

 

 この庭園は、奈良時代中期(750年頃)に造られ、池の改修や建物の建て替えを重ねながら、平安時代の初めまで存続したと考えられています。現在のものは、奈良時代中期ごろの様子を復原したものです。園池は発掘した本物を露出展示しています。

 

平城京の条坊と宮跡庭園 平城京の街は、道路(大路と小路)が碁盤目状に通っており、道路で囲まれた区画を条・坊・坪で表します。宮跡庭園は平城京の皇居や政務区域にあたる

平城宮の南東に位置し、ひとつ分の「坪」全体の中に建物と塀が計画的に建てられています。

 

 敷地の中心には玉石を敷き詰めたS字形の「曲水」を形づくった園池が配され、その西に建物が建てられています。建物から池を眺めたとき、その向こうには春日山や御蓋山といった東の山並みを望めます。

 

 これらの立地に加え、平城宮と密接な関係を示す木簡や瓦などが出土していることから、この場所は公的な饗宴のための施設であったと考えられます。たとえば曲水宴や、海外からの客を招いた宴席などが行われていたのかもしれません。

 

奈良市発行「宮跡庭園」(みやあとていえん)パンフレットより

 

各、論文や解説をみるとそのほとんどが新羅由来定説や神仙思想私説を説いた論説もあるが、さすがに平城宮資料館解説では断定せず調査発表に徹しています。

 

平城宮製作レベルでは盛土ではなく平地、池の製作上基本的に掘った土が盛土になることが通常ではあるものの、宮跡庭園は遣水、東院庭園について掘った土はいずれ何処に敷き均されたのであろうか。

 

かなり大胆な推測では、元々の支流河川を流用した可能性や材料搬入時の陸路ではなく水路利用後の転化であったりしたのではないか。夜書いたラブレターぽく、かなり大胆な水理の元書いています。

 

池の中に中島を作ってそこに神仙蓬莱思想もこのころの特徴、これは池を遥かな海に例えるところからきていると考えられている。

 

海の無い地域での無い物ねだりとすれば島と海と見るのが当然の様に思われるが、自身の率直な意見では島ではなく中洲、海でもなく河川敷の岸辺と捉える方が自然であると感じている。

 

まず製作材について、池泉の汀については玉砂利で構成されている点については吉野川がモデルと書かれているが、近くを流れる木津川の地理的な影響も考える方が自然では?とも思われます。給水路と排水路をみると給水層と排水溝が地形的に設えられている。

 

発掘に関わったわけではないので何とも言えないが、先に記したように木津川流域に見られる河川敷がモデルか、敷かれた玉石も現地調達材であったのではと推測もできる。

大きめの岩組が組まれている箇所は築山と称されている神仙は、やはり正倉院にあるように仮山であったと…….。

 

浄土庭園は宗教観が強いが、東院庭園と宮跡庭園のつくりは、国風形成という時代を経た平城宮庭園であり、国風庭園の初期造形と感じました。

 

手元にある宮跡庭園パンフレットを見ると敷地東側園路が若干起伏を帯びた園路なので発掘用土で形成された園路かなと想像出来ました。ここで疑問が湧くのは土木的な単純な「掘ると盛る」がなく平坦である事、遣水を取り入れた事由は?製作材の礫材(玉石等)は何処の素材だったのか?東院庭園発掘調査「考察」では「平城宮から出土する主な石材とその産地」に近隣河川よりと短い一文で済まされている。

 

万葉の庭、浄土の庭。

 

自身の中で庭はどの様なことであっただろうか.......。

立ち返るいい機会と思い、すきな様に思うように書いてみよう。

 

先ず宮跡庭園、平城宮東院庭園については、生活や営みといった庭がどうであったか?

ここ最近、デザイン脳で庭を観る時に次の様な姿勢を以て考える様にしています。

 

人はどの様に見て人はどの様に感じ、人はどの様に使うのか、つまり人を知る事。

単にどの様に見え、どのように感じるかではなく、すなわちどう機能するかがデザイン。

理解を得るのであれば成りきる事であると思うのです。

 

以上の事をふまえると.......。

 

見て不思議だったのは築山もない平坦地庭園であったこと、土木的な判断で云えば実際依水園の池向うは明らかに池制作の際に出た用土で築山として三笠山を含む若草山を借景とした景色をつくっていると判断できる。

 

或る論文には吉野川がモデル?とあるが、遠くないか?地図を見ても木津川流域の影響の方が近いか…….。もしくは大和川支流の佐保川が平城宮間を流れている。しかも礫材については粒揃いの礫材は豊富にある佐保川で調達した方が早いし形状確認も景色上確認し易い。

 

実際、奈良期(1300年前)国土地理院による奈良盆地周辺の地形変遷をみると、「奈良期には、海面の低下により、生駒山地の麓まで入り込んでいた水域は、浅い淡水湖に変わり、さらに淀川の氾濫によって運ばれてきた土砂の堆積により、淡水湖も消えかかって大阪平野が広がってきます。

 

 

奈良盆地においても同様に、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。この頃に都が藤原京から平城京に移されました。佐保川、大和川を経由して難波(大阪)から人や物資が運ばれていました。」とあり、生駒山地と笠置山地の盆地にあるこの地理的条件であれば、建築材料等は河川路を使った流路であることが伺える。

 

 

つまり佐保川支流と木津川は繋がっていて淀川に至っていたのかもしれない。細流河川を運河の様に使いこなし物資機関として利用され後に遣水として流用された可能性もありえる。

 

なによりも礫材は古墳構成に多く使われている。東院庭園発掘調査「考察」では粟田真人遣唐派遣後、園地影響が大きく占めている旨が出自されている。

 

浄土庭園に立つ一本の燈籠は、お灯明であったのか?

宗教的に憑代(よりしろ)明かりを以ての導標(みちしるべ)、まぁ夜は暗いから立派な照明器具として装飾を兼ねてる。当時は相当な時間と労力をかけたものです。

 

奈良は私にとって庭園という意識より遺跡という意識の方がつよく、現存する庭ではないと思っていたが、遺構発掘作業により作られた庭で制作材料の出自や作成要因など当時の住居環境を知る上で基本的な住まう上での生活習慣に思いを馳せるいい機会だと思った。

 

2018年暮れ、奈良滞在時に慈光院や當麻寺奥の院も浄土庭園ではあるが、今年改めて土留材として使われた材料豊富な浄土庭園を見、平城宮東院、宮跡庭園と比較してしまうと汀の石が多すぎて不思議と険しさ懸崖が俗物に見えてしまう。

 

石組みは言わずとも既知である仮山をモデルとした岩組ではあるが、部分的にあるだけで十分華厳を表現出来ていると認識できる。時代が下る園地は足りないというより、多いのだ。それはおそらく作庭能力はあっても製作意図と造形がズレていると感じてしまったことにある。

 

枯山水は逆に盛土をして砂利を敷くと海という概念になります。なので曲水の宮跡庭園、東院庭園を見るとどうしても河川敷に見えてしまう自分がいます。

 

 

 

では当時の築山という概念はこの「仮山」であると云われています。

 

 

「仮山」※著作権のため画像をぼかしています。

 

なるほど険しい岩やま、概念的に理解出来ました。

 

若き頃の憧れは京都であったのは観光メディアや雑誌といった華やかな印象形成があったことはまちがいない。還暦も過ぎ年金年齢にもなると庭の見方も若い頃の見方や捉え方が随分と変わってくる。変っているのは私自身だけか、自身の偏りや抱く印象差が現在に影響しているのかもしれないが、捉え方を俯瞰で見るようになった事は自身が感じる所でもある。

 

その中でも平安期以前にみられる浄土庭園という遺構の発掘で現れた島、海、玉石で覆われた汀、あちらとこちらを繋ぐ橋、灯明導きである燈籠。それらは現世と浄土というストーリー性を帯びている。

 

特に何故池と島であったのか。そして、住まいとしての庭園機能は何であったのか?それは単なる鑑賞性を前提とした庭園要素だけではないと要素理解も感じている年齢になってきたのかもしれない。

 

それら年齢的な庭の見方、感じ方を記録しておきたい。

 

なにせ若い頃は製作技術的な部分が気になってお多福面、福笑いの遊びの目鼻から庭を観ていた自身から家と庭、住まいとしての庭を捉える時の基本的な人の営みからみた庭として見えるようになった。

 

つまり、観賞だけの庭園から住生活庭園といった当時の庭とはどういうものであったのかを想像する愉しみを伴う見方をすることを勧めている。

 

ただし、平城宮庭園は神仙思想であると説く解説もある。しかし、東院庭園を見てもにわかに神仙を感じる事は無く、むしろこの浅い池に緩やかな流域と排水路があり、鯉やフナがいたとしたらどう感じたのだろうと.......。ふとその様に感じた。

 

そこで、幾つかの疑問を感じたので、ここに挙げておこう。

 

第一の疑問

遣水や池がある理由は何だったのか?

素直に森蘊氏が云うように、観賞園地であるのか、防火用水であるのかの境が難しいと当時の書物で書かれていたのを思い出す。現在ではこちら関東の鎌倉鶴が岡八幡宮は神社がメインとして成立しているが、明治初期廃仏毀釈を以て且つては鶴岡八幡宮寺という寺であったと再認識しているところでもある。

 

地理的に平城宮跡の計画時は様々な河川支流や起伏があって青龍白虎を基本に治水を巧く取り入れたのではと全くの素人考古妄想を披露します。(笑)

 

建築であれば五欲を通じて想像する事がいささか慣用ではあるが、庭と生活環境となると現代においても庭で過ごすということはどの様なことであるか、すぐに答えの出るものではない。

 

しかし、飲食(おんじき)に伴うのが給水と排水、井戸、厠といった生活排水環境であるが、ただ単に池の給排水があるとは思えない。

 

第二の疑問は、東院庭園については複雑な汀ラインは中洲のある河川敷に似ているので神仙思想の海や島ではなく、河川や湊がモデルではないかという疑問、水源となる菰川(こもがわ)があったということなので礫材等の搬入は河川流路を利用したのかもしれない。

(・_・D フムフム 説明書きには給水ではなく、導水とある。

 

第三の疑問

遺構発掘の際、汀はほぼ平坦地にあるので掘り出された土は何処に行ったのか?つまり、河川敷を表現しているので築山は仮山で土を盛るという概念がなかった。

 

土木的な推測をすると山地であれば斜面地の造成から出土した土等を押し出す事により広い平坦地を作り出す事ができると同時に雨水排水等処理に池や遣水といった機能循環に利用する事も可能だと思う。

ご覧の様に画面右側の様に発掘時の用土がかなりの量が盛られ現在は園路公園になっている。

 

第二の疑問の水源となる河川支流、菰川(こもがわ)があったということなので建築資材や礫材等の搬入はこの当時から搬入能力があったとしたら河川流路を利用したのかもしれない。

 

国土地理院による奈良盆地周辺の地形変遷をみると、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。この頃に都が藤原京から平城京に移されました。佐保川、大和川を経由して難波(大阪)から人や物資が運ばれていた。とあり、地形変遷から考慮すると平坦地になり易い地理条件が重なり、元々あった流路を利用した運河ではないかと自身の抱いた謎はひと通りとけた。

 

時代が下ればもっと詳しい事がわかるかもしれない。

次回は奈良の地元に愛された「たつみや」の鋏です。

710年南都完成 平城京……。

2021年2月28日(日)

 

平城宮跡資料館のあゆみ-特別史跡平城宮跡と奈良文化財研究所-

 

平城宮跡は、戦前の大正11年(1922)、地元の人々の熱心な顕彰(けんしょう)活動の結果、いまの第二次大極殿、東区(ひがしく)朝堂院などの範囲が国の史跡に指定され、戦後の昭和27年(1952)には、史跡のうちでも特に重要で国を代表するような遺跡である特別史跡となり、平成10年(1998)には、「古都奈良の文化財」の構成要素の1つとして、世界文化遺産にも登録されています。

 

こうした平城宮跡の発掘調査を昭和34年(1959)より今日まで継続的におこない、平城宮・京や奈良時代、そして、不動産文化財の調査・研究をリードしてきたのが、昭和27年(1952)に創設された奈良文化財研究所(元・奈良国立文化財研究所)。

 

平城宮跡資料館は、発掘調査の成果をもとに平城宮・京跡のことを分かりやすく解説する展示公開施設として、昭和45年(1970)に馬寮(めりょう)跡に建てられました。平成30年(2018)3月には平城宮跡歴史公園が開園し、そのガイダンス施設である平城宮いざない館が開館し、奈文研の貴重な文化財を同施設でも公開できるよう提携し、展示監修を行なっています。同年以降、平城宮跡資料館は、それまでの平城宮・京の展示に加えて、考古学や奈良時代に限らない奈良文化財研究所の最新の研究成果を展示公開する施設と位置づけられています。

朱雀門

遣唐船

 

 

 

 

平城宮跡管理

 

初日の宮跡管理はここでした。

あまりに広いので当初何処だかわかりませんでしたが、Googlemapは凄いです。

 

 

 

ここでした。

 

Dぽう君と一緒

 

 

あっ!…….。彼はセント君でした。

 

Dぽう君には平城宮にてご指導いただいての管理、単純な作業でしたが楽しく作業する術を討論のうえ(笑)、解決策なく前向きに笑顔で臨むことが大事だと諭されました。(笑)

 

そうそう、平城宮跡には魔物が住んでいる!ボクのバリなんちゃら剪定鋏のバネが飛んでいつの間にか失くした。剪定鋏のバネがないとキリバシ状態、(困)翌日はあぶり出しのアルスが活躍しましたが、テンションダダ下がりでこんな悲しい気持ちになったのは久しぶり。(悲)

やはりカスタムすると全く違うものになって自分感満載です!(笑)

 

 

と、彼から聞いた彼の剪定も魔物に持って行かれた!

 

剪定ゴミの中か? 群植の中か…..? 

 

あっ!例の帯執りにチャレンジのヒントをくれたDぽう君、

 

僕のお腹がDぽう君でしたね。(笑)

 

ね! 苦!

 

https://ameblo.jp/primrose5591/entry-12663238593.html

息子と仕事が出来たらこんな感じなのだろうか…….。

愉しかった。

息子より若く親子ほどの齢ですが、ありがとう先輩!

 

東院庭園、駐車場周辺管理

 

ひょっこりさんのN口くん!雨の日の管理たいへんお世話になりました。

 

H先生のご紹介ありがとうございます。

 

東院庭園は駐車場周辺の応援員数がのベ10人

 

そりゃー、むちゃくちゃ早くて…….。

 

イナゴの如く刈り込まれていきます。

 

K薗社長、K野さんK町さんS岐さんありがとうございました。

お昼のひと時

B所さんM野さんY際さんH路さん大変お世話になりました。

 

奈良は堺に並んで古墳が多く、身近に住宅地もある。

 

そう云えば聖武天皇稜の隣宅で手入してたら神々しい風に吹かれて爽やかだとB所さんに言ったら…….。

(笑)…..

聖武天皇稜

 

えっト…..気の(苦)せいだと思います!と言われてしまった…….。(照)

B所さん、なんだかんだ云って愉しかったです。

 

.......。奈良の空気はおいしい!(笑)

2021年3月1日(月)京都浄瑠璃寺、奈良円成寺

 

京都浄瑠璃寺、奈良円成寺は恥ずかしながら今回初めて。

 

奈良円成寺

http://www.enjyouji.jp/

 

 

 

 

浄瑠璃寺 

 

http://www.0774.or.jp/temple/jyoruriji.html

 

この世とあちら.......。彼岸と此岸、いわゆる浄土式庭園になります。この年になってマジマジと見る浄土式庭園は、緩やかな稜線と入り江、出島の汀の入込がなんともおおらかで身の小ささを感じながら見入っておりました。平安時代後期には、浄土思想に基づき、庭園の中に仏教の極楽浄土の再現を試みた「浄土式庭園」が数多く造られた。

 

最終箇所は一休寺

 

http://www.ikkyuji.org/

 

今回は、簡素に奈良紀行です。

 

関西へはいつも小田原「ひかり」で臨みます。

 

コロナ過のせいで車内は貸し切り状態。 

 

驚くほど空いていました。

途中、お約束の富士山が見えてテンションが上がっています。 照

 

ここ数年、年末に行っていた奈良へはコロナの影響で自粛していましたが、全国的にみても感染者数の少ない奈良へ

 

年明けより昨年に比べ早急な現場もなく、平城宮管理の応援です。

 

Googlemapのストリートビューに反映されるかもしれないとワクワク感も抱き2月末から2週間の間作業に入りました。関東からの私、奈良近県から桜井市、京都、大阪からも応援に来ていました。

 

歳をとっても新しい出会いと新鮮な話題に感謝しています。

 

登録有形文化財指定の園内管理や民間の管理を含め、平城宮跡と多彩な作業を体験してきました。もう少し居たかったのですが、自身の仕事依頼があり帰還。

 

到着初日 2021年2月20日(土)

 

先ずは依水園、依水園については年末の為、管理作業に入り2年連続拝観できませんでした。帰ろうとしたとき一昨年、隣の吉城園の受付の方からうちを見ずに帰るのかと、お叱りを受け園内を散策、今年は既に無料で依水園からの吉城園もなかなかでした。

 

依水園周辺地図

位置的には官庁街付近に依水園があります。

隣は吉木園です。

 

 

依水園に関しては庭園史学の森蘊氏の関係性を以て以前より興味があった庭でした。

 

 

マレス・エマニュエル 京都産業大学 准教授

庭園史学の森蘊より抜粋

 

https://www.mori-osamu.com/

 

1952年(47歳)、森は奈良文化財研究所の建造物研究室の室長になります。ここからようやく庭園史研究に没頭することができるようになり、桂離宮や修学院離宮の研究をはじめ、全国の歴史的な庭園の実測に力を注ぎました。しかし、一般的な庭園測量図と異なり、森の「地形測量図」には植物が省略されています。庭園の立地環境と水系をあきらかにするため、広範囲にレベル測量を行ない、厳密に等高線を描き、石と建造物との相互関係を表現しました。

 

1967年(62歳)、奈良文化財研究所を退官して、京都大学農学部の講師であった村岡正とともに「庭園文化研究所」を設立しました。それ以降は実測調査のみならず、古庭園の発掘・復元・整備の事業を指導することになりました。京都では法金剛院や浄瑠璃寺、奈良では旧大乗院や円成寺、平泉では毛越寺や観自在王院などの歴史的な庭園の発掘と整備に尽力しました。

 

簡単にまとめると、森は現代の日本庭園史学の基盤を築いた人です。現在の文化財修理では当たり前のように実施されていますが、徹底的な文献資料の分析、精密な現地調査と測量図の作成、そして発掘調査の成果を照合した「復原的研究」という方法論は森が確立させたものです。

 

若草山を見て

築山側からの景色

築山が緩やかなので全体が上品に見えました。

冬景色、網代敷松葉が憎い演出をしています。

借景、築山ラインが若草山とリンクしてとっても穏やかで雄大な庭でした。

 

SKさんがSさんの工場に持ち込んだ市松の両手

 

なかなか奈良紀行に行けませんが.......。

 

先週末、市松の情報が入ってきましたので忘れないうちに書き留めておきます。

 

2018年3月2日市松(イチマツ)植木屋鋏 その後…….。

 

https://ameblo.jp/primrose5591/entry-12357080223.html

 

4年前に追記しましたが今回は両手が出てきましたのでお知らせします。

 

今回は堺鍛冶を知るHさんからのお話をSさん経由で伝えられた話、なのでライターという立場で文章化します。

 

Sさん曰く謂わば堺刃物鍛冶列伝をこれからの若い子たちにも伝え残したいというSさんの熱い思いを伝えます。

 

堺市松

 

堺のHさんは堺鍛冶の歴史を知る最後の生き字引と云うSさん。

 

今回は堺Hさんに市松さんの事を直接伺ったところ、当初あまりに久しく聞いた名前のようで、

戸惑いながらしばらくすると懐かしそうに「ほぉ~、市松ったん.......な。」と嬉しそうにお話しが訊けたと云っておりました。

 

市松の行方の会話中、たいへん厳しい話ですが、後継者が絶えるということは登録抹消問題も大変だったそうだと遠巻きながら情報も聞いていたそうです。

 

そのお話によると堺は高須町七道の方に行ったところに市松ったんの工場があったそうです。

 

地図参照 現在でも多くの刃物店が存在する堺、中央上部分が高須神社がある高須町付近

 

市松ったんはHさんよりも20歳も上、お名前は市松さん、先輩面しない丁寧な方だったそうです。

 

 

しかも代々刃物鍛冶であったそうで存命であれば100歳は超えているとのこと、その父親であれば明治初期より活躍していたと容易に想像できる。

 

前回のブログ内容の箱書きには三代目市松とあります。

 

さて工場は断定できないが、PCのGooglemap天神にそのトレードマークがGooglemapのStreetviewに看板が残っていた。

画像参照

 

現在はいち五郎という餃子屋さんになっており、なんと天神国重の三軒先にその店舗があった。

 

 

さて、今回は二種の両手が手中に入ってきた。

 

一丁はこの形は播州や三河で多く見られる半サンマ型、所謂丸丹鋏(屋根鋏)の流れを汲む両手からの進化型かリクエスト形状であったのか。

 

画像参照

 

もう一丁は珍しい直型タイプの両手、この形は関東の森平で扱っている形状とそっくりな両手。

 

 

 

 

 

画像参照 森平

 

この形を見ると堺両手の特徴を思い起こす。

 

正定おやっさんの詞、

 

「握って振りたくなる時があるやろ。」

 

刈込の込みは鎌の様な道具、あるいは刀の様な形状で刈揃えていたのかもしれない。

 

そう、両手で挟み切れないどうしても撥ねたい時に振り撥ねる。

 

それは葉刈りに特化した刃物といえる。

 

今後、新たな形状や道具が発見されるようであればニュースとして報告します。

 

そして、奇しくもきょうは正定親方の命日3月26日、命日に市松の話が聞けるなんて不思議を感じます。