自分のルーツを辿ってみる 24 ミヤニシ5年目 | PRAINSのブログ

PRAINSのブログ

昭和と趣味と日記のブログ
車・バイク・音楽・映画・ファッション・釣り・ゴルフ・・・
時々、我が町「呉」と お仕事「美容」、「美味い物」
よろしくお願いいたします!

イメージ 1
 
 
さて、不定期でお届けしてる自分で自分の過去を振り返り懐かしく思ったり
時には反省したりするシリーズ「自分のルーツを辿ってみる」ですが
昨年12月13日以来と言う事で久々の執筆と言う事になりました
 
1982年(昭和57年)に美容学校を卒業してミヤニシに就職した僕は紆余曲折ありながらも
1984年(昭和59年)にはロンドン研修に行き同年のカットコンテストにおいては優勝
翌年の1985年(昭和60年)には5位という実績を残す事が出来た
 
1986年(昭和61年)秋、そんな僕もミヤニシ在籍5年目と言う事で
ミヤニシのスタイリストの一人という位置付けになり
美容師として一人前として認めてもらえる立場になっていた
 
1985年頃には一緒にロンドン研修に行った多くの諸先輩達は独立開業を果たし
店内で僕より上の立場の人は当時店長という肩書だった
ミヤニシ入社から公私共にお世話になってた現SNOB城戸君だけという状況になっていた
 
 
イメージ 2
 
 
そんな1985年頃、僕はミヤニシの後輩女性スタッフの友達だった一人の女性と付き合うようになる
その彼女こそが僕の現奥方様である大明神様だったのだ
 
二人が付き合うようになる経過においては実はテレビドラマにでもなりそうな(笑)人間模様の
”裏の画策”があったのだが色んな人の色んな思惑があるという事でここで公表する事は出来ない 笑!
 
二人がその画策に気付いたのは結婚後の事だったが今思えば結果オーライ
いや、3人の子宝にも恵まれた僕達は逆に画策犯人に感謝しなければなるまい 笑!
 
と、いう事だが時を同じくした頃僕は宮西先生にご指名を受けて先輩である城戸君と共に
美容専門誌「しんびよう」ヘアカタログに作品提供をするという栄誉な機会をいただいた
 
城戸君が選ばれるという事は実績や立場からして当然の選択であったと思うが
僕が3人の同期の中で選ばれたのは個人売上実績と共に
やはりコンテストにおける結果からの判断だったんだろうと思う
 
僕達3人の同期は入社同期ではあったが3人の中で僕が一番年少者でしたからね
やはりこの世界は年功序列ではなくあくまで結果優先と言う事なのだ
 
 
イメージ 3
 
「しんびよう」ヘアカタログの撮影を行うために僕は城戸君とそれぞれモデルを伴い上京した
 
その時城戸君のモデルを務めたのがウチの大明神様だった
撮影は当時青山にあった新美容出版本社にて行われた
 
写真2枚目はその時の羽田空港でのスナップだ
 
写真3枚目はたぶんPINK BEEのクリスマスパーティーか忘年会だったと思うが
大明神様の髪型がバナナマンの日村みたいになってるのはその為だ 笑!
 
当時僕は22歳であり大明神様は21歳だった
 
 
イメージ 4
 
年が明けて1986年(昭和61年)、僕はミヤニシのスタイリストの一人として
沢山の後輩にも恵まれ概ね充実した美容生活を送っていた
 
とは言え相も変わらず僕の若気の至りは続いており宮西先生の実兄の当時の社長に
噛み付き口論を繰り返し宮西先生や城戸君には甘えてばかりだった
 
そんなある日僕はショッキングな事実を知る事になる
 
僕がミヤニシ入社後から公私に渡りお世話になってた城戸君が
広島市中区の並木通りに独立開業する事になったのだ
 
 
イメージ 5
 
僕の心は揺れた
 
城戸君の事は美容師としても人間としても尊敬していたから彼に付いて行きたいと思う自分と
ここまで育ててくれた宮西先生に付いて行かなければと思う自分がいた
 
結論的に僕はミヤニシに残り城戸君には思いは告げなかった
しかし今思えば僕はミヤニシに残った事は大正解だったと確信してる
 
若気の至りが抜けないあの当時の僕に目を瞑り
自由にさせてくれたのは宮西先生しかいなかったと思う
 
城戸君は自分にも厳しかったがオープンしたSNOBのスタッフにも厳しかった
ミヤニシの店長だった城戸君とオーナーになった城戸君とでは立場も違う
 
もし仮にあの時僕がSNOBに行っていたら当時の僕の精神状態からして120%城戸君と揉めてたと思う
そしてシコリを残し、その後僕達の関係はどうなっていたのかも分からない
 
 
イメージ 6
 
ミヤニシに残った僕は同期の2人と共にミヤニシの古株になり
トップスタイリストという事になった
 
城戸君という店長が抜けたミヤニシだったが店長というポストは空席のままだった
僕達同期の誰もが店長というポストに抜擢される事はなかった
 
これは僕の想像だが宮西先生にも決め手がなかったんだろうと思う
言い方を変えれば誰もが納得いく人選が出来なかったんだろうと思うし
適任者がいないという事だったのかも知れない
 
しかし僕は店長というポストに固執する気持ちは微塵もなかった
二人の同期は年上だし、面倒な役職なんてどうでもよかった
 
しかし本音ではいくら年上とは言え二人の同期には個人売り上げも
創るデザインでも負けたくはなかった
 
秋に行われるコンテストにおいては「広島の美容師に負けない」っていう
ミヤニシスピリッツを僕が先頭に立って受け継がないといけないと強く思っていた
 
 
イメージ 7
 
1986年(昭和61年)秋、かくして第4回紅葉会のカットコンテストの火蓋が切って落とされた
 
初出場だった1984年に僕はラッキーだったとは言え初出場初優勝という快挙を成し遂げ
翌年の1985年には当日のぶっつけ本番だったにも関わらず何とか5位入賞を果たし面目を保った
 
ミヤニシの精神的支柱だった城戸君が抜けて僕にも少し自覚が芽生えた1986年
前年はディフェンディングチャンピオンというプレッシャーもあり
真の実力がなかった僕はプレッシャーに押し潰されてた感があった
 
しかし3回目の出場となった1986年は早い段階でデザインも決まり自分なりに研究し練習もした
モデルの仕込みもコンテスト当日の朝にパーマをかけ直すなど万全を期した
 
 
イメージ 8
 
スタイルとしてはツーブロックでハチマキラインを短く切り込み
トップにハードなパーマをかけてフットボールのようなシルエットを創り上げた
 
ハチマキラインのシャープな質感とボリューミーなパーマの質感の
両極端なコントラストで面白さを演出
 
まあ今見ると完成度は決して高いとは言えないが当時の僕は初回のラッキーや
2年目の出たとこ勝負ではなく初めて自分なりにやり遂げたという満足感はあった
 
 
イメージ 9
 
しかし結論的に言うと僕はトップ3を逃し4位という成績に終わった
 
100人以上出場するコンテストでの4位だから決して悲観するような成績でもないのだが
僕の中では嬉しさや前年より順位を一つ上げた安堵よりも悔しさの方が断然強かった
 
1984年に僕、1985年に城戸君と2年続けて最優秀賞を獲得したミヤニシ勢の3連覇とはならなかった
 
確かにコンテストのレベルも年々高くなっていた事も確かだ
しかしミヤニシ3連覇を逃した事に僕は少なからず責任の念を感じたのだ
 
当時の僕の目には僕より上位だった3人の作品に自分の作品が負けてるとは到底思わなかった
しかし審査員の方達の評価は僕個人の評価とは違ったという事だ
 
 
イメージ 10
 
 
表彰式でステージに上がった僕は自分の中でリベンジを誓った
 
来年こそ城戸君のように狙って優勝すると心に誓った
 
 
イメージ 11
 
とは言え、その後僕が生まれ変わったように
真面目に仕事に取り組むようになったかというと・・・ 笑!
 
個人売上こそトップを譲る事はなかったが後輩に指導するような事もなく
自由人のスタイルは継続された 
 
今思えばあの頃の僕に対する宮西先生のストレスは頑なに想像できる
だから今でも僕は先生に対して足を向けて眠れないのである 笑!
 
と、いう事で今日はこれまで! 
 
続きは・・・・・・ また気が向いた時と言う事で! 笑! ジャンジャン!!
 
 
イメージ 12
 
PRAINSのご予約
 
呉市本通り2-3-4(四ツ道路バス停前) (0823-23-7540)
 
PRAINSホームページ http://prains.jimdo.com/
 
PRAINSホットペッパービューティー  http://beauty.hotpepper.jp/slnH000288765/?cstt=7