呉の歴史と大和ミュージアム (9) | PRAINSのブログ

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さて、「海上自衛隊呉史料館~てつのくじら館~」での「潜水艦 あきしお」の紹介記事の流れから
「呉の町と潜水艦の関わり」「東亜戦争時における日本軍の潜水艦の功績」という事を
考えてみようという今回のテーマなんですが記事を書くにあたって例の如く
沢山の資料や文献に目を通したのですが各資料や文献で意見が大きく違い
「これが正しい」と言う事が非常に難しい

僕はこれまで数々の歴史の記事を書いてきて「あるのは史実であり正解はない」という事を悟りました
現実にあった史実は紛れもない事実ですが事の是非の捉え方は人それぞれなんですよね

だから今日の記事も僕が取り入れた知識の中での僕の思いであり
決して正解ではないという事をまずはご理解いただきたいと思います

呉は海軍工廠として古くから潜水艦研究・建造の拠点となっていた事は間違いありません
日本における潜水艦の歴史を振り返るとき、呉を語らずして振り返る事はできないんですよね
 
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        旧日本海軍は1905年~1945年までに241隻の潜水艦を保有したとされています
       日本海軍の潜水艦は「甲標的」と言う小型の特殊潜航艇から排水量が1000トン以上ある
              大型潜水艦「伊号(イ号)潜水艦」などいろいろなタイプがありました
 
      ちなみに500トン以上の物を「呂号(ロ号)」、それ以下の物は「波号(ハ号)」とされています
       創成期のものは英、仏、伊、独などから図面や主機の製作権を購入して製造されたもので
      旧日本海軍独自の計画設計のものは大正8年頃に呉海軍工廠を中心に製造されたそうです
 
           主力となった伊号潜水艦は様々な種類があり、偵察機を搭載していた物や
        魚雷攻撃を主目的とした攻撃型のもの、最終的にはパナマ運河の爆破を目的とした
                 小型爆撃機を3機搭載した大型潜水艦も作られました
 
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           (江田島市の第1術科学校(旧海軍兵学校)に保存展示してある特殊潜航艇「甲標的」)
 
     しかし日本の誇った潜水艦のフラッグシップ「伊号」については性能的に賛否あるんですよね~
                   他国の潜水艦より優れていたという意見もあります
 
               居住性の点について言えば、本来潜水艦のそれは劣悪なものです
      窓のない狭くて密閉された艦内での生活を強いられるのは、どこの国の艦も共通なのです
 
          そのなかで、帝国海軍の伊号潜水艦は、長距離進出を念頭とした艦であるため
            居住性の向上には、非常な努力が払われていたそうで、大型潜水艦には
                  すべて専門の軍医がいた事も日本だけだったそうです
 
          昭和10年代以降に建造された主力の艦には、すべて冷房が完備されていました
           このエアコンによって、南方戦線で気温摂氏30度・湿度75%を下回る程度の
                         艦内環境を維持できていたそうです
 
           全員に専用のベッドが用意されていたこと、トイレも水洗が完備されなおかつ
                      潜行中でも自由に利用できたそうです
 
      なるべく太陽の光を再現するべく蛍光灯を改良し、要するに、艦内での伝染病発生を抑え
         戦力と士気を維持するために並々ならぬ努力が払われていたと言うことです
 
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                   しかし逆に性能が劣っていたという意見もあります
 
            アメリカの潜水艦が昭和17年末の段階でレーダーによる魚雷照準装置を
      実用化していたのに対して、日本海軍は最後まで潜望鏡による目視照準であったようです
 
         更に対潜兵器について言えばアメリカ軍はヘッジフォッグと呼ばれる投網のような
                        対潜砲を実用化していたそうです
 
    また、日本の潜水艦はエンジン/モーターの音を静音化できずアクティブ・ソーナーのみならず
         水中聴音機によっても簡単に探知されてしまうと言う欠点を持っていたそうです
 
      ドイツの技術者から「ドラムを叩きながら潜っている」と酷評され揶揄されていたそうです
      飛行機を搭載できたことは、日本潜水艦の優位性でしたが、逆に船体が大型化することで
           アクティブ・ソーナーによる探知に弱くなる結果を招いたとの説もあります
 
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    そもそも当時の潜水艦は伊号に限らず潜水艦というより「可潜艦」というべき性能だったそうです
      今の潜水艦のように潜りっぱなしではなく、普段は普通の艦船のように水上航行していて、
   敵を発見したり、危険な地域に入ってから潜行、ディーゼルエンジンから電動モーターに切り替えます
 
         また、音響誘導魚雷もドイツが大戦末期にようやく実用化しましたが当時のものは
     発射時にエンジンを止めていないとくるりと反転して自分に命中するようなレベルだったそうです
 
         当然、映画のように水中の潜水艦を魚雷攻撃することなど不可能だったそうです
 
       実際、大戦中に潜水艦にとって沈められた潜水艦は浮上航行中のケースがほとんどで
         唯一シュノーケル航行中、水上に見える吸気管を狙って攻撃して撃沈したのが
          史上唯一の「潜水艦による水中航行中の敵潜水艦撃沈戦果」だそうです
 
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                (終戦に際しての伊号第五八潜水艦総員からの回天特攻隊員へのメッセージ)
 
         伊号の性能については賛否ありますが、それより大日本帝国海軍の潜水艦が
          戦艦や空母、戦闘機のように一定の評価をされないのは、どうやら日本軍の
                  潜水艦での戦術、作戦面に問題があったようですね
 
           第二次大戦において潜水艦が最も戦果を上げたのは対商船攻撃でした
                 いわゆる、戦地への食糧・物資を止めるという事です
 
        潜水艦の任務について、ドイツは最初から対商船攻撃に絞って莫大な戦果を上げ
  アメリカも太平洋戦争開戦後から潜水艦の主目標を商船に切り替え開戦前600万トン以上もあった
          日本の商船を4年弱の間にほとんど0にしてしまうほどの大暴れをしています
 
        一方、日本海軍は最後まで軍艦攻撃にこだわり、アメリカ軍の優れた対潜対策が
              充実して行くにつれ片っ端から沈められていく運命をたどりました
 
     護衛の比較的弱い商船団を狙ったアメリカやドイツと、護衛の固い軍艦にこだわりすぎた
                        日本の差と言えるという事です
 
     日本のように少ない戦艦を補助して敵主力艦を狙う、「敵戦艦を沢山沈めれば勝ち」という
                    思想そのものに問題があったという事です
 
     どうも日本人は「戦闘」と大局的な視点での「戦争」の区別が付いてなかったようですね~
 
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              なぜ日本軍は効果の上がらない軍艦攻撃に拘ったのでしょうか?
                        何かしらの事情があったのか・・・?
 
              日本人の伝家の宝刀である、すべてにおいて精神論が最優先され、
          電探(レーダー)をはじめとする技術開発がおろそかになっていたという事か・・・?
 
           技術が後れているから、精神論に走るしかなかったのかもしれませんがね~
                 「神風が吹く」とでも本気で思っていたのか・・・?
 
        日本潜水艦の活動が、あまりに不活発であったように見える主原因は停泊地攻撃や
        艦隊襲撃にこだわった、もっぱら戦術上の失敗であり技術的な問題があるとすれば
            日本潜水艦には、アメリカのTDCやイギリスの”フルーツマシン”のような
                  自動式の魚雷の発射管制装置がなかったことでしょうね
 
           その事が先日記事にした人間が操縦する人間魚雷である「回天」
     有翼特殊潜航艇・水中兵器「海龍(かいりゅう)」、特殊潜航艇「蛟竜(こうりゅう)」
                           の開発につながるのです
 
 
 
     さて、呉における海軍と潜水艦のエピソードですが最後に「これぞ日本男児」と言われる
                    感動的なエピソードをご紹介しましょう
 
   人間であれば「いざ」というときに取り乱し冷静な判断をすることができなくなる事があります
    まだ造船技術が発展途上だった明治時代に呉近海で起こった潜水艇の事故のお話です
 
        深い海の底で艇長と乗組員は持ち場を離れずに従容として死を迎えました
         酸素がなくなり有毒ガスが充満し死を待つのみとなった極限状況の中で
           その事故がこれからの日本の潜水艇造船技術の開発に役立つよう
                 克明に経緯のメモに残した艦長がいました
 
                   時は明治四十三(1910)年四月十五日
       小型潜水艇がガソリン潜航実験の訓練などを行うため山口県の岩国を出航して
                      広島湾へ向かっていました
 
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                 第六潜水艇は、午前十時ごろから訓練を開始
 
         ところが十時四十五分ごろ、何らかの理由で潜航艦内に海水が浸水
               乗組員はすぐに浸水を防ぐための閉鎖機構を操作
 
        閉鎖機構が故障して乗組員は必死になって手動で閉鎖しようと努力します
               しかし第六潜水艇は十七メートルの海底に着底
 
            付近にいた監視船は長時間たっても浮上しないことに気づき
   ただちに広島県の呉港に在泊の艦船に「遭難」の報告をし救援の艦船が駆けつけました
 
        しかし艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認されました
         実はこの事故より先にイタリア海軍で同じような事故あったそうです
 
       このときイタリア潜水艇では乗組員が脱出用の昇降口扉に折り重なり
     他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死亡するという事故だったそうです
 
  当時はまだ潜水艇の造船技術が低く世界各地でこうした悼ましい事故が報告されており
          直近のイタリア海軍の事故の模様は全世界に知られていました
 
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     一方、第六潜水艇の乗員十四名は、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に
       機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は圧搾管の前にと
          それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていたそうです
 
    引き上げられた六号艇を検分した一同は死に至るまで職務に忠実であった様を見て
           帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと号泣しました
 
   この事件は日本人の責任感と勇敢さを示したものとして世界に配信されたそうです
                      イギリスの新聞グローブ紙は
 
  「この事件で分かる事は日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も
      また勇敢であるということを証明している、今も昔もこのようなことは前例がない」
                    と惜しみない賞賛の声を送ったそうです
 
                各国の駐在武官も、海軍省に訪れ弔意を表明します
                それは通常の外交儀礼を超えたものであったそうです
 
           明治天皇からは遺族に見舞金が届けられ当時の朝日新聞によって
             全国から寄せられたた義援金は現在の貨幣価値なら億単位となる
               五万六千円にもなる金額が全国から寄せられたそうです
 
               与謝野晶子も次のように追悼の歌を詠んでいます
 
                     海底の
                     水の明かりに したためし
                     永き別れの
                     ますら男の文
 
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        佐久間艇長は死がせまる苦しい中多くのメモを残しこの世を去ったそうです
 
                     謹んで陛下に申します
       わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください
                 私の念頭にあるのは、これあるのみです
 
                       以下の諸君によろしく
             斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將・・・(中略)
 
                   十二時三十分、呼吸、非常にくるしい
           ガソリンをブローアウトしたつもりだけれども、ガソリンに酔うた
                    中野大佐  十二時四十分なり・・・
 
                   佐久間艇長のメモはここで終わっています
                      艇長はこのあと息絶えたそうです
 
           当時は事故に対する補償金などの支払いの制度はありませんでした
     自分が息を引き取ろうとする間際において部下たちの勇気と冷静沈着な行動に対して
             その遺族に暖かな手を差しのべて欲しいと願い出ているのです
 
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                        (御出身地の福井県小浜市にある佐久間勉艇長の銅像)
 
       この事故で亡くなられた佐久間艇長は空気が乏しくなり薄れゆく意識の中で
             死の直前まで手帳に書き続けたメモを残し亡くなりました
 
        この話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」
        ということで戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられているそうです
 
                子どもたちは修身の時間に佐久間艇長の話を通じて
        生きていくために人として備えなければならない徳目を学んだという事です
 
          それは職務を全うすること、責任を果たすこと、部下を思いやること
                   そして感謝の気持ちであるという事です
 
 
                           はぁ~疲れた! 笑
 
              本当にこのシリーズを書くのは神経を使うし疲れるんですよね
 
    有翼特殊潜航艇・水中兵器「海龍(かいりゅう)」、特殊潜航艇「蛟竜(こうりゅう)」についても
              書こうと思ったんですが僕も気力・集中力が限界になりました
           という事で「海龍」「蛟竜」についてはまた次の機会にさせていただきます
 
    実は佐久間勉艇長の話は恥ずかしながら僕は呉に住んでいて今まで知らなかったんですよ
               ブロ友の「広鈍銀」さんに教えてもらって初めて知りました
 
         呉の三条に鯛の宮神社があり、そこに、第6潜水艇の慰霊碑があるそうです
                        後輩ありがとね!!
 
            難しいテーマではありましたがこれで今日は終わりにしようと思います
             ご清聴ありがとうございました!ごきげんよう! ジャンジャン!!