ADHD 重度よりも軽度のほうが高リスク | ぽてなまの~と 【ときどきADHD話】

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「なまいき」で「なまけもの」な「ぽてたろう」のノートです。
日常のあれこれや、その日考えたこと、そしてADHDや発達障害についての「あるある」などを書いてこうと思います。

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ADHD 重度よりも軽度のほうが高リスク

 

もう、ADHDテーマの記事ってだけでしんどいのに、ここのところヘビィなネタが続いてすまん。ちょっと自分でも目からウロコがポロポロだったので書きたくて、発達障害の軽度・重度と、虐待・いじめの関係について連投させてもらう。実はこれ、非ADHDの人にぜひ読んで欲しい記事なのだ。なぜかといえば、知らないうちに、すでに「巻き込まれて」当事者になっているかもしれないからだ。

 

大人の事情でネタモトを明かせないのだが、最近発達障害の専門家に話を聞いた。目から「ウロコ」と書いたのは、ADHD、AS、LDといった発達障害の子どもは、重度であるより軽度のほうが親によるネグレクトや精神的虐待を受けやすい。また、逆に重度の子の母よりも、軽度の子の母のほうがうつや気分障害など、精神的問題を抱えやすいいう話だ。


◆最悪な親子の組み合わせ

よくADHDの女子会で「最悪な親子の組み合わせ」が話題になる。みんなが口を揃えて言うのは「親が非ADHDで、子どもがADHDは最悪」だということ。なぜなら、親は自分の子供が「なぜできないのか全く理解できない」「怠けているとしか考えられない」からだ。自分の子供時代を思い出しても迷路からは出られない。たぶんこれは医師の診断が出て、専門家に詳しい説明をされても、何冊本を読んでも「できない」を「体感としてわかる」のは難しいのだと思う。

いってみれば、重度の子は障害が「見える化」しているのだ。一見、自分の子供時代に似ていても違う。目の前で「大変そう」なのがわかる。だが、軽度の場合はどうだろう。自分との違いがわからない。なのに目の前には「自分と同じようにはできない」子どもがいる。「きびしく躾けたはずなのに」「もう〇歳なのに」と、より厳しいことを言って責めたり、「言ってもダメだ」と放り出したりするかもしれない。逆に、「私の育て方の問題」「親の責任」と自分を責めたりもするだろう。

 

イジメでも同じことが言えそうだ。自分と同じ能力に見える子がクラスの当番を同じにできなければ「○○ちゃん、ちゃんとやって」「ずるい!」ということになるだろう。保護者から見たら「なぜあの子だけ?」と、エコひいきに見えるかもしれない。普通のクラスで就学可能な場合、担任がどの範囲で障害の有無について話をするのか、はっきりとした線引きはないように思う(もし学校や学級での取り組み方を知っている人がいたら、ぜひコメント欄かメッセージで教えてほしい)。

 

◆一つだけの花に注がれる毒

結局、軽度の子どもは「なんでこんなことができないの?」「やればできるクセに」と365日、何年も何年も言われながら成長することになる。「世界に一つだけの花」という言葉は耳触りがいい。だが、毒を注がれ続けて育った枝葉がどんな花を咲かせるというのだ。

 

 

前回いじめについて書いたとき、「私はODやADHDを理由にいじめられたことはない」と書いたのだが、それは私のADHDが「決して軽度ではない」レベルで、「できない」が全身からダダ漏れになっていたからなのかもしれない。私よりも軽度な"見えない困ったちゃん"のために、ひとことだけ。普通の人には「毎日通る駅までのだらだら坂道」に見えているものが、他の人にとってはスキーのジャンプ台レベルの急傾斜なのかもしれない。「やる気だけでは乗り越えられないこと」、「親のしつけ」ではどうにもならないことがある。だからADHDは「障害」に区分されるのだ。

 

あ、誤解のないように念のため。うちは父母、祖父母まで徹底した「褒め殺し」家庭で、私は「のほほん」と過干渉な子ども時代・学生時代を過ごしたので、ちょっと甘っちょろいけど、そこそこ良い花咲いてます。