2021年2月14日(sun)

 

平岡ダムは、堤高62.5㍍、堤頂長258㍍、堤体積25万2,000立方メートル。非常用洪水吐(クレストゲート)のラジアルゲート16門と右岸側にセクターゲートという補助ゲート1門を有す。(写真/下流側から堤体を望む。コンクリートが白色なのは泰阜ダムと同様に放流の際、土砂で削られているためだ) 

 

平岡ダムは愛知県と静岡県に面する長野県南部の天龍村に位置する天竜川水系天竜川に建設された重力式コンクリートダム、Power generation(発電)を目的に中部電力が管理している。しかし、平岡ダムが形成するダム湖は国土交通省中部地方整備局が直轄している。(写真/非常用洪水吐をアップで捉える。訪問時、塗装工事が行われていて放流に使用されていると思われる2門だけはシートに覆われている) 

 

右岸側をアップ目で写すと、最も端にあるセクターゲートが辛うじて確認できる。こうした補助ゲートは珍しいものらしく、他では中部電力久瀬ダム(岐阜県)に備えられているだけとダムファンの方のネットに紹介されている。 

 

平岡ダムは、天竜川の水力電源開発を手掛けた天竜川電力の後継の矢作水力株式会社により昭和13年(1938)建造が始まった。前年に日中戦争が勃発し、電力需要が高まっていたが2年後には日本発送電株式会社に継承され国策工事に位置付けられた。(写真/天端の入口の看板。門柱には、珍しくローマ字表記でダム名が紹介されている)

 

平岡ダムの建設は重機が整備される以前のことで、トンネルの掘削やコンクリートの資材運びなど人力が頼りで、朝鮮の方約2,000名、アメリカ人捕虜73名、中国人884名が従事したとの記録があるようだが、この数が正確とは思わない。多くの方が栄養失調や病気で亡くなったとされ遺体はこの地で火葬されている。(写真/左岸からダムサイトをみる) 

 

昭和20年(1945)5月、資材不足のため進捗率56%で工事は中止される。戦後になって中部電力が継承し、昭和24年(1949)工事が再開される。まだダムの補償交渉が難航していたが、長野県が斡旋し昭和26年(1951)竣工している。「平岡ダム交渉史」によると47戸が湖底に沈んだとされる。(写真/規則正しく並ぶピアの造形美に魅了される) 

 

普段なら天端は開放され渡ることができるようだが、非常用洪水吐の塗装工事のため通行禁止。残念ながら右岸に行くことは叶わない。しかし、天端の下流側にはゲート巻上げ機(写真)が設置されており、元々下流側を見下ろすことはできない。

 


平岡ダム・平岡発電所 Vol.2に続く