2020年11月28日(土)

 

泰阜ダムはJR飯田線門島駅の近くにあって、電車で来れば歩いても訪れることができるダムだ。もっとも鉄路がこの駅まで敷かれたのは、泰阜ダムおよび泰阜発電所の建造のため資材運搬が目的だった。(写真/天竜川に架かる櫓橋からダムと発電所を望む) 

 

泰阜ダムは天竜川水系天竜川に建設された重力式コンクリートダム。Power generation(発電)を目的に中部電力株式会社が管理している。規模は堤高50㍍、堤頂長143㍍、堤体積12万8,000立方メートル。左岸が泰阜村、右岸が阿南町であるから、泰阜村が所在地ということになる。 
 

 

天竜川における最初の水力発電は、明治32年(1899)飯田電灯株式会社が建造した松川第一発電所が最初のようだ。その後、木曽川の電源開発で名を上げた福沢桃介は、晩年になって天竜川電力株式会社を設立。上流に大久保ダムおよび同発電所、南向ダムおよび同発電所を建設するが、桃介が直接携わった電力事業はこれが最後となり、泰阜ダムの建設には関与していない。(写真/泰阜発電所から天竜川左岸の道をダムに向かって進む) 

 

泰阜ダム本体は、赤色の12門で構成される非常用洪水吐(クレストゲート)のラジアルゲート、そして越流部は竣工時そのままのような白色のコンクリート。これを美しいと表現している訪問記がネット記事に散在するが、これは放流する際に土砂がダム表面のコンクリートを削っていくためで、土砂流出の激しさを物語っている。見た目とは逆にこの問題は深刻であり後述したい。 

 

その後、天竜川電力は矢作水力株式会社と対等合併し、社名は矢作水力を引き継ぐ。そして、戦時色が強まる昭和6年(1931)、中京圏の電力需要を賄うことを目的に天竜川水系初の本格的ダム式発電所である泰阜ダムおよび同発電所の建設を開始。昭和10年(1935)竣工し翌年から発電を開始している。しかし、泰阜ダムの完成により、天竜川の水運として名物だった、いかだ下りによる木材運搬は途絶えることになった。(写真/左岸からみるダムの擁壁。洪水時にはゲートを全開している) 

 

その後も天竜川の電源開発は進み、昭和13年(1938)泰阜ダムの直下流において平岡ダムの建設が開始される。その後、配電統制令によりダムや発電所は日本発送電株式会社に接収されるが、戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) による過度経済力集中排除法により分割され、昭和26年(1951)電気事業再編成令により中部電力が引き継ぐことになる。(写真/ダム本体の真横には、監査廊へ通じる出入口があるが、もちろん施錠されている) 

 

実はそれが監査廊の入口だとわかったのは、入り口に掲げられていた入坑中の表示板(写真)。そこには照明スイッチ点灯中とあり、間違えて消灯しないように記されている。確かに監査廊にいて、突然電気が消されたらびっくりしてしまうことだろう。 
 


泰阜ダム Vol.2に続く