ダム本体の横から直下を見下ろすが、写真手前の日陰の部分は波打つような模様になっている。洪水時の放流で土砂を多く含む水に堤体が削られてしまった結果だ。この左岸側には階段式魚道が設置されていて堤高が高いダムでとしては珍しい構造物だったが、下流に佐久間ダムが完成してから使用されなくなったという。(写真/減勢池の中心にある島状のブロックは減勢工で左右から流れ込む放流水を整流する役目を担っている) 
※魚道は今でも構造物の一部が残っているようだが、訪問時は気がつかなかった。 
 

 

天端の入口には、ダムの竣工年月を記した、以前のロゴマークの中部電力の銘板(写真上)があり、そこには施工業者が株式会社清水組と表記されている。また、下の銘板には、分社化する前の中部電力のロゴマークと平成13年(2001)にクレストゲートを取り替えたとある。製作は石川島播磨工業が担っている。 

 

清水組(現清水建設)に土木専門の部署が発足したのは昭和2年(1927)。それから5年後に泰阜ダムの大型工事を受注するものの、半期の利益(約100万円)を上回る損失を出すことになったという。しかし、この貴重な経験が後の土木部の発展の礎になったと同社の社史にある。(写真/天端は立入禁止となっている) 

 

元々、「暴れ天竜」と呼ばれる天竜川だったが、昭和15年(1940)頃から流域を襲うようになった水害は、泰阜ダムの堆砂が急速に進行したことが原因ではないかという声が住民から上がり、ついには泰阜ダム撤去期成同盟が誕生する。(写真/堤体の左岸上流にはダムを監視する建物がある) 

 

そんな矢先の昭和36年(1961)、100年に一度という大規模な水害が天竜川流域で発生する。俗にいう「三六災害」である。死者99人を出し多くの家が流された。その結果、流域の被害者約 200名が中部電力飯田支店に座り込んで、泰阜ダムの撤去を求めている。中部電力にしてみれば、自社で建造したダムではないのにと、やるせない気持ちもあったことだろう。(写真/右岸上流には水位観測塔がある) 

 

さらなる問題が発生する。泰阜ダムは平岡ダムと同様、日本で有数の堆砂が進行しているダムであり、昭和43年(1968)の調査において、コンクリートが摩耗した厚みは平均して20㎝、最大2.6㍍にも及ぶことが判明する。中部電力が調査したところ、現状より1㍍摩耗しても安全上問題ないとの結論に至ったが、この事実を朝日新聞が報じたことがきっかけに波紋が広がり、国会でも問題視されるようになったという。(写真/上流側から天端を望む。コンクリートがアーチ橋のような凝った意匠となっている) 

 

貯水池側にはフェンスがあり立入り禁止になっているが、ゲートの巻き上げ機のような装置があり、この下から取水していると思われる。また、手前には黄色とは白線が敷かれているが、黄線は除塵作業中は立入禁止、白線はしゅん渫作業中は立入禁止の区域であることを示している。(写真/右奥に管理事務所があるが、今は無人化されているはずだ) 

 

管理事務所の奥に進むと、突然、JR飯田線の鉄路が、トンネルとトンネルの間に見える。この区間を何回か列車に乗ったことがあるが、車窓からはこうしたダムの設備があることなどわからなかった。この区間は、元々、泰阜ダム建設による資材輸送なので、もしかするとここで資材を下すことなどなかったのだろうか。 (写真左/塵芥処理装置は2000年に竣工しているが、富士鋼業株式会社という静岡県の会社が請け負っている)
 


泰阜ダム Vol.3に続く