武蔵千葉氏展②・菅原道真・平将門フォーラム(「城主のたわごと」2016-04~2018-01) | 平将門・千葉常胤・古河公方

平将門・千葉常胤・古河公方

↑しばらくこれで行ってみようか(笑)
(旧「ぽたこのブログ」←ドエライ違いだがっ!!)
放置の多いブログです(^_^;)。通常は本拠「こたつ城」におります。HPです。アドレスはプロフでご覧下さい。
(ここしばらく消えてましたが、今また書き加えました)

通常は、ホムペ(自サイト「戦国放題こたつ城」)に居ます(^^ゞ。<宜しゅう♪
(ここにもそこからコピペしてるんだけど)

前回(「城主のたわごと」2016年の1月号・2月号)で長く引きずってた足利レポも終わり(^_^A)、2月号・4月号の平将門伝承の寺(福満寺)のレポをやって、今回に続く4月号の「武蔵千葉氏展」に入った。
今回はその続きから(^。^)。

その後、2016年6月号・7月号・8月号・11月号と飛ばして、2017年に入り、2月号で、恒例の「神田明神」に参拝し、続いて「湯島天神」にもお参りした。
神田明神の方は特段、将門ネタもやらなかったので割愛するが、「湯島天神」では、珍しく菅原道真について語った。
菅原道真(特に怨霊(^_^;))の存在を、将門の乱の時代背景と見なす学説も散見するので、今回は「天神ネタ」を取り上げてみたい。

その後は、また2017年6月号・8月号・9月号・11月号と飛ばして、2018年に入り、1月号で、千葉県我孫子市の「平将門フォーラム」を公聴したので、そのレポを。

ブログのメインテーマに沿って、今回も細かい所はバンバン飛ばしながら行く。
詳しく読みたいと思って下さる方は、本文(2016年4月号・2017年2月号・2018年1月号)を読んでね(≧▽≦)
特に、地図・案内図・系図・写真に沿った説明が、文中に出て来る事もあろうけど、ここでは出しませんので(^_^A)


 

<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

 

~中略~

 

さて、「武蔵千葉氏展」。
本来「郷土資料館」で話すべきだったが、ここまで来ちゃったんで(^_^;)、こちらで話します。

先にも述べた通り、武蔵にやってくるキッカケや、房総において「千葉氏」を名乗るようになった(率直に言えば「取って代わった」)「馬加系(佐倉系)千葉氏」については、全くと言っていいほど触れられてなかった(^_^;)。。

展示会や図録のトップを飾ってたのは、福島県の相馬市相馬妙見歓喜寺」から借りて来た、いわゆる“妙見縁起絵巻”の各場面が、ダダダーーッッ!と壮烈なる並びっぷり(^O^)<おお~

特に図録を買うと、展示された全部が絵だけでなく原文までシッカリ載ってるので、まぁそれなりお買い得ではあったかな(^。^)。

(妙見縁起は、千葉や相馬の祖・良文が甥の平将門と組んで、やはり親族の平国香と戦う話や、その後、将門を離れた妙見が良文の家の守り神になる段、千葉氏が頼朝の挙兵を助けて、房総国の平氏勢力と戦う段、頼朝が妙見の霊験に感動し、参拝するといった話の絵巻物)

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■妙見信仰と妙見縁起(福島県・千葉県)
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>(福島県相馬市)
2009年8月<東光院>内
2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内
2009年10月<千葉神社>

 

~中略~

 

さて、これより御参りする千葉自胤の墓だが、本来「自秀の墓」と書かれていたのを「自胤の誤記」と解釈して、「武蔵千葉氏の墓所」とされてきたそうだ。

ところが「自秀の妻」(すなわち「自胤室」)の墓が、自胤の時代より古い、元徳元年(1329)の年号が刻まれているため、松月院は、千葉氏が来るより前からあった寺と見られている。

そうなると、千葉氏の前の支配者が気になる。

ここ赤塚郷は、古くは豊島氏による開発地であったが、仁治2年(1241)に同氏が没落し、前北条氏の領地となる。
鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏の弟・直義の支配地になり、直義の正室・渋川幸子春屋妙葩(臨済宗)→鹿王院の流れで領主が移っている。

武蔵千葉氏が来た当時は、この鹿王院(京にある寺院で、室町初期に開基)の管轄にあったが、代官派遣による管理体制が、この頃には維持できなくなっていた。
その赤塚郷に、武蔵千葉氏は武力で入部し、そのまま居ついてしまった。

 

~中略~


鹿王院は幕府に赤塚郷の返還を求め、幕府も堀越公方・足利政知を通じて返還を求め、将軍義政自身、直接、武蔵千葉氏に命令するのだが、千葉氏の実効支配は続いた(笑)。
展示会の説明でも、「(房総においては追い出された)千葉氏も、武蔵においては侵入者」と指摘されていた。

しかしその一方で、寛正元年(1460)には、将軍義政はやはり堀越公方・政知に、千葉実胤への扶助(端的に言えば経済面の(^_^;))を命じているのだ。
鹿王院の訴えは一体どうなったんだろう(^_^;)。。

図録の解説によると、武蔵千葉氏の実胤・自胤兄弟は、下総の市川城から落ちて来た当初、葛西への入部を希望したという。
なるほど、葛西であれば海(東京湾)を隔ててすぐ向う岸が、千葉氏の旧領地である。

ところが葛西には、山内上杉氏の重臣・大石氏が領していたため、上杉氏は兄・実胤赤塚城、弟・自胤石浜城に入れたそうだ。
二城とも入間川(現・荒川)に面しており、川で下総に出やすいからだろう。


将軍に認められても、在地に馴染みの薄い千葉氏は、武蔵ですぐ困窮したという。

しかし古河公方が認めた馬加系千葉氏に対し、あくまで武蔵千葉氏を正当と見なす上杉氏は、実胤が困窮ゆえに武蔵を出奔すると、残った弟の自胤に家督を継がせ、相変わらず「千葉介」と呼んで武蔵に居座らせた。。(千葉介は、守護名としても鎌倉御家人としても重んじられた、千葉氏の伝統的な惣領称)

この強行さ、当の武蔵千葉氏はともかくとして、上杉勢力の誰の考えかなー(^_^;)。

『板橋区史』(通史編・上巻)に答(らしき)があった。
説明会の後も展示会をじっくり見て、会場を出る前に、図書閲覧コーナーに出会った(^o^)v
読みたい本を見てから展示場にも戻れるし、一階の図書販売コーナーで本を買ってからも、この展示会は無料だったから何度でも入れるのが良かった嬉しかった(^O^)!<ありがとう

そこで調べた所、どうも武蔵千葉氏の兄弟の間には、上杉体制の対立の構図が反映されていたようだ(^_^;)。
それは今も言った葛西をめぐるもののようだ。

山内上杉氏=大石氏=実胤
       ×
扇谷上杉氏=太田氏=自胤

↑端的に言うと、こういう事が書いてあった。わかりやすい(^^)。
それに、「いかにもありそうな対立図」という感じもしたわよ……(笑)。

前々回に足利レポで、長尾氏について長々と特集した。
その中で、大石氏などは本来、長尾氏よりも家宰に等しい重臣だったと書いた。
(2016年1月〈勧農城跡(岩井山赤城神社)>内以降、2016/05/22・後追リンク)
つまり、旧来の勢力(大石)に対し、知恵者の太田道灌が目立ち始めている図である。

こういう対立に対し、家宰・白井長尾景仲・景信取りまとめ力みたいなものは大きかったんじゃないかな(^^ゞ。
そしてその惣領&家宰の座をめぐって、長尾景春が叛乱を起こしてからは、もう上杉内部はついに収拾がつかなくなった、という事かもしれない(^_^;)。<ありがち

展示会には、やはり「太田道灌状」が枚数を連ねて陳列されていた。
道灌が上杉氏に、武士の働きを認めてあげるよう、熱心に上申していた事がうかがえる。
武蔵千葉氏の事も、その含む所にあったのかもしれない。

何しろ太田道灌は、困窮を言い訳に関東を離れて方々へ義理立てした実胤より、残って、あくまでも上杉の布石たらんとし続けた自胤と手を組んだ。
(男の意~地を~見せるでや~んす~カラスが鳴いて~夕焼け小焼け~♪(^。^))

説明会では、自胤の呼び方を、長年「よりたね」と読まれて来たのが、最近の研究で「これたね」と読むのが正しい事がわかってきた……という話をしていた。
早速、付近の案内板には、「よりたね」「これたね」の両方がしるされていた。

 

~中略~


ところで、展示では殆ど触れなかったのが、豊島氏である。

図録にも、鎌倉期には「没落した」とある豊島氏だが、武蔵千葉氏が来た康正元年(1455)の後、文明9年(1477)の江古田沼袋の乱石神井城の落城など、太田道灌との戦いで名を残しており、この地に居続けた事が伺える。
台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区またはその周辺と、勢力範囲も広くに及んでいる事が注目される。

千葉氏豊島氏の分かれ目(先祖)>(戦国期まで出すと長いんで(^_^;))

高望王┬国香┬貞盛(伊勢平氏・北条・伊勢)
     |   └繁盛(常陸平氏=城・岩城・大掾・小栗)
     ├良将-将門
     ├良文-忠頼┬将常┬武基(秩父・畠山・河越・江戸)
     |        |   └武常(豊島・葛西)
     |        └忠常-常将(上総・千葉・相馬)
     └良茂-良正(和田・三浦・大庭・梶原←(良文流とも))

豊島泰経らが長尾景春の乱に呼応して挙兵すると、太田道灌は武蔵千葉氏と南北から挟み撃ちの態勢で豊島氏を討った。
その後も、境根原の合戦臼井合戦など、武蔵千葉氏の自胤の活躍は、この時代あちこちで伺える。(でもこの辺も、展示会では完璧スルーでした( ̄▽ ̄;))
(2007年1月<臼井城跡>内以降
 2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>、2016/05/22・後追リンク)


これも区史から知った事だが、古河公方成氏上杉和睦(1478年)の後、成氏は房総の佐倉千葉孝胤を排除し、実胤と組む事に同意したが、やはり孝胤を捨て切れず、実胤の下総復帰は断念となったらしい。
実胤は東氏を頼って、美濃へ行った……といったような事が書かれていた。

 

~中略~


延徳4年(1492)、千葉自胤はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。
開山堂には、この開基の位牌をまつっているそうだ。

やがて房総の佐倉千葉氏も、最後には北条氏に養子入りされて乗っ取られたが、武蔵千葉氏も同様に、最後は女系となり、やはり北条氏系の婿を迎えて、北条氏に包括された。

その後に小田原征伐で北条氏が滅ぶ(1590年)。
天正19(1591)年、徳川家康は40石の朱印地を松月寺に寄進。
歴代将軍が続いて下付した朱印状正本が、寺宝として秘蔵されている。

今ある自胤の墓は、先に述べた通り、「自秀」と書かれるのを「自胤の誤記」との解釈であり、法名を「松月院殿南洲玄参大禅定門」、忌日を「永正3年(1506)6月23日」と刻まれるのも、後世の創立であると、江戸時代から指摘されていたそうだ。

それでも、文化9年(1812)に斉藤幸孝が著した『赤塚紀行』に挿画入りで記されるなど、当時から広く知られていたようだ。(隠岐守信胤志村城の伝承もこれにあるのかなぁ(^_^;))

この『赤塚紀行』で、「自胤夫人の墓」としたものも、銘が鎌倉時代末(1329年)のもので、今では「比丘尼了雲の墓」と呼ばれている(^_^;)。
墓地には、自胤の墓の他に、この比丘尼了雲の墓碑も建てられている。

私の手持ちの古い本は、まだ「自胤夫妻の墓」と認識されていた頃の記述であるらしく、自胤夫人の名を「竜興院殿」と記されている点が、それなり貴重に思われる(^^)。

その本には、自胤がこの寺を菩提寺に定めるにあたって、「近くにあった真言宗・宝持寺を菩提寺とし、曹洞宗に改めて、寺名を「松月院」とし、曇栄を開山に請じて、自ら中興開基となった」ともあるが……。

 

~中略~


展示会では、千葉氏のシンボルでもあり、篤く信仰もした妙見を祀った跡が、江戸時代にも信仰されてたとか、わりと最近まで区内に残ってた(「語り伝わってた」の聞き違いかも?)という話もあったが、何せ大勢がゾロゾロ見学する中での説明なので、聞き洩らす内に終わっちゃう内容も多く……(^_^;)。。

しかし、どのように新しい事がわかってきても、松月院が自胤によって、武蔵千葉氏の菩提寺とされたという経緯については、今でも否定される事はないようだ(^_^A)。
今後も菩提寺として存続し、武蔵千葉氏の霊を慰め、その歴史を懐古するのに相応しい寺である点に変わり無い事がわかって良かった(^^)。

寺には他に、天保12(1841)年、長崎の高島秋帆が、幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行った前夜、この寺を本陣とした縁で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。
 

~後略~

 


 

~(ここで、2016年、4月号は終わり、
6月号では、松戸市内における古河公方時代の史跡散策とか、
7月号でも、松戸の高城氏の城跡のレポはあったが、
ローカル色強く、本題に絡む程じゃないので割愛(^_^;)。
8月号では、アメーバで知り合ったピグ友さんとミニオフもあったり、
11月号龍腹寺は、千葉氏の話もちょっとあるが、同じく割愛(^_^;)。

2017年に突入して、
2月号神田明神と一緒に「湯島天神」を参拝した。
一見このブログと関係なさそうだが、天神に絡めて「菅原道真」の事を書き、
これが内容的に、将門の時代背景に関すると思ったので、
この後↓に取り上げようと思います)~

 


 

■7月・茨城県足利市・佐野市
<「湯島天神(天満宮)」①~参道両脇~>

 

~中略~

 

菅原道真(845~903年)というと、「国風文化」と学校でイメージづけられて習った。
この時代イメージは、そのまま続行されて良いと思う。

平安時代は長い。400年以上も続く時代は、日本史の中で随一である。
有名な人物はいっぱい出たが、誰がどの順で出たか、年表を見ないと思い出せない(^_^;)。
(前後を示すと、伴善男、菅原道真、平将門の順である)
だから「だいたい菅原道真の頃から国風文化」で覚えとけば良いノダ(笑)。

ただし「国風文化」の理由として、「遣唐使が廃止されたため、からの影響が途絶え、日本独自の文化が発展していった」と繋げた文脈で解説されたものだが、そこは個々に分けた方がいいかもしれない(^_^;)。


遣唐使の廃止は確かに菅原道真によるのだが、その理由を、

①日本文化も発達し、唐からの文化輸入の必要性が無くなった。
②末期の唐は荒れ果て、騒乱が多くなったため、旅行者に危険が増した。

こうした点から、遣唐使を廃止した菅原道真の卓見といわれていた。
必ずしも間違ってないかもしれないが、現在では、加えて、

③代わって、商船が多く渡航するようになっており、国営の遣唐使船に頼らなくても外来品(や知識)の入手が可能になっていた。
財政負担の多い遣唐使は、政府には賄えなくなってきた。

つまり、必ずしも「国風文化」に結びつく文脈ではなくなってきたノダ(笑)。
だから「菅原道真の頃に遣唐使が廃止された」「国風文化が発展した」「いわゆる平安朝らしい平安時代が花開いた」と分ければイメージ自体は継続して構わないかと(^_^A)


それと、時の政府の既定の路線として、遣唐使の廃止は決定事項だったようで、道真はその廃止を議する場の一員ではあったものの、特に彼一人の考えというわけではないようだ(^_^;)。

むしろ道真自身は、渤海からの使節の接待など勤めており、結構な外交肌だったようだ。
道真に到るまでも、外来通の蘇我氏と密接な関係にあるなど、時代に対して進歩的な氏族であったらしい。

菅原」という氏族名も、桓武天皇(781~806年在位)の頃、改名を願い出て、当時の居住地の名を名乗るようになったという。

それまでは「土師氏」といい、天皇・皇后の葬礼を行なう家だったが、彼らが請願して言うに、
「かつては吉事祭祀など)においても奉仕する家であったのに、この頃は凶事葬式)にしか用いられず、先祖以来の業の本意に叛くから」
が改名の主張であったようだ。


そもそも土師氏というのも、葬式屋として宛がわれた職掌というわけではなかった。
土師氏は、天照大神の次男・天穂日命から14代下った野見宿禰を祖とする。

垂仁天皇が、先に薨去した皇后の葬礼について群臣に尋ねた所、群臣たちは、殉死者生き埋めにする従来通りの葬礼を勧めた。

が、野見宿禰だけが「(殉埋は)人を利する道でなく、仁政にそむく」と反対し、土師を指揮して色々な埴輪を作らせ、天皇に進呈した。
天皇は喜んで、以後、埴輪を殉死者に代えて墓に入れる倣いとなった。

(垂仁天皇や野見宿禰の時代は特定できないが、古墳に埴輪が出るようになったのは、200年代後半ごろからのようだから、だいたいその頃を指した主張と思えばいいだろう)

このように土師氏も菅原氏も、従来の古臭い路線を改めさせ、人を活かし文化を発展させる理知に富んだ系譜として、道真が出るころには、学者の家として定着していた。
(同族に、同じく学者の家柄で有名な大江氏がいる)


道真は文章を作る事がズバ抜けて上手く、周囲に頼まれて、文を与えることが多かった。
しかし当時、学者の世界は競合が多くひしめきあって、真面目な道真には、鬱々と悩まされる日々が多かったようだ。

学者仲間との間に交友は乏しかったようで、当時の同僚の中には、どちらかと言えば仲が良くなかった人物が多かったようだ、

多くの軋轢のあげくか、讃岐左遷の憂き目に遭った時期もある。
任期は四年に過ぎないが、道真の嘆きようは凄まじく、清廉潔白のイメージが強い彼だが、実は地方を嫌う都会貴族の一人だった事を思わされる。


そんな中、意外な事に、後に道真が陥れられたとする藤原氏の当主、基経とは親密だったようだ。

道真の讃岐在任中に京の都では、その藤原基経宇多天皇との間に、有名な阿衡事件が起きる。
こういう事件である。

藤原基経が、日本初の関白の任を与えられた。
大抵こういう光栄な重職に任じられる時、まずは辞退するのが好ましい例となるので、儀礼的に基経は辞退した。

すると、尚も叙任すべく追って勅が下されるのだが、用いられた橘広相の文面に、中国の古典や故事からの引用で、「阿衡の任をもって卿の任とせよ」という言葉があった。
これに基経の家司藤原佐世が、「阿衡は位のみで、職掌はない」と噛みついた。

基経の手下である佐世がこういう事を言うのは、基経が、橘広相を政界から追い落とそうと謀ったからである。
案の定、この佐世のイチャモンに乗って、基経は、「職でないのなら、仕事をするわけにいかない」と、ストライキしてしまう。

時の政府は、実力者の藤原基経で持っていたから、途端に機能停止状態になってしまった。


時の天皇、宇多天皇は慌てて、自分の落ち度だとして、橘広相を庇い、基経に復帰を頼むが、基経は尚も広相への処断を要求。

ここに、讃岐に居ながら、この事件を知った菅原道真が手紙を書いて、
「これを罰すれば、後続の文章書きが委縮して、何も提出できなくなるだろう。
広相は皇室の外戚で皇子もなしている。
対して、この頃の藤原氏は沈みがちで、せっかく基経が優れた功を立てかけている時、蟻の出る隙間でも用心した方が無難ですよ」
と基経をたしなめた。この友情には、基経もさすがに感動したようだ。

この手紙が送られる前に、基経は態度を軟化させており、それはどうも基経の娘(温子)の宇多天皇への入内が成ったからのようだが(笑)、宇多天皇は、藤原基経をたしなめた菅原道真を頼もしく思い、すっかり入れ込んでしまった。

道真が任期を終え、讃岐から京に戻ると、異例の抜擢と、昇進に次ぐ昇進を与え続けた。
そしてこれが、道真を最終的には大宰府に左遷させる伏線となってしまう。。

 

~後略~

 



<湯島天神(天満宮)②~社殿・男坂・女坂~>

 

~中略(湯島神社じたいのレポがこの辺に入るが、大幅カットします。
読みたいと思って下さる方は、2017年の2月号をm(__)m
ここでは、湯島天神の成り立ちのみ↓~


伝えによれば、湯島天神湯島天満宮)は、雄略天皇2年(458)1月、雄略天皇の勅命により、天之手力雄命を奉斎したのを始まりとする。

~この間に、菅原道真平安時代が入る~

南北朝時代の正平10年(文和4年・1355)2月、湯島の郷民が菅公(菅原道真)の偉徳を慕い、文道の大祖と崇めて、霊夢によって老松の下に、本社より勧請したとされている。

文明10年(1478)10月、太田道灌がこれを再興、社殿を修建したといわれる。
又ここは、青松が茂る神境に野梅が盛んに香り、風雅に富んだ所として古くから名を知られていたという。

天正18年(1590)徳川家康江戸城に入るにおよび、特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月、豊島郡湯島郷の内、5石の朱印地を寄進して、祭祀料にあて、奉平永き世が続き、文教大いににぎわうようにと、菅公の遺風を仰ぎ奉った。

 

~中略~


江戸幕府の朱印地になり、江戸時代を通して、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめ、徳川綱吉湯島聖堂昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心として、当天満宮を崇敬した。

かって、菅公の徳は全国に浸潤し、天神様と尊ばれ全国に祀られて、学問の神様として敬われ、湯島天満宮は“湯島天神”として知られ、鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。
林道春、松永尺五、堀杏庵、僧尭恵、新井白石などの多くの学者文人に文神として崇められ、参拝もたえることなく続いた。

明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7ヶ月を要して、平成7年(1995)12月、後世の残る、総檜木造りで造営された。

 

~中略~


境内の梅は一時枯れたが、現在では、地元民の篤志により、数百本の梅樹が植えられ、2月から3月に行われる梅まつりにはみごとな花と香りで参拝者、鑑賞者を楽しませている。
また梅園の中には、満天下の子女の紅涙をしぼらせた「婦系図」のゆかりの地として里見淳外16名の文筆家ら旧知関係者によって、昭和17年(1942)9月7日に泉鏡花筆塚が設立された。
奇縁氷人石 嘉永3年(1850)10月江戸で初めて建てられたもので、右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。

御祭神 菅原道真公 天之手力雄命
例祭日 5月25日
湯島天満宮 文京区湯島3-30-1


それでは、改めて菅原道真の話を再開しよう。

一般的に、道真の大宰府左遷は、藤原時平基経の子)一人が全ての黒幕のように言われるが、実際には、道真は、他の多くの嫉妬や憎悪の対象になってしまっていた。

宇多天皇には、よほど阿衡事件が応えていたようで、醍醐天皇を次の天皇に立てるについても、道真一人を呼んで、二回も密談に及んだ。
これもどうも、入内した基経の娘(温子)に、まだ男子が生まれぬ内に譲位すれば、醍醐天皇(母は藤原高藤の女)を立てられる、と考えたからのようだ。

基経は死去し、子の時平が後を継いで、政界には時平と道真の二人が同列に上位を占めた。
阿衡事件で見た通り、実力者の家系である時平を除く事は出来ないので、宇多天皇は譲位に際し、「今後は全てに時平と道真を通さなくてはならない」と命令を下す。

これに対して、他の納言たちは怒って、ストライキを起こした。

 

~中略~


道真は宇多上皇に、「自分は学問に専念するため休暇を貰いたいが、それだと時平だけが仕事に従事しなくてはならなくなる。こないだの勅命の趣旨をよく説明して、納言たちを出勤させ(やすくし)て下さい」と頼んだ。

結局、宇多上皇が勅を出し直して、納言たちは宥められたが、道真はその後も、宇多上皇とその王子に娘を二人も入内させ、さらに位も従二位にまで昇進(道真より前の菅原氏の先祖たちは三位止まり)。時平と左右の大臣を占めた。

勿論その間、「自分は学者の家柄であり、大任は恐れ多い、苦痛である」と、何度も辞退を示しながら、上皇に頼られると断り切れず、大勢の妬みの対象に位置づけられながら、ズルズルと運命の時を迎えてしまう。

 

左遷される場合、「表向き栄転」の形をとりつつ、内実は「陰険にも流刑」という場合もある。

が、道真の場合は、ハッキリと罪科をとわれ、流刑として公表されている。この時の詔を「道真左遷の詔宣命)」などと呼ばれる。

その罪科とは、「前上皇を欺き、廃立を行なって、父子の慈を離間し、兄弟の愛を破ろうとした」というのである。

「前上皇」は宇多上皇、父子の「子」、兄弟の「弟」は、斉世親王を指すのだろう。
この斉世親王に、道真の娘が嫁いでいるので、「道真が醍醐天皇を廃して、弟の斉世親王を天皇の座に就けよう(新しい天皇の舅になろうと謀った」と言いたいわけだ。


ところが道真の左遷を聞くと、宇多上皇は自ら内裏に現われた。
が、警固の者たちが中に通さない。上皇は自ら草座を敷いて終日、庭で待ったが、誰も門を開けない。やがて晩になって、上皇は本院に帰った。

宇多上皇は、道真の左遷を事前に知らされてなかったんだろう。

対して、宣命が発せられたという事は、醍醐天皇は知っていただろう。(当時は、院政ではなく、親政期として有名な時代)
宇多上皇に事情を問われても答えられない(罪状証拠や正当性がない)から、上皇の行動に反応できなかった、という事か……。
あるいは宣命にいう「父子の慈を離間」「兄弟の愛を破」が、すでに修復不可能な状態になっていたからだろうか……?


湯島天神からのレポはこれで終わるが、菅原道真(と湯島天神や神田明神の界隈)の話は、この後も続ける↓

 



■8月~9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>


道真は流刑地の大宰府に赴いた。家族は一部を連れ添ったが、各々が別の流刑地に赴くなど、多く四散した。

大宰府への道中の食も馬も用意されず、到着すると、官舎の床は朽ち、縁も落ち、井戸も竹垣も屋根も手入れが必要だった。しかし天井を覆う板もなく、衣装は湿り、書簡を損じた。
生来が虚弱の道真は、すぐ健康を害し、胃病、不眠症、脚気、皮膚病を得た。

しばし望郷の念に暮れて過ごしたが、流刑の二年後、死に際しては、なぜか遺骨を故郷に帰すことを望まないとして、遺言によって大宰府に葬られた。(のちに安楽寺になったという)


道真の生きた時代(845~903年)は、先にも触れた通り、伴善男(811~868年)と平将門(?~940年)の間にあたる。
伴善男の事件、応天門の大火(866年)については、道真の以下の詩が残っている。

「班(あか)ち来りて、年事晩(おそ)し、刀気(とうき)、夜の風威(はげ)し、念ずること得たり、秋の怨(おも)ひ多きことを、心王、我がために非なり」

応天門の焼亡が3月に起き、その8月には、伴善男が首謀者であると告発した者が出て、9月に伴善男らに対し、遠島などの処分が下された。
この詩は、その年の秋、処分が降る前後に書かれたと推定されている。道真22歳の作である。

首謀者とされた伴善男自身が、そもそも冤罪と思われるものを、その縁座として配流された紀夏井などは、きわめて清貧な能吏であった。

冒頭「班ち来りて年事晩し」に、年老いた人さえも諸国にそれぞれ分けて配流された様子を取り上げ、最後の「我がために非なり」では、時世の行く末が「自分にとっても良い方向になると思えない」と締めくくっている。

道真の嘆きは、若きこの日の時点で、もう既に深かった。
そして、同じ事が自分や自分の一族の身の上にも降りかかると予想していた。

しかし、そのさらに未来、「将門記」において、道真は八幡菩薩の神意を告げる霊官として、将門に新皇の位を授けるとは、道真ですら予想しえなかったに違いない。

道真は初めから終わりまで、嘆いて一生を過ぎたが、その死は、その後の日本に変革を齎した。
その新しいステージが、怨霊であり、祟り神であった。


いわゆる「菅原道真の祟り」は、道真を左遷すべく、藤原時平を助けた以下の面々が、次々と謎の死を遂げた事によって、強烈に恐怖された。

まず、道真の死(903年)の3年後の906年、藤原定国が死去。
908年、藤原菅根が落雷を受けて死亡。
909年、最大の黒幕、藤原時平が急死。60~70歳代まで生きた彼の兄弟の中で、時平一人39歳の働き盛りであった。
913年、源光が鷹狩り中に、沼に落ちて溺死。

この間、疫病や旱魃などの災害が地上を覆い、怨霊への不安が人々にふりかかった。


923年、醍醐天皇の皇太子、保明親王(母、藤原時平の妹)が21歳で死去。
醍醐天皇は、菅原道真に右大臣の位を復帰し、正二位を追贈(生前は従二位)。
そして、道真を左遷(流刑)に処した折に発した、例の「道真左遷の詔(宣命)」を破棄させ、改元も行った。

しかし925年、保明親王の後に皇太子に立てた慶頼王(母、時平の女)も5歳で死去。
このように真綿で締め上げるが如く、ジワジワと時間をかけつつ、凶事は続いた。

そして、930年、清涼殿落雷事件が起き、藤原清貫(恐らく左遷運動に携わった最後の一人)が、落雷で胸部を焼き裂かれ即死。
帝のおわす清涼殿に雷が落下した、という衝撃もさることながら、この落雷光景が極めて凄惨で、これを目撃した醍醐天皇は以来、死病にとりつかれ、3か月後に崩御。


936年、時平の長男・保忠が物の怪にとりつかれ、僧侶の読経にある「宮毘羅大将」を、「我をくびる」と聞き、恐怖して死んだ。

943年、時平の三男・敦忠、38歳の若さで死去。

……と、いかに偶然とは言え、これだけ道真左遷の関係者の異常死と、時平子孫の夭折が連続したので、これの例外に当たる長生きの人にまで↓

「次男の顕忠は毎夜、庭に出て天神を拝んだので若死を免れ、時平の子としては珍しく、67歳と長寿を保った。

時平の弟・忠平は、生前、道真と親しく、道真の左遷に反対をとなえたので、むしろ天神の加護を得て、その後の摂関藤原氏の流れは、忠平の血脈へ続き、時平の系譜は衰運を辿った」

↑以上のような「補足」がつく有様となった。。。


天満宮(天神)は、九州の大宰府や京の北野天満宮をはじめ、全国津々浦々で祀られている。
湯島天神もその一つだが、将門の神田明神も、その首塚のある大手町もいたって近距離にある。

道真自身が祟りをもたらすような人物であったと言うより、多くが祟りを恐れ、やがて、むしろそのパワーにあやかろうとした。
その実際例が、将門の新皇即位(940年)に際し、上野国の巫女が口走った八幡菩薩神と、その神意を伝える菅原道真だった。
将門の乱は、935~940年。上の経緯と見比べれば、未だ祟りの真っ最中に起きた乱だった事がわかろう)

尽くし甲斐も無い朝廷のために働くより、自分たちの立てたいリーダーを、一緒に応援してくれたらいいのに……。
そのほうが、どれだけその才知が、苦しむ自分たち庶民の助けになっただろう。
そういう思いが、常々人々の心の地下深くにあって、高揚した瞬間に口をついて出たのかもしれない。

学問をもって宮仕えしていた菅原道真の同族(土師氏の末裔)、大江広元が、都を捨てて東国に下り、頼朝の幕府創世を一から支えあげたのは、その250年ほど後の事である。

 

~後略~

 


 

~以後、2017年4月号で、松戸市内の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡の散策、
次の6月号にかけて、千葉県栄町の龍角寺跡8月号は千葉県柏市の「鷲野谷城跡」、
9月号は、松戸の「根本城跡」や馬橋「萬満寺」、11月号は春ウララ~(^O^)、
……と色々あるけど、全体的にローカル話題なので全て割愛(^_^;)。。
2018年1月号、「平将門フォーラム」(千葉県我孫子市)拝聴レポ。これはやろう↓~

 



■6月・千葉県我孫子市(柏市・松戸市)
<平将門フォーラム(アジサイと手賀沼)>

 

~中略~


まず講師のラインナップは……、

1、『将門伝説を取材して』三谷和夫氏(※)
2、『我が町と将門』
  取手市=飯島章氏(取手市埋蔵文化財センター・館長)
  流山市=北澤滋氏(流山市立博物館・学芸係長)
  坂東市=富山恵一氏(将門研究家/ガイド会・会長)
  我孫子市=辻史郎氏(我孫子市教育委員会・生涯学習部・文化・スポーツ課・主幹)
3、『平将門の生産力』
  「馬」=岡田清一氏(東北福祉大学大学院・教育学研究科・教授)
  「鉄」=柴田弘武氏(古代史研究家/えみし学会・会長)
  「布」=染谷冽氏(関東学研究会・代表)
終了後ディスカッション
主催は「関東学研究会」で、我孫子市・坂東市の共催、取手市・流山市の後援である。

トップバッター(※)は、チラシ段階では、↑三谷氏ではなく、「村上春樹氏」とあった。
このフォーラムの開催は、地元の学習会で配られたチラシで知った。
その場で、村上氏が来られず、三谷氏に交代となった、というスピーチもあった。

手元のスマホでwikiを検索して、「という名の、平将門の研究者がいるらしい」と、認識したものの、「アノ(小説家の)村上春樹かと驚いた!」と呟いたら、すかさず「そう!字まで全く一緒ですよね!」と呼応する人もいた(笑)。

そうこうするうち、当日になった。
「ちょっと早めに行った方がいいかも」と思いつつ、そういう具合に運ばず、何とか30分以上前に到着したが……。

「立ち見になります。宜しいでしょうか」と受付で断られてしまった。 *うっ*

私らはまだ行列に加えて貰えたけど、それより後に来た人らなんかは、どこに並べばいいのか案内も行き届かず、自主的に行列を作るものの、部屋に入れるかどうかもわからない始末となった。。。

会場は「我孫子市市民プラザ」と言い、我孫子駅に近い「あびこショッピングプラザ(地図・イトーヨーカドー・セブン&iの看板が目印)の建物にある。(渡り廊下で隣接していると言うべきか)。

我孫子市というのは、千葉県でも端の……ハッキリ言って、そんな都会並みのイベント慣れしてない地域だと思うよ(^_^;)。
会場で市民の方が話しかけて下さって知ったのだが、どうも我孫子の市民ホールが、耐震だったかアスベストだったかで、何しろ今は使用できなくなったから、という内情のようだった(^_^;)。。

ようやく部屋には入れたものの、少しでも見やすい位置に背を宛てられる壁を探すのみで、以後、立ちっぱなしのまま5時間近くを過ごす事となった(^_^;)。。
前日まで徹夜のあげく立ち仕事してた亭主には、ずいぶんツライ午後となった。

開幕するや、早速「ここまで盛況になるとは……問い合わせの電話がジャンジャンかかってきて、こんな事は、我が市始まって以来です。驚きです。快挙です!」みたいな挨拶が飛び出て(笑)、何とかスタートを切った。

一人15分~1時間程度の時間配分がされてて、終了が近づくと係員が押しリンをチンチン鳴らして急かすんだけど(まるで学会(^_^;))、後ろにいくごとに予定とはズレまくった(笑)。


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……と、この辺で文字制限にぶつかったので(^_^;)ゞ、続きは次回!