足利「樺崎寺」・将門伝承「福満寺」・武蔵千葉氏展(「城主のたわごと」2016-01・02・04) | 平将門・千葉常胤・古河公方

平将門・千葉常胤・古河公方

↑しばらくこれで行ってみようか(笑)
(旧「ぽたこのブログ」←ドエライ違いだがっ!!)
放置の多いブログです(^_^;)。通常は本拠「こたつ城」におります。HPです。アドレスはプロフでご覧下さい。
(ここしばらく消えてましたが、今また書き加えました)

通常は、ホムペ(自サイト「戦国放題こたつ城」)に居ます(^^ゞ。<宜しゅう♪
(ここにもそこからコピペしてるんだけど)

今回も前回同様、「城主のたわごと」(「戦国放題こたつ城」→「城主のたわごと」)2016年1月号、からだけど、残りちょっとなので、途中から、その続きの2月号にも入って、足利レポは終わる\(^O^)/

 

その2月号は、後半で平将門の伝承のあるお寺「福満寺」のレポがあるので、続けてこれをやります。

福満寺のレポは、続いて4月号に連載となるので、4月号にも進みます。

この4月号では、これまた後ろの方で、古河公方時代における東京の千葉氏(武蔵千葉氏)の展示会レポをやったので、これも行ってみようと思う。

(……ただ残念ながら、ここで字数制限が来たので、これは途中で次に続くよ(^_^;))

 

じゃあ前回まで通り、本題ひきつぎ↓

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「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


今回の旅はこの問いそのものがメインテーマだった気がする(笑)。
その事を含めて、すごく有意義な旅行だったと思う。

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↑この前フリについては、前回でだいぶ全容が出たよね(^^ゞ。今回は食後のお茶みたいな感じ(笑)。
で、足利編はそこで終わり、その後は、旅行から帰った日常編に進みますー。

ブログのメインテーマに沿って、今回も細かい所はバンバン飛ばしながら行く。
詳しく読みたいと思って下さる方は、本文(2016年1月号2月号4月号)の方を読んでね(≧▽≦)
特に、地図・案内図・系図・写真に沿った説明が、文中ふんだんに出て来るけど、ここでは出しませんので(^_^A)
 



<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>

今回の旅行で最北端にあるのが、この「樺崎寺跡」(地図)である。

 

~中略~


この樺崎寺跡は、足利氏2代・義兼が建立したのが始まりで、当時は「法界寺」といった。

私が奥州藤原氏の三寺と対応して、鑁阿寺を二代・義兼の父・義康に充てる理由は、まず「義康の墓」と伝わる墓石が赤御堂にあるのと、ここ樺崎寺の開山理由が、「義兼の生母菩提のため」と伝わっているからである。

母の菩提寺だけ作って、父のは無いという事はなかろうし(^^ゞ、鑁阿寺は足利氏の菩提寺・祈願寺であるので、父系の祖先慰霊は鑁阿寺で行ったものと考えて良いと思う。

 

~中略~


初代・義康の名をハッキリ見ない理由はわからないが、「足利系図」だと、義兼の父は「新田義重」になっている(^_^;)。。同じ系図に義重の弟として、「足利義康」と書かれてるのに……(汗)。

ま、いっか(笑)。

何しろ義兼は義康の三男で、生母は熱田大神宮・秀範の女。前回、鑁阿寺で触れた通り、頼朝の母の妹だった。

前に、日光鬼怒川から宇都宮神社や宇都宮城跡に行く道々、「日光山縁起」の話のついでに、日光の歴史を語った事がある。

その折、この熱田大神宮・宮司の、頼朝にとって外戚にあたる系譜から、日光山別当を立てた話をした。(2012年6月〈宇都宮二荒山神社>内)
観纏」という人で、頼朝と足利義兼には従兄弟にあたる。

熱田大神宮・秀範┬範忠-観纏(日光山19代別当)
            ├-女
            |  ├頼朝 ┌頼家
            |源義朝 ├┴実朝
            |   ┌北条政子
            |時政+北条義時-泰時-女
            |   └北条時子      ├泰氏
            └-女  ├------義氏
                ├義兼
            足利義康

 

~中略~

 

また、「日光山縁起」における「女体権現」が、熱田大神宮家から義朝に嫁いだ、頼朝の生母を神格化したのではないか、という世迷言も以前書いた(笑)。(2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内、および、<宇都宮二荒山神社>内以降)

勿論これは「世迷言」と思って貰ってていいんだが(笑)、この熱田大神宮家の女性達からは、鎌倉幕府の歴代将軍のみならず、室町幕府の歴代将軍という、実に華々しい子孫達が生まれたわけだから、後世、神格化の条件が整ったとは言えると思う。

また、日光山別当となった観纏には、鎌倉と足利の両方に従兄弟がいたことになり、中でも同じ下野国にいた足利義兼と無交流だったとは思えないが、残念ながら、日光山との遣り取りについては、ここでは触れられていなかった。

母同志も姉妹(熱田大神宮家)なら、妻同志も姉妹(北条氏)と、頼朝の信任ことのほか厚く、比較して、頼朝の挙兵から鎌倉政権樹立までの過程で、すぐに靡いて来なかった新田氏に、大きな差をつける所縁となったのが、この義兼であった。

 

~中略~

 

義兼は身長八尺あったという。2m42㎝……大きすぎる(^_^;)。。
ネット検索してみたら、あの現代語訳サイトの「芝欄堂」さんが、「義兼はアシカだった(^。^)」と力説されておられた。 ヽ(^^;)<シ、シラ様。。

1184年の平家追討には、頼朝の弟・範頼の軍に属し、1185年、平家が滅亡すると、従四位下・上総守に任じられ、1189年、奥州征伐の後、伊豆の走湯山・般若寺の理真上人を開山として、鑁阿寺の前身・持仏堂を建立。

以後、鎌倉幕府においては中枢を担い、1195年、頼朝二度目の上洛にも従ったが、1196年、妻の北条時子と理真上人が相次いで他界すると、日頃よりの道心も極まり、高野山に上った。

 

~中略~

 

足利に戻ってくると、生母の菩提のために建久年間(1190~98)、ここに「法界寺・下御堂」を創建。鑁阿寺を壇上とし、鑁阿寺と相対させて、こちらの下御堂を「奥ノ院」としたのである。

既に書いて来た取り、鑁阿寺にこんにちの大御堂が作られたのは、その子の三代・義氏の時で、義兼の頃は持仏堂のみであった。
この樺崎寺も、やはり現在の「樺崎八幡宮」(神社)となるには、義兼の死後、義氏がここに八幡神合祀した事が始まりである。

だから鑁阿寺も樺崎寺も、正確には義兼・義氏の二代かけて作られたと言うべきだろう。

義兼の頃、ここは晩年の居住空間とされ、義兼は念仏三昧の暮しの内に、正治元年(1199)に、この法界寺で入寂した。

次回、この神社(八幡宮)をお参りするが、建物は江戸期の天和年間(1681~1684)の再建だそうで、明治以後も残されたようだが、法界寺のほうは、明治以降に廃寺となった。

 

~中略~

 

以上の通り、足利という所は、平安末~鎌倉初期の足利氏の痕跡を、間の時代がポーーンと飛んで、室町後期~戦国期の長尾氏の痕跡が取り巻いて、二度に渡って瞬間凍結されたような土地だった。

当初おぼろに想像した「足利尊氏と太平記」は全く無視され(笑)、その過去と未来の両極端に分かれた二つの歴史群像が、とつぜん浮き立って迫って来た感じがした。

室町幕府の将軍たちの墓所は、京の寺々にあるから、間が飛ぶのは仕方ない。どうも相国寺に多いようだが、これも応仁の乱でずいぶん焼けたようだね……(^_^;)。。

 

~後略~(ここでいっぺん、1月号が終わり、続いて、2月号を下に繋げます(^^ゞ↓)

 


 

■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>

 

~中略~


この地に八幡神を勧請したのは、鎌倉期の足利義氏であるが、この本殿の建物は、天和年間(1681~1684)の再建といい、この江戸時代の再建者が誰かは皆目わからなかった(^_^;)。

 

~中略~


現在「樺崎寺跡」とされているのは、創建者・足利義兼の頃に築かれた「法界寺」と、その子・義氏の頃に勧請された、ここ「樺崎八幡宮」であるが、明治の神仏分離の折、八幡宮だけは存続が叶ったと見えて、この通り、今も神社だけが続いている。

桁行二間 梁間二間 両側面は高欄付縁張 銅板葺 江戸時代
江戸時代の天和年間に再建された後は、昭和63年度・平成元年度の保存修理で、本来の造りであった隅木入春日造(軒唐破風)に復元した。

この本殿床下には、足利義兼の墓標があり、義兼はここで生き入定を果たしたと伝えられている。

 

~中略~

 

近年の発掘調査によると、この本殿のある場は、元は義兼を祀る「赤御堂」があり、南に多宝塔・石造層塔(義兼供養塔)、足利氏歴代の五輪塔が立ち並んでいたという。

前回の最後に、造園中の庭園をお見せしたが、あれは義兼の時代にあった浄土庭園の復原ではないかと思われる。(2016年1月<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
調査によると、池には中島があり、北側には3棟の礎石建物があり、前道路と並行して流れる樺崎川の前と後ろに、坊舎(僧侶たちの生活空間)の遺構も確認されたそうだ。

境内からは、三鈷杵文軒平瓦、青磁・白磁の壺、こけら経、 護摩壇の炉、かわらけ、漆椀などが出土し、鑁阿寺に並ぶ足利氏の重要寺院だった実相が浮かび上がった。

 

~中略~

 

この夕暮れ風景の天地を、カナカナとヒグラシの爽やかな声が冴え渡り、静かで澄んだ素晴らしい佇まいが、今でもこの写真を見ると思いだされる(#^.^#)。<良かったな~ここ

明治を迎えると、寺と八幡宮がある、ここ樺崎寺は、神仏分離の波をもろにかぶる。
八幡宮は残されたものの、寺は廃寺。

運慶作と伝わる大日如来像(国重文)や木造地蔵菩薩坐像、厨子、五輪塔19基(足利尊氏の父・貞氏高師直・南宗継らの供養塔を含む)などとともに、寺宝の多くは、西の光得寺地図)に移された。

足利貞氏や高師直の供養塔は銘文から判明したらしいし、近年の発掘調査でこの寺の重要性がわかったばかりだそうだから、今になって浄土庭園風に整備されてる感じなのも、最近の動きなのだろう。

 

~後略~

 



<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>

 

~中略~


さて、前回までに平安末~鎌倉期足利氏三代をやったが、義氏の後の泰氏以降については、とても全部はやりきれないので割愛させてもらう(^_^;)。
大雑把に言うと、泰氏の頃が折り返し地点で、執権北条氏に押されがちになっていった。

力を減じられたとかいうより、北条氏も内部から得宗家が出て権力を掌握したから、鎌倉将軍に忠勤を尽くしても、北条氏の支流と縁を結んでいても、もはや安泰に繋がるわけではなくなっていく。

泰氏は名越北条氏から娶った妻を側室とし、彼女の生んだ子は廃嫡。得宗家の女を正室として生ませた頼氏に家督を継がせた。
(名越北条氏からの前妻は、NHK大河『北条時宗』では、「桔梗」という名で登場、原田美枝子が“復讐する女”を熱演していた)

その一方で、それまで毎代に北条氏から妻を得ていた足利氏も、泰氏の子・頼氏には、上杉氏から妻を得た。上杉氏は鎌倉六代将軍・宗尊親王に従って、京から鎌倉に下向して来ており、これが足利氏上杉氏が婚姻を結んだ始まりであった。
(これもそのシーンが『北条時宗』にあった。宗尊親王が、北条時頼に無視された腹いせっぽく縁談を申しつけるという展開:笑)

頼氏の孫・貞氏も、上杉清子を娶って、尊氏・直義を得ている。

義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
             └義兼┬義純(畠山)
                 └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                         └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                  ├義顕(渋川)
                                  ├頼茂(石塔)
                                  ├公深(一色)
                                  └頼氏(足利)-家時-貞氏┬尊氏
                                                     └直義

泰氏の子からは、斯波・渋川・石塔・一色・小俣といった、その後の室町幕府においても勿論、関東足利氏足利荘にとっても関わりの深い支族が多く輩出した。
足利学校の創設者として、この泰氏が創設したとする説もある。

以上をもって、足利レポを終える。( ^^) _旦~~<お疲れ

 

~中略~

 



<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>

 

~中略~


栗橋は羽生からは少し距離があり、江戸時代は関所があったのだろうが、室町~戦国期にも栗橋城地図)があって、古河公方の形成した古河防衛網の最重要拠点だった。

古河公方は五代・義氏に至って、後北条氏の傀儡とされてしまうが、その最も象徴的かつ実質的な交代(後退)のシグナルといえば、栗橋城に北条氏照が君臨した事だろうか。

勿論そこに至るには、越後の上杉謙信と後北条氏との越相同盟の締結(1969年)や、関宿合戦による、古河公方勢力の後退(1574年)があったわけで、氏照の栗橋城入りは、そのほんの一幕にすぎない。

 

~中略~


古河公方勢力の後退といっても、それは五代・義氏の事を指すのではなく、義氏の兄・藤氏・藤政と、その父・四代晴氏を主軸とした反北条勢力を指すが、具体的にその残留勢力(奉行・外戚)として、北条氏の攻撃を最後まで受けていたのは、関宿城梁田氏であった。

梁田氏は抗しきれずに関宿城を退かされ、ついに後北条氏の古河エリア支配が確定する。

以上のような実効的な段階を経て、やがて北条氏は古河公方の威を借らずとも、関東の実質的な覇者となっていくのであるが、それを時機的・飛躍的に体現したのは、栗橋城をおさえた北条氏照であった。

 

~中略~


それまで氏照は北条氏の支流の一人にすぎず、北条氏自身も、実力的にはともかく、権威としては、あくまでも古河公方の家臣(外戚)の立場を踏襲するに過ぎなかった。

が、氏照は栗橋城主となるや、いきなり陸奥守に就任。
そしてこれが、古河公方義氏にかわって、実質上に北条氏が関東を支配し、多くの関東諸氏もついにそれを認め、従うこととなった機縁となった。

……あれ? いつの間にか話が戦国時代に行ったねっ(≧▽≦)。。<ゴメン
でも古河公方や後北条氏の時代も、古河を取り巻く地域は商人の活気を取り入れ、大いに繁栄していたので、こういう風情も少しは漂ってたかもしれないよ(笑)。

 

~中略~


以上で、本当に足利レポは、お・し・ま・い(^。^)。

 


 

~中略~
(ここで、<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>
<北千葉導水ビジターセンター>
<白井市「大釜ごはん・自然(じねん)」>
<夏から秋へ、手賀沼・古利根川・利根川>
などの項目が入るが、全部すっ飛ばして、ブログ表題の平将門のレポに進みま~す(^O^))

 


 

■9月・千葉県柏市
<「福満寺」、1(平将門の“大井”伝承の寺)>

 

~中略~


結局この日は、帰りに買い物するだけで帰ったが、気晴らしのドライブがてら、フラリと寄ったのが、手賀沼の南西、福満寺だった。

 

~中略~


大津川は、古代からある地名なのかもしれない。
900年代、中央に叛乱した平将門による政権が偽都(新王都)計画で、「大井の津」と指定した候補地として、前もレポした事がある。(地名は「大井」「大津」とも現在も残っている)。

 

~中略~


平将門大明神」
↑の大看板には、「平将門大明神」の隣りに小さめの字で、「大井の七人衆影武者伝説の里」と書かれ、下に「教永山 福満寺」とある。

福満寺は、奈良時代の尊慶の開山により、桓武天皇の時代(781~806年)に創建された。
承和11年(844)の薬師堂の棟札に、「下総国相馬郡、南相馬庄、大井郷別当福満寺」とあり、天台宗の寺院として、周囲の神社などを統括する別当寺院であったことがわかる。

(天台宗は国の官寺であるから、総本山・比叡山延暦寺から派遣されて、地域の取りまとめを任された、みたいな意味だと受け取った(^^ゞ)
 

~中略~


説明は山門(鐘楼堂)に戻るけど、現在の鐘楼堂は、江戸時代の享保13年(1728)に建立で、19世・恵深が秘仏「聖観世音菩薩」(現在も安置)を背負い、房総三カ国を巡錫開帳、浄財の勧募によるもの。
武州平柳の鋳物師と、相馬郡大井村坂巻清左衛門なる大工棟梁の名が見える。

ただし中の鐘は戦時中に供出。今のは多くの支援により昭和43年(1968)に新鋳したもの。

 

~中略~


そのパンフレット、ここにお参りした後で手に入れたので、この時は知らずに歩いてるんだが(^^ゞ、このお寺の周囲かなり広い範囲の絵地図が書かれていた。

なぜそれほど広範囲になるかと言うと、かつての福満寺の寺域が広かったからだそうだ。
これは維新後や戦後、寺や地主に対する国などの政策によって、今は寺の範囲を離れてしまっている、という事だと思う。

そこに、将門の第三夫人車ノ前」の五輪塔(墓所跡という事ではないかと)や鏡井戸・鐘ノ伝説、将門の重臣・坂巻若狭守の居城「大井追花城跡」など、将門類縁の伝承地が記されている。

その他にも、地域の神社・寺跡・古墳・塚・板碑など、数多くの旧所が案内されている。

 

~中略~


本堂(正面)の右手前の建物は「講堂」で、その奥、本堂と講堂の間に、「庫裡」がある(奥まっているから、この角度からだと見えないが(^^ゞ)。

 

~中略~


そして庫裡と本堂の合間に「平将門大明神」の祠→

寺の謳い文句に掲げられてる割に、特に大袈裟な囲いも説明版も無い。

 

~中略~


この福満寺は、平安初期の創建伝記と、今見た将門の痕跡から、平将門の乱の頃にもこの地域に寺があった、という寺伝と思われるが、その後は「火災に遭って、近世の建築は観音堂と鐘楼のみ」という事だ。

「火災」がいつのものか(近世建築も、その焼け残りか再建か)判らない(^_^;)。

同じような寺伝を持つものに高柳の善龍寺がある。
これも天台宗で、やはり相馬系の城跡近辺と思われるから、「同ソースを根にしてる(^^ゞ?」と思ったが、これも寺のパンフに「幾度もの火難を乗り超え」とあるので、現地では一まとめに書いてるだけなんだろう。

 

~中略~


本尊は先ほども書いた通り、「聖観音菩薩」で、聖徳太子の作と伝わるそうだが、隣接の観音堂の敷地にも「聖徳太子堂」があって、どうもこれらはこの土地の大工さんと関係があるような……(^^ゞ

と言うのも、先ほど鐘楼堂の建築に「坂巻清左衛門」という大工の棟梁の名を見た。

この「坂巻」という名は、この近辺でよく見かける。

言われてみれば石材とか建設関係の看板とかに多かったかなぁ(^^ゞ。

そして、この本尊「聖観音」は、平将門の重臣・大井城主坂巻若狭守の守本尊だという。
この寺が多くの火難をくぐりぬけて来た事から、「火防観音」とも呼ばれるそうだ。

聖徳太子は昔から、商工業者の信仰が篤いと聞いた事がある。
ここでは「職人の守本尊」として、太子堂が近郷の大工さん達の寄進で昭和48年(1973)に再建されたという。

坂巻という名は、「将門記」をはじめとして、将門の縁者や郎党などの当時史料には見かけない(^_^;)。
ただ大井城は、このすぐ近くにある「大井追花城」を指すようで、遺構の残る城跡がある。
戦国期の城で、高城氏に類する勢力と見られ、その前身か何かで相馬氏に関係があるのかもしれないが、今回は行ってない。そのうち訪れてみたい。

 

~中略~


本堂参拝の後は、この右方に進んでいくが、まず本堂の右隣に「倶梨伽羅龍王」なる小さい祠があり、「一切の苦難や災害を取り除いてくれる龍王」とある。
(「倶梨伽羅龍王」とは、不動明王の持つ剣に、火炎が龍のように巻きついている事を指し示すようだ)

その隣に「開運の黄金水」なるお手水(受け水)があり、その背後には以下の文言が書かれていた↓

 

~中略~

 

当山は平将門ゆかりの寺で、境内は太古の昔から不可思議な大自然のパワーが満ちあふれています。
神秘なパワースポットで、この聖地から湧き出る黄金水は身体を癒し、心を癒し、開運を招きます。
お参りされたあと恵みの黄金水で竹笹を使い身体を祓い清めてお帰りください。
福満寺・44世・現住・伊原慧純・合掌

 

と書いてあり、どうやら湧き水のようだが、「この水は飲めません」ともある。

そしてよく読むと、通常なら「参拝の前」にお水を頂くものだが、ここは「参拝後に祓い清め」とあって、いわゆる「お手水」とは用途がちょっと違うようだ。(順路的にも、本堂を参拝した後に控えている)

ちょうどここの前を通りかかった時、先ほどもいった、境内に清掃に来られている御婦人が、「どうぞこれをお使い下さい」とにこやかにお声をかけて下さり、竹笹を差し出して下さった。

ちょうど重い風邪で高熱を出して、病院にも行けない時だったから、「これは有難い(^O^)」と喜んで竹笹を受け取り、早速笹の葉にタップリお水を浸して、ババババッ!と体じゅうに水をかけた!(≧▽≦)<将門サマ!アリガト-!!

 

~後略~(ここで2月号も終わり、続いて、4月号を下に繋げます(^^ゞ↓)

 


 

■9月・千葉県柏市・我孫子市
<「福満寺」、2(日暮玄蕃の墓)>

 

~中略~


太子堂は、前回も述べた通り、近郷の大工さん達の寄進で昭和48年(1973)に再建された。
やはり前回も述べた通り、山門の梵鐘の所でも、当時の大工の棟梁の名として、相馬郡大井村坂巻清左衛門が見られる。

ちなみに坂巻氏の名は、近くにある「大井追花城跡」に、平将門の重臣と伝承する坂巻若狭守にも見られる。(2016年2月<「福満寺」(平将門の“大井”伝承の寺)、1>内以降、2016/05/22・後追リンク)

 

~後略~

 


 

(ここで、<隣接「香取神社」>
<湖北「布佐」周辺、神若囃子の神輿>
<秋の印旛沼>
<秋の手賀沼(大井~今井)>
<ハロウィンの街>
などの項目が入るが、全部すっ飛ばして、古河公方関連レポに進みま~す(^O^))

 



■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館①「武蔵千葉氏展」>


↑に行った。今回最後のレポになるが、ピッタリ今回で終われる(次回に続かない(^^ゞ)。

ツイッターで教えてくれる人がいて(いつもありがとうございます(^人^))、講演と展示説明の日程もチェックしてたが、講演には行けず(講師は黒田基樹センセだったようだよ、今年「真田丸」のさ!:笑)、展示説明には何とか行こうと、朝から頑張って出掛けた。

 

~中略~


今回訪れるのは、まず右上の「郷土資料館」(地図)これがメイン。
次に、「来たついで(^^ゞ」に訪れたのが、隣接「赤塚城跡本丸)」(地図)。そして中央の道路ハス向かいの「不動の滝」(地図)。
あとは昔から行ってみたかった所で、さらに左方向、この地図には入らない距離にある、「松月院」(地図)というお寺。

 

~中略~


この入口にすっくと立っている月星の兜と赤備えの鎧武者は……

きっと「武蔵千葉氏クン」とかなんだろうねっ(≧▽≦)!
……とワクワクしながら、後日ネットじゅうを検索しまくったが……

板橋区の『ゆるキャラ図鑑』無視されまくっている(・・;)。。

さらに、到着したのはギリギリながら開催時間には間に合ったハズなのに、館内に入ったら、もう説明が始まっていた(*o*;)。。

「時間まだですけど、みんな揃ってますから、じゃ、もう始めちゃいましょうか~」
「あ、そうですね~」(さっさと帰りたいしぃ~)
のノリでしょうか。いかにも“超マイナー郷土史の説明会”という風情でした(^^;)。。

 

~中略~


資料館の説明会で、係の方に質問したのだが、「わかりません」と言われてしまい、ちょっと残念だった事がある。
武蔵千葉氏が赤塚城に入る前、その前衛拠点として、志村城に入城したとされる、千葉隠岐守信胤なる人物についてである。

私はこの名を古い本で見付けたのだが、どういう書物が出典なのかを知りたかったのだ。
出来れば、千葉氏の系図のどこかの位置に確認できると嬉しかった。(もしかすると文化年間の『赤塚紀行』?とも思うが、後に書こう)

しかし、郷土資料館の図書コーナーをブラブラ見ていたら、「志村城」と題された本に、しっかり「千葉信胤」の名は載っていた(^_^;)。
説明係の学術員さんは、まだ近くにいたので、それを持って行って重ねて質問しようかとも思ったけど、あまり質問されたくなさそうだったのでやめた(笑)。

志村城と言えば……。

こたつ城を始めてから、時折あちこちで志村城の話をすると、多くからの反応が鈍い物だったのを、実は長い間、不思議に思っていた。

しかしこのレポを書くにあたって、グーグルストリートビューマップで志村城のあたりを見て、その人達の反応が何となく納得できた。

私は志村城に、二度に渡って行った事がある。
一度目は1980年代で、二度目は1990年代ごろだったかなぁ……。←大雑把な上に曖昧で恐縮(^_^;)ゞ

一度目は「東京にこんな所もあるんだなぁ(゚.゚)」と、ひたすら驚いた覚えがある。
ちょっと近付きにくいほどの深い森林があって、熊野神社に出た時は、開けていてホッとしたほどだった。
城跡付近を離れると、車がガンガン通る道路もあるし、建物もそれなり多く建ち並んでる所があるのに、城跡の付近だけは、樹木による薄暗がりが多く、緑も鬱蒼と濃かった。

それが二度目の時は、「ずいぶん変わったけど、前と同じように城跡があって良かった~(#^.^#)」と思ったのを覚えている。
だいぶ都会的なムードになって、城跡公園のようになっていて、高台で風通しも良く、庭園風の緑地を散策できて、「どこの城跡もこんな風になればいいのに」と思った。

しかし今、ストリートビューで見ると、志村城跡には大きなマンションが建ってしまっている。
目印のコパル工場というのが、昔はいかにも工場という感じだったのが、今は洒落た都会風のビルになっている。
辺り一帯に「志村城」と名のついた建物が林立しているようだ。……つまり城跡の風情は全て打ち消されてしまった、という事に他ならない(^_^;)。。

これでは、「いかにも城跡って風情」なんて言っても、「はぁ?」と思われるだけだろう。
そうか……そうだったんだね(;_;)。。

 

(ここで、<板橋区郷土資料館②「旧田中家住宅」>
が入るが、すっ飛ばして、先に進みま~す(^O^))

 



<赤塚城跡「本丸~滝不動」>

 

~中略~


肝心の「武蔵千葉氏展」についても話そう(^^ゞ。

展示会も、期間中に売り出された資料本(図録)も、この日の説明会でも、千葉氏の本拠地であった房総における、馬加氏原氏謀叛劇と、そのために滅亡に至った本嫡流千葉胤直・胤宣の父子の最期といった前段階については、殆ど触れてなかった(^_^;)。。

武蔵千葉氏は、胤直の弟、胤賢の二人の男子、実胤・自胤の兄弟によって興され、ここ東京都板橋区の歴史に加わるわけだ。
兄弟の父である、この胤賢すら、本嫡流の胤直・胤宣の父子と殆ど同時に討たれてしまうと言うのに、とにかくこの合戦については見事なまでにスルーでした(笑)。。

よって、ここ武蔵国に来るについては、ほぼ「内訌によって」の一言で片づけられ(^_^;)、しかし、その代わりに、房総では知り得ない(余り意識されない)、武蔵に来たからこそ生じた、彼ら千葉氏の子孫を取り巻く歴史には出会えた……と思う。
まあ、それもだんだん話ながら進もうか(^_^;)ゞ

 

~中略~


何しろ、武蔵千葉氏については、特に房総に残った傍系・馬加(佐倉千葉氏との軋轢は、既に「千葉県の動乱」で話してる通りなので、ひとまずそこを提示しておくね、↓

┌→2008年7月「千葉県の動乱vol2」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455~1456)>
|~以下内訳~↓
├2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
├2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内以降
├2007年1月<臼井城跡>内以降
├2007年6月<高城氏について>
└2007年10月<真里谷城跡>内以降
-------------------------------------
↑以降、追加↓
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内以降
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>
2015年5月<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
(以上、だいたいの所ね、全部提示すると膨大なので(^_^;))


氏胤┬満胤┬兼胤┬胤直-┬胤将
   |   |   ├胤将?└胤宣
   |   |   └胤賢-┬実胤-守胤-治胤-憲胤-女
   |   |         ├自胤-盛胤          ├某
   |   |         └信胤?       北条氏常(直胤)
   |   └馬加康胤┬胤持
   |          ├岩崎輔胤?-孝胤┐
   |          └孝胤?-----┴勝胤-昌胤┬利胤    北条直重
   └○○-馬場重胤-胤依-岩崎輔胤?         ├親胤┌良胤 |
                                     └胤冨┴邦胤┬女
                                              └重胤

 

~中略~


わりと急な坂で、エイサエイサ!と夏草を踏みわけるように登って到着したら、「ヘビに注意」とか書かれていて、ギョッとした(・・;)。板橋って言ったら、かなりの都会だけどね。。

赤塚城跡は、ここは勿論、他の大部分も都立公園の敷地に含まれ、「城山」「お林山」などと呼ばれているそうだ(^^)。

城の歴史は、今も言った通り、康正二年(1456)の千葉自胤(よりたね・これたね)の入城を機に伝わるもので、空堀や土塁の跡が当時を裏付ける。自然の谷によって、城の北・東・西が囲まれており、今見た溜池は北にあって、谷の水を受け止めている。

さらに北には、江戸時代には「徳丸ヶ原」と呼ばれる原野があったが、天保12年(1841)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行った事から、「高島平」と呼ばれるようになった。

明治以後は開墾され、「徳丸田んぼ」と呼ばれる水田地帯となり、溜池の水も灌漑に利用されており、高島平団地の開発が始まったのも、昭和40年代(1965~)から。

 

~中略~

 



<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

 

↑の途中で、字数制限が来たので、次はここから入りたいと思います(^_^;)。。