平将門・千葉常胤・古河公方

平将門・千葉常胤・古河公方

↑しばらくこれで行ってみようか(笑)
(旧「ぽたこのブログ」←ドエライ違いだがっ!!)
放置の多いブログです(^_^;)。通常は本拠「こたつ城」におります。HPです。アドレスはプロフでご覧下さい。
(ここしばらく消えてましたが、今また書き加えました)


テーマ:

すご~く間が空いてスイマセン(^_^;)ゞ

ここは常時放置が定例化してますが、気が向いた時だけ、こうやって来る事があります。

 

通常は、これも更新の間隔が空いてますけど、ホムペ(自サイト「戦国放題こたつ城」)に居ます(^^ゞ。<宜しゅう♪

(ここにもそこからコピペしてるんだけど)

 

今回もこれまで同様、「城主のたわごと」(「戦国放題こたつ城」→「城主のたわごと」)を♪

2016年1月号、から(^o^)。

 

え~っ?! 2016年~? もうず~っと前ジャ~ン?……と思われるかもしれないけど、その後コレといって遠出してないので、大ネタはこれが殆ど最後なんだよねーヌフフ(汗)。。

 

まず、本題ひきつぎ↓

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「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


今回の旅はこの問いそのものがメインテーマだった気がする(笑)。
その事を含めて、すごく有意義な旅行だったと思う。

 

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前回は「足利学校」が終わり、足利尊氏の立像の所で、今あげた本題に相当する「足利の地名から思い浮かぶ“足利尊氏の故郷”というイメージはここには無いが、尊氏を代表者として選ぶのは正しい」という、実に矛盾したテーマについて述べた(笑)。

 

その後、「鑁阿寺」に入って、「尊氏とは違うけど、足利氏の歴史」に踏み込んで、その途中で終わった。

 

今回もその続きをやるんだけど、ブログのメインは、あくまで「古河公方」なので、細かい所は飛ばしながら行く。
特に、地図・案内図・系図・写真に沿った説明が、文中ふんだんに出て来るけど、出すのが面倒だから、詳しく読みたいと思って下さる方は、本文(2016年1月号)の方を読んでね(^_^;)。

 



<鑁阿寺、2(つづき)>

鑁阿寺はここ→地図。鉄道は、JR両毛線だと「足利」駅、東武伊勢崎線だと「足利市」駅

 

~中略~


まず「大酉堂」だが、これは最初からそう呼ばれていたわけじゃない感じ(^_^;)。
これは現地の案内板をそのまま↓

 

此のお堂は元来、足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建立された。
当山に残る寛政二年、及び明治五年伽藍配置図には、足利尊氏公霊屋現在地に記載されている。
明治中期より、足利尊氏逆賊皇国史観抬頭し、41世忍禅上人は、甲冑姿の尊氏公木像本坊に移し、当山伝来の大酉大権現本尊とした。
大正六年42世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで、堂宇の大修繕を実施す。
大酉大権現は俗におとり様といい、古来武神として武門の信仰篤く、殊に東国では近世より、商売繁昌、福の神として信仰されている。
昭和61年、解体修理を実施した。
金剛山 鑁阿寺

 

※寛政2年は1790年(江戸時代)、明治5年は1872年。大正6年は1917年。昭和61年は1986年。


上記に示す通り、足利尊氏を祀る目的で作られた。
建立は室町時代。すなわち室町幕府の治世下であるから、当時なら幕府の祖霊を祀る霊堂として、江戸期の日光東照宮に匹敵したはずだよね。。
しかも江戸期も「足利尊氏公霊屋」と、キチンと記載され、明治初期まで至っていた。

ところが…… 「明治中期より、足利尊氏逆賊皇国史観が抬頭」「尊氏像を本坊に移し、大酉大権現を本尊とした」。

ハッキリ「何を憚った」「隠した」「挿げ替えた」とは書いてないが、まぁそういう事だよね(^^;)。。

でも、尊氏が朝敵とか逆賊とかヤラレた件は、足利に来たら、さぞ爪痕が……と思ってた割には、この「大酉堂」に触れてあるのしか見なかった。

~中略~


右の「御霊屋」は「足利大権現」と称し、俗に「赤御堂」ともいう。→本文(2016年1月号
創建は鎌倉時代といわれ、正和年間(1312年~)の伽藍配置図にもほぼ現在地(境内の西北)に描かれている。
(が、昭和32年(1957)境内整備のため、以前の位置より北へ十二間後退させている)

現在の建物は、徳川11代将軍家斉の寄進による再建で、本殿源氏の祖を祀り、拝殿(県指定文化財)に、足利十五代将軍像を祀っている。

昭和57~8年度、栃木県及び足利市の助成を得て、(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施している。

この本殿の裏には、前回、太鼓橋を渡った時、「赤御堂」の名称でちょっと触れた通り(2015年11月<鑁阿寺>内・B足利氏初代義康と、その父・義国の墓と伝えられる墓石がある。

私は覗かなかったんだが(^^ゞ、塀の隙間から見えるらしい。写真を出しているサイトやブログをネット上に見れる。(ご覧になりたい方は検索してみてネ(^^))

が、前回も述べた通り、義国は新田で亡くなったと見られ、新田庄で祀られていて(「義国神社」・地図)、この赤御堂にある墓は厳密には誰のものかわからないらしい(^_^;)。。
義国・義康については→2015年11月<鑁阿寺>内・A

ちなみに義国の長男で義康の兄・新田義重の墓というのも、隣の太田市(群馬県・新田氏の領域)「大光寺」にあるが、これも後の江戸幕府(徳川将軍家)が先祖供養のため作った寺なので、墓は現物ではなさそうで、「大光寺」でも、墓所へ導く案内を控えているように思えた。

(2013年3月<大光院>内、他に「新田氏塁代の墓所」というのもある→2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>
 

~中略~


さて前回は、新田氏と足利氏の祖・義国と、その子で足利氏初代義康の頃に、この鑁阿寺の前身・足利氏邸が建設されたと述べた。
そして義康が頼朝の父・義朝相婿となったため(つまり妻同志が姉妹)、頼朝と二代義兼従兄弟である事を書いた。

さらに頼朝と義兼は、北条時政の娘姉妹政子時子)を各々娶ったため、またしても相婿となり、さらに三代義氏は、北条泰時の娘を娶った、という所まで書いたよネ(^^)。
 

~中略~


この鑁阿寺は、二代・義兼が開基して、邸から寺になったのであるが、義兼の時代には持仏堂だったようだ。

義兼は、鑁阿寺を建てた後もしばらく余生を送っており、晩年に法界寺(現・樺崎寺跡のある辺り)を建てて、そちらで入寂している。(樺崎寺跡には、今回の最後に行くよ(^O^))
義兼の晩年は、鑁阿寺の創建に開山となった理真上人や妻の時子が相次いで他界したため、道心を深めていったという。
 

~中略~


義兼の正室・北条時子は、前回も書いた通り、義兼の生前中に自害を遂げた、と地元では伝承されている。(2015年11月<鑁阿寺>内・C

三代義氏は、この時子を母として生まれた。三男として生まれ「足利三郎」と称した。(たぶん兄達とは母が違うんだろうが、母が北条氏なので家督を継いだという事かと(^^ゞ)

やはり北条泰時の娘を娶って、蔵人検非違使に任ぜられ、正四位下左馬頭に至っている。
父同様に鎌倉幕府の枢機に参画し、数次の合戦にも大功を立てた。

義兼の頃は持仏堂だった鑁阿寺も、義氏の代に至って、父・義兼の菩提を弔うため、天福2年(1234)現在の大御堂を建てた事が、現存する棟札によって判っている。

この義氏の代、足利と鑁阿寺の歴史にとって、記念すべき遺産が二つ芽生えている。
 

~中略~


遺産の一つは、「徒然草」に、足利の名産品として、「染物」の記述があり、それが義氏の頃なのである。
(生地は、足利の代表的な職工である絹織物だろうと思われれる)

 

徒然草」 第216段

<原文>
最明寺入道鶴岡の社参の次に足利左馬入道の許へ先づ使を遣して立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様一献にうちあはひ二献にえび三献にかいもちひにてやみぬ。その座には亭主夫婦・隆辨僧正・あるじ方の人にて座せられけり
さて年毎に給はる足利の染物心もとなく候、と申されければ、用意し候、とて色々の染物三十、前にて女房ともに小袖に調ぜさせて後につかはされけり。
その時見たる人のちかくまで侍りしが語り侍りしなり
 
<現代語訳>
北条時頼が鶴岡八幡宮を参詣した次に、足利義氏の許へ、訪問前の使いを出して立ち寄ったところ、館の主人(足利義氏)の用意したおもてなしメニューは、
①酒と打ち鮑(のし鮑)、②酒と海老、③酒と掻き餅(蕎麦・餅、または蕎麦がき、又はぼた餅?)で締めた。
その座には、義氏夫婦と、隆辨僧正(鶴岡八幡宮別当、四條大納言隆房の子)と、あるじ方の人がともにもてなした。
(時頼が)「毎年頂いている足利の染物が、(今年はまだ頂いてないので)待ち遠しいことです」と言うと、「用意してあります」と、さまざまな染物を三十品も出して、目の前で女達に小袖に仕立てさせて、後で屋敷にも使いの者に届けさせたという。
その場に居合わせた人が最近まで生きていて、私(兼好)に話してくれた。


↑の正確な年時は不明だが、義氏の母北条時政北条時頼の父は北条時政の曾孫だから、二人は祖父と孫ほど世代が離れており、生年を比較しても38歳の差がある。
義氏は66歳まで生きたから、最晩年の遣り取りだったとしても、北条時頼のほうは28歳と、かなり年若い。(と言っても時頼は、36歳と、若くして亡くなっているが)

また、義氏夫妻の「」のほうは、北条泰時の娘だろう。時頼の叔母にあたる。

 

足利氏顕彰会によると、この時の義氏の接待メニューは、権勢の人を迎えるにしては、そう特別なご馳走ではないらしく、両者の間には飾り気なく、気さくで気取らない付き合いが伺えるという。

 

鶴岡八幡宮へ参詣後という事は、時頼が足利まで来たのではなく、鎌倉の足利氏館へ立ち寄ったんだろう。
そこで、「毎年貰う足利の染物」とか言い出すのだから、足利氏は本拠地の産物を、常に鎌倉にいっぱい運ばせ、蔵にでも詰め込んで、客が来るたびに土産に持たせたんだろう。
(ちなみに足利は、「足利織物」といって、絹織物の名産地)

 
前に相馬に行った時、千葉氏の名馬を、頼朝の御家人らが貰って誇らしげに自慢する、という話をした事がある。2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内

この時代の鎌倉武士というのは、どの家と婚姻して親戚になったから、このような名産物がいつでも貰える、というのを人前で見せるのが一種のステータスだった、と思う(笑)。

例えば、新田義貞千葉氏と婚姻していたから、新田で飼育されていた馬(新田も馬の名産地)と千葉氏の名馬をかけあわせたりしてたと思う(笑)。
馬は今でいえば自動車と同じ(^_^;)。性能の良さもさることながら、見た目が物をいう(笑)。

染物とか絹織物なんてのも、人目に見えやすい物(今でいえばブランド品)であるから、得宗家筆頭の執権とは言え、「俺は足利にいつでもこんな物を貰ってるんだからな」といった気持ちは当然あっただろうね(^_^;)。

 

もう一つ、義氏の時代に残された重要な痕跡は、鑁阿寺そのものに施された、「塔中十二ヶ院」の建立である。
これは今ある鑁阿寺の境内を囲むように外側に建てられた、12の寺を指す。

すなわち、東に、六字院、不動院、普賢院、東光院、
北に浄土院、宝珠院、威徳院、延明院、
西に金剛乗院、千手院、竜福院、安養院

であり、千手院塔頭(首座)とした。

ここまでは、境内の案内板にも記載されているのだが、この十二院に絡んで、義氏の時代以降、この鑁阿寺に関する重要な事を言うと、「鑁阿寺文書」の事がある。

鑁阿寺文書は膨大な量の中世史料を蔵し、何かと言うと名を見かける(^^ゞ。
ところが年号が記されてない物が多い(御内書など書状形式の文書には、通常年号が記されない)ため、書かれる記述の年代特定が困難で、文書の活用が、歴史を解読するのに対して高いハードルとなっていた。

ただ史料が多くない中世東国史にとっては貴重な文書群である。
そこで、この十二院の存在が改めて注目される。


それは十二院の年行事が、干支に沿って役割分担されているのではないか、という推測によるもので、その干支がわかれば、12年ごとの歴史事象に照らして、ある程度の年代特定が可能となるからだ。

先ほど出した見取り図は、境内の内部を示すが、かつては今の境内の外側に十二寺院が広がっていた
案内板によると、

「義兼の子・義氏(尊氏より六代前)の代に七堂伽藍は完成し、堀の外に塔中十二坊が堀をかこむ様に建てられましたが、明治維新と共に塔頭・千手院(現、足利幼稚園敷地)を除いて、(明治4年(1871)の廃仏毀釈により十二ヶ院が廃せられ)明治政府に上地させられ、

 

今は家富町という民家になっております。(広さ約5万坪)」とある。
つまり今は寺の敷地ではないが、かつては「塔中十二ヶ院」(または「供僧十二院」)と呼ばれ、中心「大御堂」を取り囲むように、12方向に院坊が建っていた。

案内板には、ただ十二の院名が羅列してあるが、その配列と干支の関係としては、右図の検証が例示されている。(佐藤博信『中世東国の支配構造』)

 

たとえば、以前、古河総合公園鴻巣館跡)において、古河公方初代・成氏の出した文書には、御判御教書(年号のついた発給文書)が少なく、御内書(年号の記されない書状)が多かったという話を書いた。(2015年5月<古河総合公園④「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>内

当時こうした事が、その前の関東公方との差として、何らか強く関東諸氏に対する効果を上げた可能性がある一方で、年代特定が困難な当時史料という点で、文書に現れる特定の個人名や事象などが、歴史の検証としては全く役に立たない事になってしまう(^_^;)。。

それがこの十二院の存在と、その年行事との関連づけによって、大まかな時代特定が可能となる希望が与えられたのである。

この十二院は、一般民家に開放される迄、六百余年この山地は続き、今の家富町全域が当たるそうだ。

義氏は、仁治二年(1241)53歳で出家し、足利左馬入道と号し、建長六年(1254)11月22日66歳で卒した。法楽字殿正義大禅門とされる。
あとに義氏の墓地がある「法楽寺」にも行く。

義氏の五代の孫、足利尊氏に至って、天下を平定し、京都に幕府を開き、室町文化の華を咲かせた事は前回も述べた通りである。(2015年11月<門前通り>内
 



<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
 

~中略~
(足利のお土産とか美味しいお昼ネタなんかのコーナーだがサラッと割愛:笑)
2016年1月号
 



<勧農城跡(岩井山赤城神社)>

市内の中心地「足利学校」「鑁阿寺」を見学した後は、南から北方向に攻めてゆく。
まずは、今回訪れた中では最南端にあたる「勧農岩井山城跡」(現・赤城神社)に行く。
 

~中略~
(地図を出して場所の説明などしてるが割愛(^_^;))


今回行った所は、訪れた順に、「足利学校」「鑁阿寺」「岩井山」「長林寺」(二箇所あるが左上の方)「法楽寺」「両崖山」「心通院」「樺崎八幡宮」。

午後はまず渡良瀬川に向かう。

 

~中略~
(上に同じく、地図で場所説明してるが割愛(^_^;))


前回、「足利学校」で述べたように、足利の中心部にある二大観光史跡「鑁阿寺」と「足利学校」は、前者が足利氏、後者は関東足利氏の管領上杉氏の史跡と言えるが、その周囲に散らばるのは、上杉氏の家宰氏族・長尾氏の痕跡が多くなる。

これは、1500年代半ば、享徳の大乱による、古河公方・足利成氏との戦いの折、長尾氏が足利に入部して、上杉勢力の確保を計った事に始まる同氏支配が原因で、その最初の本拠地が、ここ岩井山なのだ。2015年5月<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降)


橋の渡る先に見えるのが「勧農城」のあった岩井山
森の合間にチョロと見える瓦屋根の建物が「赤城神社」(地図)で、本来の城跡は神社より高台にも続く。
 

~中略~


初めてこの「勧農城」という名を聞いた時、何となく異様な感じがした(^_^;)。
前もって、「勧農とは農業の振興を意味し、中世における領主の責務」と書かれているのを読んで、「それはそうかもしれないけど、あまり聞いた事無い地名のような(^_^;)」と思っちゃったんだな(笑)。
何か観念的で、「地名」といった自然につく物に当てはまりにくいような……。

それともう一つは、この立地条件。
地名の由来では、「勧農城一体は古くから足利荘の中心的な位置を占め、足利荘の政所があった」と云うんだが、地図で見ると、「ここに(^_^;)?」という気分になる……。

見ての通り、小高い丘ではあるのだが、その麓部は、半島と言うよりは、という感じ(^_^;)。川は岩井山を南周りに大きく蛇行しているが、昔なら廻りを渡良瀬川の激流に取り囲まれていたんじゃなかろうかと思ったからだ。
 

~中略~


では、勧農城(岩井山城)跡に行ってみよう(^^)。まずは現地の案内板から↓

 

岩井山城跡勧農城跡)
足利旧市街の南東、勧農山(いま岩井山)なる独立小丘の丘頂から麓部までを占め、東西約160、南北約200mに及ぶ。
丘頂は平坦で本丸跡、廻りを土塁で囲み、南から東の緩斜面に階段状に二の丸、三の丸を設け、その北東の本丸直下に大手口をつけ、帯郭が連なる。本丸跡北東隅の最高所は物見台跡である。北の尾根は一段下って郭となり、それより西は段階状の帯郭となっている。
西から南には南流する渡良瀬川がめぐり崖上に築かれたこの城は見晴も絶好で天険の城塞である。文正元年(1466)足利長尾氏の初代景人足利庄代官としてここに居城を構えた歴史的城跡である。
(昭和45年7月25日、足利市指定)
昭和63年12月
財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会

 

~中略~


前回の足利学校のレポ(2015年11月&lt;「足利学校」③、「南庭・方丈(外観)・裏門」&gt;内で、足利学校の元あった場所について、足利学校の「入徳門」近くの案内板に、
 

現在地の南東方1キロ弱の国府野にあり、奈良・平安時代に諸国に置かれた国学の遺制であるといわれる……


……ウンヌンと書かれていると述べた。

この文面だと、「奈良・平安時代の国学所の名残」と読めて、国府の管轄でもあったかのごとくだが、これも前回同項で、「下野国府は別の場所にあったので、恐らく古くから足利氏の政所があったとされる場所だろう」的な事を述べた。

そして南東1キロぐらいの位置を、地図上を指で推し量ると、だいたいここ岩井山勧農城地図)あたりに指が当たる事も前回述べた。
『上杉憲実』(田辺久子)にも、この勧農城を、足利学校の前身とする地元の説(伝説?)が紹介されている。

それが今、上に見た通り、この城跡の看板には、そうした古い痕跡が一切書かれておらず、いきなり「1466年、足利長尾氏、初代・景人」の入部から書かれている。
 

~中略~

 

この勧農城の後に、「長林寺」「心通院」など、この戦国期の足利長尾氏の史跡も巡るので、今回は時代を下って、関東長尾氏について書いてみようと思う。

長尾氏がこの足利を支配するきっかけとなったのは、長尾氏が仕える上杉氏が、古河公方足利成氏と対立し、享徳の大乱を戦い合うようになったから、というのが一般的な解釈と思われる。

室町幕府は、享徳の大乱が勃発するや、殆ど自動的に「上杉支持」を打ち出した。
よって足利成氏は、その後30年近くにもわたって、朝敵認定をされ続ける事となる。

だから「一般的には」、謀叛を起こしているのは古河公方・成氏と、その与党の者達で、京から見れば、東国に古河公方を追討してるつもり……という事になるわけだが、これこそ、いわゆる中央史観という奴である。

幕府の上杉支持路線は、成氏の父・持氏永享の乱の時も、成氏の兄・春王丸安王丸結城合戦の時も、鎌倉府と対立するたびに出してきた、いわば「既定の路線」に過ぎない。

折々に「一般的」などと廻りくどい言い方が出るのも、上記の言い回しだと、主因は主人の上杉氏にあって、家来(家宰)の長尾氏は、付き合わされて古河公方と戦うハメになってしまったような印象になりがちだからである。

ところが東国府の視点で見れば、享徳の大乱に至る初期主因は、「上杉氏より、むしろ長尾氏にある」と言う主張であったと思われる。

永享の乱によって、鎌倉公方は鎌倉にいなくなり、続く結城合戦によって、その後継者すら東国にいなくなった。
その後を圧倒的な支配力によって、各地に押し入り、利益を脅かした関東管領・山内上杉氏の主導勢力に対し、東国各地から不満が強まり、不協和音の頂点に成氏は立った。
(2015年5月<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内、および、<古河総合公園③「公方様の森~天神橋」>内以降)

それでも成氏は、当初から上杉を敵対相手とみなしたのではなく、その配下にいて威を奮う、家宰・長尾氏こそ事態の根本と見抜いて、その排除を試みたが、上杉氏は全く協力的ではなかった。

そこで関東管領・上杉憲忠を討ち、その後の混戦につれて、鎌倉から古河に拠点を移した。
が、所が変わっても、長尾氏こそが、関東の大乱の当事者であり、いわば張本人と見られていた点に変わりは無い。

成氏は時に敗色が強ければ沈黙し、時に優勢に転じると和睦の誘いを投げかける、なかなかの軍略上手で、冴えた外交手腕の持ち主でもあった(笑)。

が、その主張は、事の発端(1450年、江ノ島合戦)から32年間、終始一貫して、「朝廷・幕府・上杉とは和睦」を望み続けた。
つまり、「長尾討つべし」から始まった大乱の根幹姿勢を曲げなかった、と見る事ができる。

だから中央史観に偏らず、東国府の視点に立つと、東国府も追討戦を展開していたのである。

上杉はそれを判っていたし、京幕府でも認識されていた。江ノ島合戦の(畠山氏が管領だった)頃までは、成氏の主張も配慮されていたフシがあった。

しかし幕府からも上杉からも、長尾を罰するとか、家宰の立場から退かせるとか、様々な権益を長尾氏から取り上げたり、永享の乱の前に東国を戻す、といった成果は得られなかった。

その原因として、関東管領上杉氏の力の大きさもさることながら、上杉氏の家宰・長尾氏の実力の程がそれだけ強かったことがあげられる。

それほど大きな権力を、いかにして持つに至ったのか、そしてこの足利にその後、戦国末期に至るまで、土地支配を施した足利長尾氏というのは、長尾一族の中でどういう位置づけなのかを、これより話していきたい。

 



<長林寺>

 

~中略~


長尾氏も自称する所は、千葉氏や畠山氏と同じ、桓武平氏の良文流という。
平安末、頼朝にとって敵の平家方・大庭景親に与したため、三浦氏に預けられ、遇された。
それゆえ、その三浦氏の滅びた宝治合戦(1247)で、三浦氏とともに没落。

こうした経過もあって、その系図は様々ありながらも、正しい所が判明せず、南北朝期の「景忠」あたり(1341年頃)から、やっと具体的になるという。

長尾氏の説明の中には、上杉氏との縁は南北朝より古いというものもあって、相模系とは別に、京にいた長尾氏が、鎌倉幕府の六代将軍となった宗尊親王に伴って、鎌倉下向して来た上杉重房の介添えとして京から来て、相模系から養子をとって後継とした、というものも一部あるらしい。

が、これよりゆく「長林寺」に所蔵される系図には、こうした記述は見られないという。


引き比べ、「景忠」の頃すなわち南北朝期というのは、上杉氏が、足利尊氏・直義の母系の親族であったがゆえに、絶大な権限を持って北陸や関東に割拠しはじめた時期にあたる。
上杉氏は、その活動を補完すべく、その頃から多くの配下を抱えたから、長尾氏の活動が具体化するのも頷ける。
(2013年6月<雲谷寺(新田義宗の墓)>内

さて、肝心の足利長尾氏であるが、そもそもこの系譜を、長尾氏の中で筆頭宗家(惣領)と見るべきなのかもしれない。

しかし「長尾氏」と言えば、謙信の出た越後長尾氏と、「長尾景春の乱」を起こした長尾景春の長尾氏がよく知られていると思う(私もそうでした(^^ゞ)。

 

~中略~
(ここから先、長尾氏の系図が何回も登場するけど、こちらのリンクを見て下さい(^_^;)→)長尾氏系図

 


先に述べた通り、先頭の「景忠」以後が上杉氏の下で行動した長尾氏となる。
既にそこから、後に謙信を生む越後長尾氏とは、枝が別れてしまっている。

一方、長尾景春に続く系譜は、景春の祖父・景仲赤い矢印)に注目して貰いたい。
生家に続きの系譜を書きこんである。「景仲→景信→景春」で、景春に続き、景信の弟に「忠景」がいて、叔父の忠景と甥の景春の間で、家督相続の対立が発生。「長尾景春の乱」へと発展した事が知られている。

この景仲は、先祖「景忠」の嫡流「鎌倉長尾氏」に養子に入っている

同じく、足利長尾氏の祖・実景
青い矢印)も、「鎌倉長尾氏」に養子入りしている。
この実景の祖父「満景」には「①」と振ってあり、これは「上杉氏家宰」となった順番を示している。


「満景」には兄(嫡流)「景英」がいたが、早死にしたか何かで、初の家宰の地位に満景が就任している。満景の流れを「犬懸長尾氏」と呼ぶ。
嫡流は「鎌倉長尾氏」の「②房景」であるから、二代目の家宰にこれが就任しているが、男子がなかったか、早世したかで、ここで跡継ぎが絶えてしまう。

そこで、一番血縁に近い、従兄弟の「景仲」が「鎌倉長尾氏」の後を継いだが、景仲の母の実家も同族・「白井長尾氏」であり、そこも跡継ぎが絶えたのだろう。景仲は「鎌倉長尾氏」を離れ、「白井長尾氏」の女と結婚して、これを継いでいる。(
赤い矢印

景仲に代わって、惣領「鎌倉長尾氏」を継ぎに養子に入ったのが、先に言った「実景」である。
実家の「犬懸長尾氏」は、恐らく弟の「某」が継いだが、子孫無くこの世を去ったか何かで、「実景」の子、「景住」が「犬懸長尾氏」を継いだ。

が、「景住」も子孫無く死に(これは後述する)、「景住」の弟(実景の末子)「房清」が、兄「景住」の養子となって、「犬懸長尾氏」を継承した。(
青い矢印

 

~中略~


以上は、「白井長尾氏」、および「犬懸長尾氏」の継承経過である。
では当初、養子を継いで後継を繋いでいた、惣領格「鎌倉長尾氏」はどうなったのか……。

先に結果のみ言うと、犬懸長尾氏の後継に人選されてない「景人」が、実父「実景」の継いだ「鎌倉長尾氏」の後継者格となったのだろうと思われる。
この景人が「足利長尾氏」の祖となり、足利に入部して、戦国末期まで続く礎を築いた。

そう。つまり勧農城に入り、この足利の地を戦国期まで領した足利長尾氏が本家なのである。

この長林寺も、はじめは勧農城の隣接地に建立され、三代・景長現在地に移設したと寺の案内板に書かれていた。

 

~中略~


嫡流「鎌倉長尾氏」は、既に書いて来た通り、実は「景英-房景」までで絶えている。
そこに、先に養子に入って後、白井長尾氏の養子となった「景仲」の次に血脈の近さを辿って、初代家宰の満景の孫・実景が養子入りにより後継、「鎌倉長尾氏」の家名を保った。

これは実質、満景の「犬懸長尾氏」こそが、殆ど筆頭嫡流家(惣領)格になったと言える。
系図に有る通り「①満景-④憲景-⑥実景」と、三代に渡って山内上杉氏の家宰職に就いているのを見ても明白である。


ところが、惣領(宗家)という責任ある地位にあったため、この「犬懸長尾氏」の系譜には毎代に悲運が訪れる。

①満景。
上杉禅秀の乱(1417)によって戦死。主人・山内上杉憲基に従って、禅秀追討の側にいたためと思われる。

④憲景-⑥実景
(④と⑥を父子、または兄弟と見なす両説あるようだ)
憲景は不案内だが、もしかすると……。。
江ノ島合戦の時(1450)、長尾景仲太田資清が公方・成氏を急襲した際、上杉憲忠は恐らく長尾・太田からも何も知らされておらず、成氏の側にも、「長尾」と名乗る者がついていたようだ。
これが憲景かな、という気がするが、どうだろう(^_^;)?

つまり、江ノ島合戦に至る成氏急襲未遂事件というのは、長尾氏の一族においても、長尾景仲だけが突出・暴発したクーデターであって、上杉は勿論、惣領格の鎌倉長尾氏(犬懸長尾氏)も寝耳に水だった可能性があるかと、個人的には思っている(^^ゞ。

⑥実景-景住(犬懸長尾氏へ養子)
1454年、鎌倉公方・足利成氏(後の古河公方)が享徳の大乱を起こした時、その手始めに、管領・山内上杉憲忠を粛清した。
犬懸長尾(実景・景住)父子は、この際、成氏側に討ち果たされている。上杉側と見なされて、ともに殺害されたのだと思う。

(2015年5月<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内、および、<古河総合公園③「公方様の森~天神橋」>内以降)
 

~中略~


何しろ、このようなわけで、鎌倉および犬懸長尾氏は、次々と当代を失うに至り、辛うじて鎌倉長尾氏は景人が残って足利長尾氏となり、犬懸長尾氏は景住の弟・房清が後を保った。

以上で、足利長尾氏の長尾氏一族における位置が、だいたいお伝え出来たかと(^^ゞ。
繰り返して言うと、「足利長尾氏こそ、長尾氏の惣領(宗家)格に位置する」と言えよう。

それなら、なぜこの足利長尾氏が、それほど有名でないのか(^_^;)。
だって「関東の長尾」と言えば、長尾景春でしょ?!(笑)

そこは後から始まる説明を聞いてほしい。次は「法楽寺」に行くので、その後から始めよう(^^ゞ。
(「千葉県の動乱」<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476~1480)>

 

~中略~
(勧農城の赤城山神社や長林寺じたいのレポや説明は、このブログでは大幅にカットしてます(^^;))
→2016年1月号

 

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以上、文字制限につき、続きは又そのうち~(^^)/~

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