2015年 10月 15日 ハレルヤ!
愛するあなたへ! 今日も命が与えられ、一日が与えられました。全てを私たちの神である主に感謝して、いつも喜んで、絶えず祈り、主と共に歩みましょう!
今日の聖書箇所は雅歌6章、ヨハネの手紙第一2章です。共にデボーションしましょう。
☆今日のみことば☆
「この世と、その中のすべてのものに、心を奪われてはなりません。 もし、それらを愛するなら、実際には、神様を愛していないのです。」
ヨハネの第一の手紙 2:15 JLB
http://bible.com/83/1jn.2.15.jlb
ヨハネの第一の手紙 2:15 JLB
http://bible.com/83/1jn.2.15.jlb
☆コラム☆
この世はサタンの支配下にあります。サタンはこの世の誘惑で私達人類を神から引き離そうとします。
「すべて世的な事柄――性欲におぼれたり、ほしいものを何でも手に入れたがったり、財産や地位を鼻にかけたりする悪い願望――は、神様から出たものではないからです。 それらはみな、この不正な世の生み出したものです。」
ヨハネの第一の手紙 2:16 JLB
例えばもうすぐハロウィーンがあります。これもサタンの罠です。祝ってはいけません。悪霊に心を明け渡す事になってしまいます。
この動画をYouTubeでチェック:
「元悪魔崇拝者、ハロウィーンを警告!」
http://youtu.be/jgxTC_lLw9o
「元悪魔崇拝者、ハロウィーンを警告!」
http://youtu.be/jgxTC_lLw9o
「愛する子供たちよ。 この世の終わりが近づいています。 すでに耳にしていたとおり、今や多くの反キリスト〔キリスト様に敵対する者〕が姿を現わしました。 このことからも、終末の近いことは確かです。
これまで、私が反キリストについて注意を促したのは、あなたがたの目をごまかし、まちがった教えに引きずり込もうとたくらむ者に、だまされてほしくないからです。」
ヨハネの第一の手紙 2:18, 26 JLB
目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢…に打ち勝ちましょう。聖く主だけを見て歩みましょう!
「ですから、あなたがたのなすべきことは、初めから教えられてきたことを、信じ続けることです。 そうすれば、常に父なる神や神の子と親しく交際できるのです。 これこそ、キリスト様から与えられた約束であり、永遠のいのちです。 これまで、私が反キリストについて注意を促したのは、あなたがたの目をごまかし、まちがった教えに引きずり込もうとたくらむ者に、だまされてほしくないからです。 しかし、今やあなたがたは、聖霊様をいただきました。 聖霊様が心のうちに生きておられます。 ですから、何が正しいかを判断するのに、だれからも教えてもらう必要がありません。 聖霊様が、すべてを指示してくださるからです。 聖霊様は真理であって、決してうそをつきません。 あなたがたは聖霊様の指示に従って、キリスト様のうちに生きるべきで、絶対に離れ出てはいけないのです。 そこで、幼い子供たちよ。 いつまでも、主との親しい友好関係を保ちなさい。 そうすれば、キリスト様が帰って来られる時、ちゃんと用意ができていて、主にお会いするのをためらったり、恥じたりしないですむでしょう。 私たちは、神様が正しい方であり、正しいことだけを行なわれると知っています。 ですから、正しい行ないをする者はみな、神様の子供だと判断できるのです。」
ヨハネの第一の手紙 2:24-29 JLB
祈り:主よ この世には私達から主を離そうとするモノが満ち溢れています。どうか守りってください。聖さを求め日々、イエス様に似た者へと近づいていくことができますように力を与えてください。
イエス様の御名で祈ります。アーメン
あなたの上に主の豊かな恵みと平安が今日もありますように ☆あきら☆
☆次回のカフェ礼拝は10/31土曜日5~7時PMです。メッセンジャーは真島先生です。共に集まりましょう
(来られる方はご一報ください)
■■ God Bless You !!! ■■
今日も皆様の祝福を心からお祈りしています。
しゅんさん版
■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの手紙 第一 2章3節(雅歌6章)
★もし、 私たちが神の命令を守るなら、 それによって、 私たちは神を知っていることがわかります。
■O:今日のコラム
皆さんは運転免許を持っているでしょうか。免許を習得したての初心者マークが付いている時のことを思い出してみると、私は相当緊張して運転していました。それは、運転するときに交通標識や、様々な交通ルールを守ることに精一杯だったからです。運転になれた今はそのようなことを意識しなくても、同乗者と会話しながらでも交通ルールを遵守して運転することができるようになりました。
エデンの園でアダムとエバは神様と完全な一致の関係を持っていました。神と人との間には何の隔ての壁もありませんでした。しかし、人は罪を犯した結果、神様との壁が出来てしまいました。それ以来、神様は私たちと共に住む方法を様々な方法で与えてくださっています。その一つがイスラエルの民に与えられた律法です。
律法と聞くと、あまり良いイメージが無いかもしれません。しかし、その言語であるトーラーということばには、「教え、教訓」といった意味があります。それまで何のガイドラインもなかった民が、神様の元へと導かれるために与えられたガイドラインが律法です。だから、本来、律法は神様からイスラエルの民へのラブレターのようなものなのです。
この律法を守るなら、神の祝福があり、守れなければ裁きがある。これが律法の基本ルールです。こう聞くと、「私にとって律法は重荷になる」と思ってしまうかもしれません。しかし、それはまだ運転免許を取り立てのドライバーと同じ状況なのです。律法を知ること、覚えること、守ることに精一杯になるなら、その上にある恵みという喜びを知ることも出来ません。
それでは、律法の上にある恵みの喜びとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。このお方は、使徒の時代に別名「ハ・トーラー」と呼ばれていました。その意味は「ザ・トーラ」、つまり「その律法」と言う意味です。このお方こそ、まことの律法であり、ただ唯一完全に律法を完全に守り、律法の中に生きられた生きるまことの律法なるお方です。
このヨハネの手紙を書いたヨハネがこうも語っています。
「初めに、 ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。この方は、 初めに神とともにおられた。すべてのものは、 この方によって造られた。 造られたもので、 この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章1-5節)
ことばは神です。つまり、ことばで書かれた神様の約束、すなわち律法(トーラー)は神です。
今日の聖書のことばに戻って、それに続くみことばにはこのように書かれています。
「神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、 偽り者であり、 真理はその人のうちにありません。しかし、 みことばを守っている者なら、 その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。 それによって、 私たちが神のうちにいることがわかります。」(ヨハネの手紙 第一 2章4-5節)
神様を知っているものは自然とその命令も守ることが出来ます。私たちも愛する人や親しい人の言がお願いするなら、それをなんとか実現したいと努力するでしょう。神様との愛の関係はそれ以上のものです。律法を守っているから神を愛しているというよりはむしろ、神様を愛しているからこそ律法を守りたくなるという方が自然な流れです。
皆様が神様との親しい関係をさらに深めていき、その中からトーラーの奥義が開かれていくことをイエス様のお名前によって祝福します。
■A:考えてみよう
自分は神様の命令を守っているだろうか。それを知るためには、まず神様の命令を知らなければなりません。そのためにも、ザ・リビング・トーラーなるお方、イエス様の語られた律法の集大成でもある山上の垂訓を毎日音読しましょう。マタイの福音書5章から7章です。
しかし、この事を続けていく内に、皆さんの頭の中に疑問が湧いてくるはずで。そこに書かれていることが分かるようでわからないのです。それを紐解く鍵はイエス様が引用された引用元を参照すれば良いのです。それはトーラー、またはモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に書かれています。ですから、合わせてこのモーセ五書を御霊によって徹底的に読み込んでいきましょう。これが聖書の基礎となっています。この5つの書簡を理解するなら、上にたてあげられている聖書の書簡の意味がよくわかってくるようになります。
神を知り、みことばを知る喜びが皆さんの中に激しい飢え乾きとして湧き上がってくることを祝福いたします。
※注)律法を書かれているそのまま守ることは不可能です。それはイスラエルの民に与えられた約束です。しかし、私たちはオリーブに接ぎ木されたものです。ですから、律法を成就された方、イエス・キリストの与える新しい戒めを守ることにフォーカスしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
今日も皆様の祝福を心からお祈りしています。
ヨハネの手紙 第一 2章3節(雅歌6章)
★もし、 私たちが神の命令を守るなら、 それによって、 私たちは神を知っていることがわかります。
■O:今日のコラム
皆さんは運転免許を持っているでしょうか。免許を習得したての初心者マークが付いている時のことを思い出してみると、私は相当緊張して運転していました。それは、運転するときに交通標識や、様々な交通ルールを守ることに精一杯だったからです。運転になれた今はそのようなことを意識しなくても、同乗者と会話しながらでも交通ルールを遵守して運転することができるようになりました。
エデンの園でアダムとエバは神様と完全な一致の関係を持っていました。神と人との間には何の隔ての壁もありませんでした。しかし、人は罪を犯した結果、神様との壁が出来てしまいました。それ以来、神様は私たちと共に住む方法を様々な方法で与えてくださっています。その一つがイスラエルの民に与えられた律法です。
律法と聞くと、あまり良いイメージが無いかもしれません。しかし、その言語であるトーラーということばには、「教え、教訓」といった意味があります。それまで何のガイドラインもなかった民が、神様の元へと導かれるために与えられたガイドラインが律法です。だから、本来、律法は神様からイスラエルの民へのラブレターのようなものなのです。
この律法を守るなら、神の祝福があり、守れなければ裁きがある。これが律法の基本ルールです。こう聞くと、「私にとって律法は重荷になる」と思ってしまうかもしれません。しかし、それはまだ運転免許を取り立てのドライバーと同じ状況なのです。律法を知ること、覚えること、守ることに精一杯になるなら、その上にある恵みという喜びを知ることも出来ません。
それでは、律法の上にある恵みの喜びとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。このお方は、使徒の時代に別名「ハ・トーラー」と呼ばれていました。その意味は「ザ・トーラ」、つまり「その律法」と言う意味です。このお方こそ、まことの律法であり、ただ唯一完全に律法を完全に守り、律法の中に生きられた生きるまことの律法なるお方です。
このヨハネの手紙を書いたヨハネがこうも語っています。
「初めに、 ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。この方は、 初めに神とともにおられた。すべてのものは、 この方によって造られた。 造られたもので、 この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章1-5節)
ことばは神です。つまり、ことばで書かれた神様の約束、すなわち律法(トーラー)は神です。
今日の聖書のことばに戻って、それに続くみことばにはこのように書かれています。
「神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、 偽り者であり、 真理はその人のうちにありません。しかし、 みことばを守っている者なら、 その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。 それによって、 私たちが神のうちにいることがわかります。」(ヨハネの手紙 第一 2章4-5節)
神様を知っているものは自然とその命令も守ることが出来ます。私たちも愛する人や親しい人の言がお願いするなら、それをなんとか実現したいと努力するでしょう。神様との愛の関係はそれ以上のものです。律法を守っているから神を愛しているというよりはむしろ、神様を愛しているからこそ律法を守りたくなるという方が自然な流れです。
皆様が神様との親しい関係をさらに深めていき、その中からトーラーの奥義が開かれていくことをイエス様のお名前によって祝福します。
■A:考えてみよう
自分は神様の命令を守っているだろうか。それを知るためには、まず神様の命令を知らなければなりません。そのためにも、ザ・リビング・トーラーなるお方、イエス様の語られた律法の集大成でもある山上の垂訓を毎日音読しましょう。マタイの福音書5章から7章です。
しかし、この事を続けていく内に、皆さんの頭の中に疑問が湧いてくるはずで。そこに書かれていることが分かるようでわからないのです。それを紐解く鍵はイエス様が引用された引用元を参照すれば良いのです。それはトーラー、またはモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に書かれています。ですから、合わせてこのモーセ五書を御霊によって徹底的に読み込んでいきましょう。これが聖書の基礎となっています。この5つの書簡を理解するなら、上にたてあげられている聖書の書簡の意味がよくわかってくるようになります。
神を知り、みことばを知る喜びが皆さんの中に激しい飢え乾きとして湧き上がってくることを祝福いたします。
※注)律法を書かれているそのまま守ることは不可能です。それはイスラエルの民に与えられた約束です。しかし、私たちはオリーブに接ぎ木されたものです。ですから、律法を成就された方、イエス・キリストの与える新しい戒めを守ることにフォーカスしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
今日も皆様の祝福を心からお祈りしています。