★東京では8月末から9月初めにかけて異例に涼しかったのが昨日・今日と残暑が戻り、また明日は一気に10月上旬の涼しさとなるようです。気温の変動で体調を崩さないように気を付けたいものです。
西アフリカで感染が拡大しているエボラ出血熱では死者が2000人を超え、ここ日本でも終戦の年1945年(昭和20年)に南方からの帰還兵が持ち帰って以来69年ぶりに都立代々木公園や新宿中央公園などで蚊に刺されてデング熱に感染・発症した人が70人を超えたというニュースが流れています。デング熱は感染しても発症しない人も多く、もし発症しても重症化して死に至るようなことは稀だそうですが、別のウイルスと2重に感染して『デング出血熱』となった場合の致死率は40~50%という話なので高熱が出た場合には早目に医療機関に行く必要がありそうです。
今回の「自動車カタログ棚からシリーズ」は古い時代に興味がない人には申し訳ないのですが久しぶりに戦前物です。明日はバンドの練習日なので、サクっとアップしておきます。この頃、漸く昔の勘が戻りつつあり、嬉しいことに10代の頃のようにギターを弾くのが楽しくなってきています(>_<)
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★いすゞ自動車のホームページには同社の沿革について以下の記載がされている。
「いすゞの創業は1916年。(株)東京石川島造船所と東京瓦斯電気工業(株)(当社の前身)が自動車製造を企画したことに始まり、国内の現存自動車メーカーの中では最古の歴史を誇っています。1922年にはウーズレーA9型国産第1号乗用車が完成。1934年には商工省標準形式自動車を伊勢神宮の五十鈴川に因んで「いすゞ」と命名。これがいすゞの社名の由来となっており、1949年に商号を現在の「いすゞ自動車株式会社」に変更しました。第二次大戦の後、いすゞはトラックを精力的に開発・生産し、食糧はもちろんあらゆる物資を運び、戦後の復興に大きな役割を果たしました。トラックにかけるいすゞの情熱は、こうした歴史が原点になっています。以後、いすゞは小型から大型までトラックとバスを次々と開発・生産し、高度経済成長を支えました。」
ここに創業年として記載されている1916年(大正5年)というのは、石川島造船所深川分工場で当時フィアットの輸入代理店だった日本自動車から1台のフィアットを購入してバラし図面に起こして最初のコピー車を製造したと言われている年である。その後、1918年(大正7年)にフィアットよりも権利使用料など提携条件の良かったウーズレー社と提携し生産を開始している。更に石川島造船所のルーツを辿ると、1853年(嘉永5年)に徳川幕府が石川島(現在の東京都中央区佃2丁目)に造船所を建造した時点まで遡ることができます。
★いすゞ自動車の歴史は戦前の国産自動車工業全体の歩みとも大きく重なり紆余曲折を経て少々複雑と言えます。
昭和の初めの日本の自動車会社は、石川島造船所・ダット自動車製造・東京瓦斯電気工業の3社であった。まだトヨタや日産は誕生前の時代である。この3社は日本の自動車産業についての商工省や陸軍を中心とした議論の結果、国策として合併し「自動車工業株式会社」となる。完成輸入車・国内組立輸入車のシェアが大半だった昭和の初めに国産車が生き残る道は合併してトラック・バスの標準形式を定めて量産することがベストという結論であった。乗用車の生産は時期尚早という結論であった。いったん合併した後、ダット自動車製造は戸畑鋳物を経て日産となり戦前の国産乗用車としては唯一の成功例とも言える小型車ダットサンの製造を行った。
事実上、石川島造船所自動車部の後身のみとなった自動車製造株式会社は東京瓦斯電気工業と1933年(昭和8年)12月に営業部門を統一するための「協同国産自動車株式会社」を設立した。その後、1937年(昭和12年)4月9日には「東京自動車工業株式会社」に改称して両社が正式に合併した後、同年9月2日、先に設立した販売会社・協同国産自動車を吸収合併して生産・販売を一貫して行うメーカーとなった。
その後、1939年(昭和14年)12月には陸軍からの生産能力拡大の要請を受けて大森製造所(旧東京瓦斯電気工業の大森工場)・鶴見製造所・川崎製造所に次ぎ4つ目となる工場用地を東京府南多摩郡日野町大字日野2604番地に購入し、1940年(昭和15年)7月1日より日野製造所として稼働開始した。この日野製造所では通常の自動車ではなく戦車やキャタピラ車両を製造していたが、商工省より業務内容の異なる日野製造所の分社化を指示されたことにより1942年(昭和17年)5月1日、「日野重工業株式会社」(現 日野自動車)という新会社が発足した。一方、本体の東京自動車工業株式会社も製品内容を示す社名に変更することが商工省より指示されたことにより、日野重工業発足より一足早い1941年(昭和16年)4月30日に「ディーゼル自動車工業株式会社」と社名変更した。
その後は戦後の混乱期を経て1949年(昭和24年)7月1日に現在の「いすゞ自動車株式会社」に改称した。バス製造事業において2004年(平成16年)にいすゞと日野が折半出資にてジェイ・バス株式会社が発足したのは一度生き別れた夫婦が60年以上の年月を経て再び一緒になったような歴史の妙とも言えます。
★今回ご紹介するカタログは上述の戦前のいすゞの歴史の中で1937年に設立された東京自動車工業株式会社時代のいすゞTX40型トラックおよびBX40型バスのものです。
TXおよびBXは戦後もモデルチェンジを経ながら連綿と製造された国産トラック・バスの名車と言えます。戦前初期のTXおよびBXは今回ご紹介するような流線型ではなく角ばったボディを身に纏っていましたが、シャシーは大きく変更されていないようです。何れも当時の国策に応じて生産された戦前の標準車両と言えます。戦後のTX/BXと同様に主にホイールベースの違いにより、型式の2桁の数字には35・40・45・60・80等のバリエーションが存在します。なお、戦前のいすゞ6輪車両のカタログについては項を改めてご紹介することとします。
【主要スペック】 1939年いすゞBX40型バス
全長6150mm・全幅1950mm・ホイールベース4000mm・シャシー重量2180kg・ボディ含む許容積載量3110kg・FR・6気筒直立L頭型4390ccガソリン・圧縮比5.25・最高出力70ps/2800rpm・変速機4速MT・後車軸減速比8:45・最高速度77km/h
●1939年? いすゞTX40型トラック/BX40型バス 本カタログ (縦22×横31cm・リング綴・16頁)
発行年月の印字はないが、カタログ中に「世界に誇るに足る新設日野製造所は竣工を目前に控え~設備補充に伴う増資も近く実行の予定である」との文章があることから日野製造所が1940年7月に稼働する直前、1939年末ないし1940年の発行と思われる。戦前のいすゞTXやBXのカタログは2つ折程度の簡素なものが多い中でこれは大判で紙質もよく頁数も多い。イラストも秀逸で魅力的なカタログ。一般的なホチキス留めではなく戦後のジャガーのカタログのように左端がリング留めされている。
【中頁から】
扉頁(表2)の文章抜粋:「国防、産業、陸上交通上最も重要視すべき自動車の国産確立を計るは緊要なりとの帝国議会の議決に基づき、昭和6年商工省は我国の標準型自動車を創制し之を国産車確立の枢軸とすることになった。衆知の如くいすゞ自動車がそれであって、いすゞは政府当局が慎重審議2ヶ年有余の研究の結果制定した本邦唯一無二の国策自動車車輛である。・・・」
各事業所写真(右上:品川本社、左上:川崎製造所、右下:鶴見製造所、左下:大森製造所)
大森製造所のアップ: 屋根に「国産いすゞ自動車」のネオンらしきものがあります。
TX40型トラック・シャシー
鉱山で働くTX40型トラックの魅力的なイラスト
BX40型バス・シャシー
BX40型バスの魅力的なイラスト。観光仕様なので現在のガーラの祖先とも言えるバス。
6気筒・4.4L・70馬力エンジン
エンジン縦断図
五大特長
デフとリアスプリング
ブレーキ
変速機、フロントアクスル、ステアリング
実用例写真各種
戦時下のガソリンに代わる燃料 薪瓦斯バス
BXシャシーに架装された応急車
スペック掲載頁
スペック箇所アップ(TX40型、BX40型の文字は後から印が押されています)
裏表紙: いすゞのマークと東京自動車工業株式会社の文字
●1937年? いすゞTX40型トラック/BX40型バス 簡易カタログ? (B5判・4つ折8面)
このカタログにも発行年月を示す印字は見られないが、カタログ中に「東京自動車工業株式会社は東京瓦斯電気工業株式会社自動車部、自動車工業株式会社、協同国産自動車株式会社の三社合併したものであります」と印字があることから、1937年9月の合併後から1938年にかけての発行と推定。表紙のバックには1936年(昭和11年)11月7日に竣工した国会議事堂が写されている。同時期に本カタログが別に発行されているのかどうかは不明。
【中面から】
BXバスシャシー(上)とTXトラックシャシー(下)の違いがよく判る写真
フレームが頑丈であることの記載
図面
上方に赤字で東京自動車工業株式会社が三社合併して誕生したことが印字されている。カタログの文字の上に印刷されているので合併前のカタログをそのまま使ったものと思われる。
サスペンション、リアアクスル、ブレーキの解説ほか
BX40型バス
箇条書きで11項目の特徴を印字
裏面スペック
★オマケ(その1): いすゞニュース 1939年4月号 (B5判・28頁)
戦前のいすゞ車は軍用トラックのプラモデルが出ていそうな気もしますが、手元には1台もないので今回は東京自動車工業株式会社時代のいすゞ広報誌をオマケにします。いすゞニュース社が大正の終わりから発行していた広報誌です。裏表紙隅に価格1部金15銭の記載がありますが、戦後の広報誌同様に車両を購入あるいは購入検討する法人やいすゞ関係者には無料配布されていたものと思われます。
【中頁より】
「代燃第一線部隊 陸式自工型 薪瓦斯愈よ前進」と題する記事: 右上の2枚は何と木曾森林鉄道の薪瓦斯ロコ。
芝浦埠頭から船積みされるBX型バス
薪瓦斯自動車の広告「一刻も早く国策線へ。薪瓦斯自動車」
東品川5丁目の本社と大森・鶴見・川崎・日野の各製造所の住所・電話番号一覧
★オマケ(その2): いすゞニュース 1940年1月号 (B5判・36頁)
1940年(昭和15年)というとジョン・レノンの生年ですが、日本では皇紀2600年に当り、これはそれを祝した特大号。表2は社長・松方五郎氏、副社長・新井源水氏、従業員一同の名前による年賀状の体裁となっているほか、戦線におけるいすゞ車のグラビアや映画紹介、漫画の頁まであり盛り沢山の内容。表紙の迷彩色のいすゞ製戦車の上に乗る子供が軍服を着て銃を持っていることに注意。よくよく見ると表紙の右端に「陸軍省検閲済」の印字があり自由にモノが言えなかった時代を物語る。
【中頁より】
表2の年賀状の体裁とした頁
「壽 紀元2600年」 富士山と湖(富士五湖の何れか?)の写真
「戦線に輝くいすゞの真価」下の装甲車はレールの上に乗った軌道仕様。
新宿駅前のBX型バス
TX型トラック
6輪ダンプ: 荷台には沖山炭鉱株式会社の文字
カニのようなライトのいすゞ製ラッセル車
早大第一高等学院での薪自動車講習(上)と荷物満載の6輪フルトレーラー
品川の本社のほか大森、川崎、鶴見、日野の各製造所。日野は未だ「製造所敷地」と記載があり、この広報誌が出た時点では竣工していない。日野だけが離れ小島のように遠いことが判る。
営業品目として、いすゞトラック・いすゞバス・いすゞ六輪車・いすゞヂーゼル自動車・いすゞ薪自動車の5種の記載。
★オマケ(その3): ジョン・レノン 「マザー」(Mother)1970 John Lennon/Plastic Ono Band
オマケ2と同じ1940年生れということと今回のいすゞの原点についての記事との繋がりで(やや無理矢理ですが)、最後に1970年リリースのアルバム「ジョンの魂」収録のジョンの原点的な曲「マザー」です。