気配りの人 | ロンドンつれづれ

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気が向いた時に、面白いことがあったらつづっていく、なまけものブログです。
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メンバーシップのページに、羽生さんからファンに結構長い、そして丁寧なコメントが載せられていて、話題になっているようだ。

 

どれどれ、と読みに行って、「ああ、羽生君らしいなあ…」と思った。

 

私は羽生さんがジュニアのころから「まだ若いのにすごく情感を込めて滑る子がいるな!」と思って注目しており、シニアになる前に「僕のこと応援してください!」とファンに一生懸命に言ったりしていたことを知っている。

 

また、練習よりもみんなが見ていてくれる試合の方が好き、楽しい、という言葉も聞いたことがある。 オーディエンスがいる方が、演技に力が入るというのである。この子は生粋のパフォーミングアーティストだな、と思ったものだ。

 

2012年のフィンランディア杯では、たまたまレストランで私と夫の座った席の横を通りかかったので「羽生君、優勝おめでとう!」と声をかけたら、振り向いてぺこっと頭を下げてお母様と一緒に「ありがとうございます!」ととても礼儀正しかったのを覚えている。初めてフィギュアスケートを見た夫、演技と共に一発で羽生ファンになった。

 

当時日本からのファンはおそらく他に誰もいなかったホテルのロビーで、私と夫、羽生さんとお母様が一緒にエレベーターを待っている時に「ロンドンから応援に来たかいがありましたよ、いいものを見せてもらいました」と話したら、「いえ、まだまだで、これからもっと良くしていかなくちゃならないんです」と、ミスの無かった演技について厳しかった。

 

羽生さんは昔から、良い演技を一期一会のファンに提供したいと考え、ファンに応援されることに感謝し、その気持ちをちゃんとファンに伝えたいと思うタチのアスリートなのである。オリンピックチャンプになっても、そこは何も変わらない。

 

これほど膨大な数の熱狂的なファンが追いかけて歩かなければ、きっと彼は一人一人のファンとゆっくり話してみたいと思うほど、本来は人懐こい青年なのではないだろうか。だけれども、どのファンに対しても、今は平等に公平にしなくてはならない、と苦慮しているのではないだろうか。だから、リンクに投げ込まれたどのプレゼントも、ある時期から一つも拾わなくなった。

 

誰か一人のファンがちょっとでも彼に近寄れば、他の熱狂的・戦闘的ファンから攻撃をされる。そうなっては困るのである。そこまで配慮しなくてはならない。

 

誰かを見た、手を振った、誰かの何かに反応した。許せない。いちいち問題にして騒ぐ人たちがいるのである。だから、ウカウカ何か言うこともできない。

 

ここ数日のメンバーシップのコメントを読むと、なんだか気の毒になるぐらい全方位外交というか、すべての皆さんに優しさを配ろうとしているところが見て取れる。

 

そんなに、皆に気をつかわなくていいんですよ…と言ってあげたくなるぐらいである。疲れちゃうでしょ、と。

 

 

だが、ウチの息子もそうなのである。 見ていると気の毒になるぐらい、人を傷つけたくないオトコなのだ。 もうちょっと自分勝手に生きればいいのに。 そう思うぐらい、気配りの人なのである。 疲れちゃうだろうに、と息子にもよく言う私なんである。

 

もっと自己中にやった方が、楽なのにね。 でも、きっとその優しさがあるから、周りの人から好かれ、いざというときに助けてもらえることも、事実なんだけれども。

 

 

 

昨日アップされた、ほぼ日刊イトイ新聞を読むと、(これまで何度か似た話は聞いているが)羽生さんの「気配り」のルーツが分かる…。

 

そこには、このように書かれていた。

 

 

以下は、宮沢りえさんと対談する、糸井氏の言葉。


「仕事というのは、
人に求められていることと
自分自身の能力や人柄の掛け算だから、
ずっと「求められていること」だけに集中するのは
難しいんだと思います。


そういえば、このあいだ羽生結弦さんと対談をさせてもらったとき
お母さまに「人としての部分がダメになるくらいなら、もうスケートはやらなくていい」と言われたというお話を聞いたんです。


それは、羽生さんがもう十分に選手として認められてからのことだったそうです。


それって、ものすごく大事なことだという気がして。


住所で例えると、「東京都何々区何番地」の「何番地」くらいのところに職業があるということですよ。「東京都」っていう、最初に言うところではなく。

 

住所で言う東京都だとか、日本だとか、地球だとかにあたる部分は、職業よりもっと人間的なところだと思うんだよ。

 

第8回 10年更新のパスポート。 | はかないことも、諦めることも、とてもたのしい。 | 宮沢りえ | ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)

 

 

 

羽生さんは、小さいころからご両親に叩き込まれた、あるいは繰り返し聞かされてきた、家族の中の価値観というものがあって、それが「羽生結弦」という人間を作っているんだろう。

 

つまり、スケーターである前に、ひとりの人間として恥ずかしくない哲学と行動を持っている、ということなんだろうな、と思うのだ。

 

それは、「人に対して、誠実であれ、優しくあれ」ということなのではないかな、と。

 

競技で勝ち進んで覇者になったとしても、その部分にブレがないから、強さが優しさになるのだ。 本当は強い人でなければ、優しくはなれないのである。

 

 

彼が自分の作品を通じて、世の人々に伝えたいメッセージは、希望だったり、祈りだったり。特に競技者を降り、自分の選んだテーマや曲で作品をつくるようになってからそれが顕著に表れている。

 

決して押しつけがましくない、しかし弱っている人や悲しんでいる人に静かに寄り添い、また歩き出す気持ちになれるように手を差し伸べてくれるような、そんなものを伝えようとしてくれている。

 

だから、彼の演技を見ていいと思う人、彼の演技を好きになった人の中に、他者を攻撃するような人々が現れるのは、きっと彼は悲しむんじゃないかな、と私は漠然と感じるのである。

 

 

繰り返されたファンに対する感謝の言葉と、そして自分の行動に対する説明の言葉は、「誰も傷つけたくない、傷ついてほしくない」という彼の優しさと気配りのあらわれなんだろう。

 

それと同時に、そこまで気を使わせるような幼稚なファンってどうなの一体、と思わざるを得ないことも本当なのである。

 

やれやれ…。