ほぼ日7-8-9 | ロンドンつれづれ

ロンドンつれづれ

気が向いた時に、面白いことがあったらつづっていく、なまけものブログです。
イギリス、スケートに興味のある方、お立ち寄りください。(記事中の写真の無断転載はご遠慮ください)

まずは、仙台でのノッテステラータの大成功おめでとうございます!

 

海外では観ることができないので残念ですが、きっといつかはどこかのテレビ局で放映してくれることを祈りつつ…。

 

ほぼ日刊イトイ新聞の続きです。

 

 

第7回は、限られた時間、限られた氷の上で、どれだけ効率的な練習を積むか。本当に、フィギュアスケートは、まずは氷がないと話にならないので。 コロナの時にアイスリンクがすべて閉鎖になってしまい、まったく練習ができない期間があったことは記憶に新しい。数か月氷の上に乗れないで、久しぶりに滑って、シングルジャンプもできなかった、という選手の動画をまだ覚えてますよ。スピンも回れない、滑るだけで怖い。

 

スケートって、選手たちは丸1日滑らないと調子が悪いと言いますね。私なんて1週間に1回、良くても2回しか練習できないので(時間もですが、お金がない。年金生活者には滑走料はバカになりません)いつも行くたびに、最初の30分は足が慣れません。スピンもジャンプも、最初のうちは、全くダメです。

 

でも、ジャンプもスピンも、たくさんやればできるようになるかというと、そういうものでもないらしいですね。

 

が、私のようなヘタクソには、コーチはこう言います。「上達と氷の上にいる時間は正比例する」と。つまり、まずは、ちゃんと練習に時間を費やせ、ということですね。

 

毎日、3-4時間以上練習をする選手だけが、「時間をかければ、回数を跳べばいいものではない」という言葉を口にできるんだと思います。

 

羽生さんのこの言葉。

 

「ジャンプって、それについて永遠に考えていられるというよりは、答えが決まってくるところがあると思うんです。でも、表現の世界って、哲学的というか、いくら考えてもきりがなくて、どうしようもなく、とめどなく、考え続けることになるじゃないですか。」

 

ジャンプでも、スピンでも、決まった答えにたどり着くまで、結構あるとおもいます。私なんて、アップライトスピンができるようになるまで9年かかり、しかも最近またできなくなりましたよ…。(泣)

 

どんなことでも、上級レベルの人の悩みと、初心者レベルの人の悩みは、同列には語れませんね。

 

でも、「表現の世界はいくら考えてもきりがない、とめどなく考え続ける」というのは、クリエーターなら、理解できるでしょうね。

 

「大切なのは、良質な学習をどれだけ短い、限られた時間のなかでやるか。フィギュアスケートにとっては、それがすごく大事なこと」

 

この言葉を胸に、次回の練習も集中し、無駄にリンクを徘徊しないようにしようっと!

 

そして、ここの会話。

 

羽生さん

「そういう意味ではやっぱり、いまの自分に足りないものをたくさん吸収して、自分が表現したいイメージをちゃんと伝えられる技術とボキャブラリーを増やさなきゃいけないと思っているので、まあ、たいへんです。」

「そういうのって、きりがなくて、そこがたのしいんですよね。ただ、自分の世界とかイメージにとらわれ過ぎちゃうと、見てくれるお客さんとの距離がどんどん離れてしまう。」

糸井さん
羽生さん
「はい。どんなにかっこいいことやきれいなイメージを考えたとしても、本当に表現したいことの本質は見に来てくださっている人たちに「伝えたい」っていう思いのはずなので、それが伝わらなくなってしまうとしたら、本末転倒だと思うんです。だから、わかりやすさもなくてはいけない。けれども、自分がこだわりたいところには、ちゃんとこだわっていかないと、自分のモチベーションが消えてしまうので、そこのバランスは気にするようにはしてます。」
 
 
そう、芸術は受け手が受け止めてくれて初めて成立する。「理解できない人には、わかってもらわなくていい」というアーティストもいるようだが、それは独りよがりで傲慢だ。伝えたい思いを伝える努力をする芸術家こそが、本当の意味でのプロじゃあないかな、と私は考える。

 

 

第8回は、「後世に残る芸術」について語り合っている。 私も仕事で若手のコンテンポラリー・アーティストの作品をロンドンのギャラリーで展示しているが、いったいこれらの作品の中でいくつが100年という時の試練を受けた後も残っているだろうか、と考えることはある。

 

ルーブルやテイトや大英博物館には、100年どころか1000年の時を超えて当時の芸術を今に伝える作品がある。 いったい今「芸術」とされる作品のいくつが、時というスクリーニングを受けて残ることができるか。

 

ましてや、バレエやフィギュアスケートなどのパフォーミングアートは、録画をしなければ、劇場やアリーナという現地にいる人たちの目の前で流れて消えていく芸術である。 その時、その場にいなければ、受け止めることのできない芸術と言えよう。 たとえ高性能のカメラで演技の録画をしても、現地で受け止めた臨場感は得られない。

 

しかし、羽生さんも言うように、彼が1960年代の選手だったら、彼の演技の多くは記録に残らず、今私たちが得ているように、動画サイトで「羽生めぐり」をすることなど不可能だっただろう。

 

実際、イギリスの天才、ジョン・カリイのスケートのいったいいくつが、良い品質のビデオで残っているだろうか。私は彼の「牧神の午後」をかなり探したが、ボロボロの画質のものを1本、動画サイトで見つけるのがやっとだった。彼の伝記映画、アイス・キングの中で用いているのも、この私の探した動画と同じものだと思う。

 

そういう中で、ここ10年ほどの競技会及びアイスショーの記録映像の質の高さは、フィギュアスケートファンなら、本当にありがたいものだ。素晴らしい演技、パフォーミングアートという芸術が、きちんと記録され、残されていくのである。

 

もちろん、その中で100年後にも探され、求められ、観られるものがいくつ残っていくか、それは時という厳しいスクリーニングを受けた後に、初めて答えがでるだろう。

 

「時代に左右されないものは、自分の表現を突き詰めた芯の部分にある。そこがブレないように」という羽生さんの言葉は、まさに私が必死に何十年も前のジョン・カリイの「牧神の午後」を探し、それを動画サイトにアップしてくれた人がいた、ということだろうと思う。

 

羽生さんの演技群は、まさに芸術作品として、表現の芯にブレがない。アスリートとしての技術は、その表現を可能にするツールとして機能しているのだ。彼の演技群の記録は、時を超えて求められ続けるだろう、と私は信じている。


「10年後でも、20年後でも、50年後でも、100年後でもいいので、そのときに見てくれた人が「いいね」って思ってくれるようなものを、胸を張ってつくり続けていきたいなとぼくは思っているんです。」

 

羽生さん、これまでの競技生活の中の演技も、そしてプロになってからの演技も、100年後のフィギュアスケートファンが探し求めて観るようなクオリティの作品群になっていますよ。そして、そういうプログラム、そういうスケーターの数は多くはない。100年経っても、ユヅル・ハニュウの名前は比類ないレジェンドとなって語り継がれていくでしょうね。

 

 

 

第9回目は、「ややこしいものとキャッチーなもの」というタイトル。

 

ややこしいもの、って要するに通受けする難解なもの、キャッチーなものは理解しやすくて一般受けするもの、ってことでしょうね。

 

音楽でも芸術でも、一般受けするものの方が「低く」て、通に受ける難解なものの方が「高い」もの、って思われているような気がするけれど、本当にそうなのかな。

 

私は昔から、ポップミュージックを一回聞くと、「あ、これは流行るだろうな」というのが分かるのだ。つまり、大変に平均的な嗜好を持っているんだと思う。自分が「これは流行る」と思う女優さんや流行歌は、ほぼ100%に近い確率で、人気がでてくる。

 

では、大流行するものは低俗で、大勢の人が理解できないものが高尚なのか。そんなことはないんじゃないかと思うのだ。

 

多くの人の心に響くからには、そこには何か、普遍的な魅力があるのだ。それを軽く見てはいけないと思っている。

 

オペラは大変長いので、私はほとんど聴きにいかないし、長ーい楽曲の中の一部、つまりキャッチーな部分は好きで聴きたいけれども、他の部分は早送りしてもいいや、という感じである。しかし、やはり一つのオペラのなかでも、有名になっているいわゆるキャッチーな部分のメロディーは、一回聞いたら頭に残って自動ループになるぐらい印象的なのだ。なにか、人間の耳だか脳に心地良いというか魅力的な要素があるのだろう。

 

「表現の世界は、自分が伝えたいことが最優先で、自分が良いと思っていることを突き詰めているだけ。 それに共感してもらったり伝え合ったりすることは難しい」という羽生さん。糸井さんは、それはものを作る人みんながぶつかる壁、というが、その壁が伝えたいという欲望につながるんじゃないか、という。

 

詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくが書いた詩のなかで、みんなが一番よく知ってるのは『鉄腕アトム』だと思う。それはすごくいいことだと思う」と言ったという話はさすがだな。

「ポール・マッカートニーは無数の曲をつくったけど、ポピュラーミュージックとしてつくったからみんなが歌ってくれたり、よろこんでくれた。俺が一番やりたかったのはこれだって、ものすごくややこしいものを出され続けても、聴くほうはきっと困っちゃいますよね」という糸井さんの言葉もクリエイターのプロだからだろう。

 

そこに羽生さん、モーツアルトをぶっこむ。

 

「モーツァルトとか、まさにそうですよね。宮廷音楽といわれる、型にはまった作品は広く知られて残ってますけど、晩年の、自分が本当に書きたかった、もう本当に心情を綴った曲たちっていうのは、完全に埋もれていて、もちろんそれが好きだっていう濃いファンもいるんですけど、ぜんぜん一般的ではない。」と。そして糸井さんは、そういうモーツアルトじゃないと、「きらきら星」も生まれなかった、と。

 

だが、羽生さん、さらに押す。「作家としての、表現者としての強いモチベーションがあるからこそ、キャッチーなものも生まれてくるけど、ひとりの作家としては、ほんとうにつくりたかったものをわかってもらうほうがうれしいんだろうなあ」と。 

 

そして、「これはよろこんでもらえるぞ、楽しんでもらえるぞ」っていうものができた時の喜びを糸井さんが語ると、「なんですけど、出してみたら、あれ?ってなるときがあるんですよ」と羽生さん。ははは。

 

 

 

私は芸術家じゃないし、クリエーターでもないので、生みの苦しみはわからない。

 

 

けど受け手側としては、天才に思いがけないものを見せてもらえるワクワクもあるけれど、やはりプロ、ビジネスとしてやっているクリエーターたちが、受け手側の望むものは何かを忘れてしまっては、成功はしないだろうということはわかる。

 

そして、たまにではあるけれど、受け手側が何を望むか、それを何十年、あるいは100年も早読みした作品を提供し続けたがために、自分が生きているうちには成功しなかったクリエーターもいる。ゴッホのように…。

 

そういう意味では、ジョン・カリイも時代の先端を行ったがために大衆には理解されず、孤独のまま亡くなってしまった天才だったかもしれない。

 

 

 

さ、ほぼ日、次は何がでてくるかな。