祈りの舞 | ロンドンつれづれ

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1月14日、佐賀で行われたアイスショーを見た。

 

羽生結弦さんは、前回のアイスショーからおそらくかなりのストレスにさらされる数か月だっただろうと思うが、少し痩せて青ざめた面持ちを見せながらも、またもやたった一人で数時間のショーを背負って、事故なく佐賀のツアーをやりおおせた。

 

 

私が見たのは、CSテレ朝の放送である。

 

 

今回、彼のナレーションや言葉に多少影響されているのかもしれないが、彼のスケートは、薪能に近いな、と思ったのである。

 

 

能はそもそも神に捧げられる芸能である。

 

 

羽生さんの演技は、特にこのショーのテーマは生と死についてであり、震災や戦争であっけなく命を奪われてしまう人間という脆弱な存在に対してのやさしさや哀れみ、そしてなによりも祈りが込められていると感じたのだ。

 

 

なぜ薪能か。それは視覚的なものである。

 

明るいリンクでの競技会とは違い、アイスショーはほの暗い中でのライティングで滑る。 それが、明るい能舞台ではなく夜の薪で照らされる、あの舞台をほうふつとさせるからである。

 

 

MIKIKO氏によるプロジェクションマッピングを得て、羽生さんの演技はまるでかがり火の炎に照らし出されるように、幽玄の世界を表現している。

 

 

 

また能と同じように、演者は男性であっても、演じられる主体は女性、あるいは性別のない、あるいは男女両性具有のものと受け止められる衣装や表現である。

 

贅肉も無駄な筋肉もない、ストリームラインされた羽生さんの身体は、「人間」という生臭さを捨てて、我々が祈りを捧げるための依り代といってもよい存在感がある。 いや、むしろ演じているときの彼は、「羽生結弦」という存在感を消して、なにかうつし世のエンティティでは無いモノになりきっている、といったほうが良いかもしれない。

 

 

むかしから、「憑依型」のパフォーマーだとは思っていた。

 

彼の表現を見て、「ナルシスト」などという人もいるが、それは彼のタイプをわかっていない人たちだろう。

 

およそ、バレエダンサーにしても、演劇人にしても、フィギュアスケーターにしても、演奏家にしても、憑き物がついたように気持ちを入れ込んでパフォームすることができる人こそ、見ている人の心をつかむことのできる芸術を提供するのである。

 

それをナルシストというのであれば、ナルシストでなければパフォーミングアーティストにはなれない、といってもよいだろう。

 

何千、何万の人の目が自身に集中し、自分だけを見つめていることを意識しても、自分が表現したい主体になりきること、憑依されているほどに表現できることが、彼らが一般人とは一線を画した表現者になりうる才能なのだ。

 

何者かに憑依されたように体を動かすことができること、そしてそれができるだけの技術を持ち合わせていること、それが高い芸術性を生み出すのである。

 

 

今回のアイスショーでは、彼には多少の疲れが見えた。 

 

ここ数か月の理不尽なストレスを考えれば、それも無理もないだろう。

 

 

しかし、そういった身体的ハンデがあったとしても、彼の「伝える」能力、そして「憑依型」の表現は、見ているものの心を捉えるのだ。

 

 

世界中の人々へ向けての、祈りのための舞。

 

 

逝ってしまった人たちの無念、そしてそれを悲しむ人たちのための、祈りの舞。

 

 

今回は特にそれを強く感じたのだった。