【作品#0871】関心領域(2023) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

関心領域(原題:The Zone of Interest)

 

【Podcast】

 

Podcastでは、作品の概要、感想などについて話しています。

 

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【概要】

 

2023年のアメリカ/イギリス/ポーランド合作映画

上映時間は105分

 

【あらすじ】

 

アウシュビッツ収容所の隣で暮らす収容所の所長一家の日常を描く。

 

【スタッフ】

 

監督はジョナサン・グレイザー

音楽はミカ・レヴィ

撮影はウカシュ・ジャル

 

【キャスト】

 

クリスティアン・フリーデル(ルドルフ・ヘス)

ザンドラ・ヒュラー(ヘートヴィヒ・ヘス)

 

【感想】

 

10年の構想の末に完成させた本作はカンヌ国際映画祭でグランプリを、アカデミー賞では国際長編映画賞、音響賞を受賞するなど大きな評価を得た。

 

私は「落下の解剖学(2023)」に主演したザンドラ・ヒュラーが出演している以外の情報はほぼシャットアウトして鑑賞した。よほど一般教養に乏しくなければいつのどこで物語が進んでいるのかくらいはわかる。また、アウシュビッツ収容所の所長を担っていた軍人一家の様子を淡々と映すわけだが、意外性はなく、むしろこんな生活があったことは割と想像通りではある。

 

アウシュビッツ収容所の隣にその管理を任される男の家がある。子供たちが暮らしているというのに、その収容所からは悲鳴や怒声が聞こえてくる。それでもルドルフの妻はここでの生活を待ち望んだものとしてこの収容所の隣で暮らすことを嫌に思っておらず何ならずっとここで暮らしたいと考えているようだ。夫の転勤話が浮上してもここを離れたくないとして夫に何とかしてくれと頼んでいる。家の隣でユダヤ人が大量に虐殺されていることなんて知っているはずなのにまるでそれが当たり前のことであるかのように気に掛けることはない。

 

この物語の設定をとある工場に勤務するサラリーマンに置き換えても通用するところである。たとえナチスドイツの軍人だって、妻や子供などの家族がいて、休みの日には川辺でピクニックをして、寝る前には戸締りをして明かりを消し、不倫もするし、病気にもなる。また、軍人の妻は子供の世話をして、やってきた母親の相手をし、ご近所づきあいをして、夫にイタリア旅行を催促し、家庭菜園をし、出来の悪いお手伝いさんを怒鳴りつける。

 

悪人や犯罪者の日常みたいなものを描いた作品は多数ある。「彼らだって我々と同じ人間なんですよ」というメッセージ。これに関しては何の意外性もない。少し意地悪を言うならこの舞台がドイツ(正確にはポーランドだが)である点だ。第二次世界大戦時にはドイツは日本やイタリアと枢軸国側にいたが、今ではアメリカと同じ西側諸国のうちの1国である。どの立場で映画を見るかによるが、現在の世界の正義の側の立場に立つならば、ロシアや中国の軍人の家庭を描けるのかという話である。もちろんどの国にだって現在の世界の正義の側から外れるか分からない。

 

さらに意地悪を言うなら本作の主人公はナチスドイツでもそれなりのポジションを得た軍人一家である。ナチスドイツに従事した軍人は多数いただろうが、もちろんポジションには限りがあるので、ヒトラーを頂点としたナチスドイツをピラミッドに例えるなら主人公一家は間違いなく上位数%に入るレベルだろう。それ以外の大多数が一般市民である。本作の中の登場人物で言うなら主人公一家に仕えるお手伝いさんたちである。本作も鑑賞している多くが一般市民である。

 

終盤になってルドルフが階段を下りている途中で吐き気に襲われると映画は急に現代のアウシュビッツ・ビルケナウ博物館に移行する。そこではおそらく博物館の営業開始時間前に職員が掃除を淡々としている様子が描かれる。その合間に博物館の展示物だけを映すショットが何度か挿入される。ここはおそらくは博物館の展示物を当たり前のように毎日目にしている職員にとってはもう「ただの物」と化しており、掃除中に展示物に目をかけることはない。つまりは主人公一家の隣にユダヤ人が大量に殺されている収容所がありながらその存在がまるでないかの如く暮らす主人公一家と同じく、見向きもされないものという意味合いだろうか。もしそうだとしたらあまりにも作為的すぎる気はする。博物館の営業開始時間になれば観光客や勉強にくる人たちがやってくるだろう。

 

また同時にこの自分の名前が作戦名の由来にもなったアウシュビッツ収容所自体が博物館として後世に残されることになったのも皮肉に感じるところだ(これは広島の原爆ドームにも言えることかもしれないが)。

 

この吐き気が収まるとルドルフは再び階段を降り始める。階段を上がっていくわけではない。降りていくのだ。この吐き気こそ自身が加担しているホロコーストに対する正直な気持ちの現れなのか。ルドルフはこの吐き気を以前にも経験していたからその前に医者におなかを診てもらうシーンがあったのだろう。ただこの吐き気の原因が病気だと思っているのならルドルフに罪の意識なんてないのだろう。本作の描かれ方だとルドルフは職務を無理してやっている感じには見えない。もしルドルフが実は心のどこかで無理をしながら仕事をしていたという描写が必要なら現代のアウシュビッツ収容所の博物館の場面に移行する必要はない。

 

ナチスドイツと同じ歩みを辿る可能性はゼロとは言い切れない。それこそヒトラーが現代に転生したら人々はどんな反応を示すかを描いた「帰ってきたヒトラー(2015)」ではヒトラーに扮した主人公がそれっぽいことを演説すれば人々は聞き入ってしまう描写があった。誤解を承知でいうなら、ヒトラーのすべてが間違っていたわけではない。もちろんホロコーストは断じて許されるものではないが、中には正しい主義主張もあったことだろう。

 

ナチスドイツ誕生の大まかな流れを辿れば、第一次世界大戦で敗戦したドイツに世界恐慌の波が押し寄せ街には失業者が溢れた。ヒトラーはユダヤ人こそ敵だと市民を煽り政権を握ることになった。もし現代のドイツで不況の波が押し寄せたら移民たちが真っ先にその敵と見なされる可能性は高い。この流れで本作を振り返ると、興味の問題というよりそこまでいってしまったらあとは流れに逆らえないという話にも見える。それこそ本作の中で川の場面が少なくとも2回あった。ルドルフが転勤の話を持ち出した時の会話シーンと、子供たちを船に乗せて遊びに行くシーン。釣りをしているルドルフの足元に人骨が流れ着き、速くなっている川の流れから上流で雨が降っているのを察したルドルフが二人の子供を乗せて川の流れに逆らって家路に着こうとする。焼却されたユダヤ人の人骨を見て川の流れに逆らうわけだからルドルフの心の内も見えなくもない。

 

あとは近所に住む少女が夜に収容所内に大量のリンゴを置いていく場面が2回ある。2回目のシーンの後に収容所内でリンゴの奪い合いが起きていることが漏れ伝わってくる。このリンゴが意味するところはおそらく天然資源(あるいは支援物資もしくは情報)ではないだろうか。この世界において天然資源を握られたら生きていくことは難しい。天然資源は努力してたやすく手に入れられるものではない。その地になければもらう(買う)しかないのだ。そしていずれも強者がそれを握っているのだ。もしくはそれを握っているからこそ強者なのかもしれないが。

 

ホロコーストが行われていた約80年前と現代では情報の質と量が異なる。新聞とラジオと人から聞いた情報しかなかった当時と現代は比べ物にならないのだ。この溢れる情報から何が正しいのかを判断しなければならないし、世の中に問題と言えることは大小含め無限にある。2024年現在ロシアとウクライナの戦争、パレスチナ・イスラエル戦争が起こっている。いずれも情報を得たければ無限に得ることはできる。この戦争だけでも情報は無限にあるのだ。いくら情報にアクセスしやすくても日本からすれば遥か遠く離れた国での争いごとでもある。そして日本にも多くの問題はあるし、人間の事時間は有限である。そんな中でも人々は戦争に「関心」を持つべきなのは確かだ。憲法に縛られ戦場へ行くことができず金だけ出している日本には耳の痛い話ではある。

 

「議論を呼ぶ」という点においては成功している。とにかく余白だらけなので補完する余地は大いにある。ただ、本作を見て監督の望む行動に至るまでが少し遠すぎないか。無関心をテーマにしつつ、じゃあ関心を持てばそれで良いのか。しかも本作は家の隣にあるアウシュビッツ収容所で行われているホロコーストである。現在起こっている戦争もすでに取り返しがつかないところに至ったからこそ起こったものであるから、すでにホロコーストが行われている時代を描くことは自然なことではあると思う。

 

監督はアカデミー賞授賞式のスピーチでイスラエルとガザでの戦争について言及しているが、一部には批判の声も上がった。ただ、ホロコーストからシオニズムへ繋がっていくので監督の主張は決して外れてはいないと思う。

 

 

 

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【予告編】