【作品#0789】哀れなるものたち(2023) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

哀れなるものたち(原題:Poor Things)

【Podcast】

Podcastでは、作品の概要、感想などについて話しています。

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【概要】

2023年のアイルランド/イギリス/アメリカ合作映画
上映時間は141分

【あらすじ】

科学者ゴッドウィンによって生を得たベラは少しずつ成長していく。家に監禁状態だったベラはダンカン・ウェダバーンと駆け落ちしてしまう。

【スタッフ】

監督はヨルゴス・ランティモス
音楽はイェルスキン・フェンドリックス
撮影はロビー・ライアン

【キャスト】

エマ・ストーン(ベラ)
マーク・ラファロ(ダンカン・ウェダバーン)
ウィレム・デフォー(ゴッドウィン・バクスター)
ラミー・ユセフ(マックス)

【感想】

1992年に発表されたアラスター・グレイの小説の映画化。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞に輝いたのを皮切りに、ゴールデン・グローブではコメディ・ミュージカル部門の作品賞と女優賞の2部門を受賞するなど多くの映画祭で受賞・ノミネートされている。また、R-18作品にもかかわらず日本では異例の大規模公開となった。

本作と同じ2023年に製作された「バービー(2023)」と比べたくなる映画である。

ベラ(ヴィクトリア)が投身自殺する場面以外はモノクロで統一され、ベラがダンカンと駆け落ちしてリスボンのホテルでベラがダンカンの体に乗っている場面からカラーになっている。今まで家に監禁状態だったベラが外の世界を知り、そしてダンカンという男性を相手に性の歓びを知ったベラの世界が開けたことを示しているのだろう。

この映画の世界観も独特である。特にモノクロの映像で顔に縫合の痕のある博士が何やら怪しい機械を使った実験をする様子は「メトロポリス(1927)」や「フランケンシュタイン(1931)」などといったかつてのSF映画の雰囲気を醸している。ヨルゴス・ランティモス監督は影響を受けた映画を3つ挙げ、そのうちの一つが「ヤング・フランケンシュタイン(1974)」である。

ゴッドウィンのキャラクター造形。顔には縫合の痕がたくさんあり、胃は切除されたために胃液を作る装置を自ら発明し、手の親指は骨の成長を確かめるために釘が打たれていたなど、ゴッドウィンは父親から実験材料にされていた。特に縫合の痕だらけの顔は周囲に恐れられるとしているが、ベラは「かわいい」と言ってくれる。この顔が当たり前として育ったのだから当然である。

ゴッドの顔が縫合の痕だらけであることの説明は一切ない。継ぎ接ぎだらけのフランケンシュタイン博士の創造したモンスター。ゴッドが所詮は作られたもの。もしくはあの縫合の痕は実はゴッドウィンも誰かの脳を移植されたのかもしれない。

ヨルゴス・ランティモス監督の前作「女王陛下のお気に入り(2018)」でも使用された魚眼レンズの演出が本作でも幾度となく登場する。魚眼レンズを使うことでこの世界が歪んでいることを示すのと同時に、我々観客がレンズ越しに見ているという感覚を与えてくれる。

まず宗教と科学という観点から振り返ってみたい。博士のゴッドウィンはベラから「ゴッド」と呼ばれており、ベラとマックスの結婚式の場面は牧師が登場する。また、ラストで将軍の脳に移植されるのはヤギの脳である。ヤギはキリスト教において欲望の象徴としてみなされていた。また、ベラ(ヴィクトリア)は自殺を図るがキリストで自殺は禁止されていることが言及される。

また、ゴッドウィン博士が実験したであろう動物同士のハイブリッド。これを見て思い出すのはダーウィンの進化論の戯画であろう。ダーウィンは進化論を唱えたが、サルから人間に進化したという主張は馬鹿にされ、頭は人間、身体は猿といった戯画が作られるに至った。

本作では大人になり本を読み漁って知識を得たベラが進化について語る場面が何度かある。ベラは進化することを信じている。また、船内で出会ったハリー・アストレーという黒人の男から「なぜあんな男(ダンカン)と一緒にいるんだい」と聞かれて、関係が良くなることを信じているからだと言っている。この意見にはマックスも後に同意している。

宗教と科学を扱った映画と言えば「コンタクト(1997)」や「天使と悪魔(2009)」なんかが挙げられる。「天使と悪魔(2009)」は決して出来の良い映画とは思わないが、宗教と科学を利用した企みが行われる作品であった。本当に神は存在するのか。ベラの言葉を借りれば、ゴッドの言っていたエビデンスはあるのかという話である。ゴッドウィンは左を向けば縫合の痕が十字架のように見えるのだが、彼も進化を信じる科学者である。

なぜ助手の男マックスはアラビア系のラミー・ユセフが演じたのか。ちなみにラミー・ユセフはアメリカのニューヨークでエジプト人の両親のもとに生まれたイスラム教徒である。マックスはベラの体が大人で中身がまだ思春期くらいの子供であってもベラとの結婚を望んでいる。

ちなみにイスラム圏では女性の結婚できる最低年齢は様々であり、イエメンのように最低年齢を定めていない国もあるし、アフガニスタンのように16歳が女性の結婚できる最低年齢と定めながら花嫁の半数以上が16歳未満であるといった事情が各国にある。さらには親が3歳の娘を嫁に出した話もあるなど、成人する前に女性が結婚する、あるいは結婚させられる例はイスラム圏に多数ある。それもこれもイスラム教の預言者ムハンマドがアーイシャと結婚したのが6歳か7歳のころであり、9歳から10歳のころに性交したと言い伝えられているからである。本作の宗教に批判的な側面を見ると、その対象は当然イスラム教にも向いているはずだ。

ゴッドウィンはマックスに対してベラと結婚するようにと言っている。マックスはこれに驚きながらもベラが良いというのなら結婚したいと考えており、ゴッドウィンは条件としてこの家に住むことをあげている。ベラだけでなくマックスもゴッドウィンの研究の対象であり、実験台であるのだろう。

ゴッドウィンがセックスするためには北ロンドン中の電力が必要だと言っていた。北ロンドン中の電力が必要であることを知っているということはどうやったらセックスできるかを考え、計算したことになる。父性的な気持ちの方が強いと言っていたが、もしゴッドウィンはベラとセックスできたのならしていただろう。

マックスはゴッドウィンの家に入る前に「神を信じるか」と聞かれている。神を信じるかどうかであってキリストを信じるかとは聞かれていない。

マックスは講義の後にゴッドウィンに呼ばれて彼の研究の助手となる。マックスの登場シーンでは講義を聞くマックスの下にいる二人の白人が話しており、彼らの会話にマックスが入ってくると嫌がられる。それでも構図としてはマックスの方が上にいる。

ちなみに、イギリスにいるイスラム教徒は増えている。ちなみにロンドンでは60万人(人口の9%)がイスラム教徒であり、2016年に当選したサディク・カーンは初のイスラム教徒の市長である。

また、将軍の元に戻ると、ベラの性に対する固執は異常だとして将軍はベラの女性器を切除しようとしていることが分かる。女性器切除の慣習は特にイスラム圏に多いとされる。女性の性的衝動を抑え込み管理しようとする狙いがある。キリストだけでなくイスラムなど宗教に対する批判は間違いなくある。

ベラの脳年齢はいわゆる人間の一般的な成長スピード以上のスピードで成長しているが、これについては説明がなくおそらく映画、あるいは物語を進める上での設定ということなのだろう。

ゴッドウィンは当初マックスを家に招いて脳挫傷で精神年齢が肉体年齢に追いついていないベラの観察を依頼している。マックスがゴッドウィンの資料を漁るまで脳移植の件は知らなかったわけで、マックスもゴッドウィンに騙されていたことになる(当然ながら観客も)。当然、まだ中身が子供の状態のベラに事情を話しても理解されるわけもなく、そして話す理由も見当たらず、そしてマックスは臆病でもあったことを認めている。この事情を本人に話すべきだろうか。そして、この事情を本人に話すとしていつが妥当なのか。また、この脳移植の一件が分かるまではマックスが観客視点を担っていたが、この事情が分かってから徐々にベラ視点に切り替わっていく。

ゴッドが発見した妊婦を見て自殺と判断した理由は明示されない。事故の可能性だってあるはず。ここは事故ではなく自殺であると分かる一言があっても良かったとは思う。

ベラは両親が冒険家であったと教え込まれたこと、そして後に分かる将軍の子供であるという血筋から外の世界を見たいと言い始め、その外の世界に連れて行ってくれる存在ダンカン・ウェダバーンに出会ったことで駆け落ちを決心する。当初反対していたゴッドももし外に出ることを許可しなければ憎むとベラに言われたことで諦めてしまうことになる。

とある場所に閉じ込められていた主人公が外の世界を知る物語である。近年の作品では「ルーム(2015)」や「ブリグズビー・ベア(2017)」といった作品を連想する。ただ、本作は行く先々が外に開けた世界というより、その世界もまた小さな世界の一つであり、まるで作られた箱庭のような感覚に陥る。

ベラはゴッドに事実上の監禁状態に遭い、さらに駆け落ちしたダンカンはベラのコントロールが難しくなると豪華客船に乗せてこちらも船内に監禁状態となる。そして、母体がヴィクトリアという将軍の妻だったと分かって将軍のいる宮殿に行くとそこでも監禁状態となる。女性が行く先々で感じる閉塞感。

体は大人で中身は子供という特殊な状態なだけで、子供から大人にかけて成長していくというごくごく普遍的な物語でもある。

また同時にベラは性的興奮を自慰行為で満たすことを覚え、そしてダンカンと出会ってからはセックスで満たしていく。多くの社会で性的なことは自重するように教育されていくはずだが、そんな教育を受けていないベラは思いのままにその欲望を満たそうとしていく。なぜ性に開放的になってはいけないのか。それは欲望を自制できるのに必要な教育や経験が必要になるからであり、だからこそ多くの国や社会で成人年齢や結婚できる年齢、酒を飲むことのできる年齢が決まっているはずだ。それがまさに本作で何度も言及される「良識ある世界」なのだろう。

ベラはセックスのことを「熱烈ジャンプ」と言っていた。「岬の兄妹(2018)」を思い出す。この映画では自閉症の妹が失踪の末にどうやら体を許して1万円を貰った状態で見つかる。金のない兄は妹にセックスのことを「お仕事」と称して売春させ始めるという物語であった。

ちなみに胎児は男か女か明かされていなかった。脳移植の場面で胎児の体が映るカットが1箇所だけあったのだが、ちょうど股間は映らないようになっていたので男か女かは伏せた。体が女性であったら胎児が男であろうと女であろうと関係ないということなのだろう。

リスボンでベラは初めて社会を知っていく。最初に行く街がポルトガルのリスボンであることは、大航海時代で栄えた街であることも影響しているのではないか。中でも、1つで良いと言われたのに何個も食べて嘔吐し、踊りづらそうな音楽でも踊ってしまう二人は何とも印象的である。

その後、ベラはダンカンに無理やり船に乗せられ、ギリシャのアテネに向かうが途中で旅費が足らずにフランスのマルセイユで下船させられる。その途中で出会ったハリー・アストレーから連れられてアレクサンドリアに向かう。そこでは自分たちの下々に飢えた人たちがたくさんいる様子を見てベラは自分がいかに恵まれているかを知り涙する。ベラが彼らの元へ降りようとする階段は途中で崩れており行き来することは不可能である。貧富の格差や一度落ちたら這い上がることができないことを示しているシークエンスだが、映画内ではやや浮いたシークエンスだと感じた。ただ、この場面に至るまでに落下のイメージが効いている場面ではある。ベラ(ヴィクトリア)は橋から投身自殺を図り、家では下に何かを落とす場面が何度もある(上にいるからできること)。

ダンカンしか男を知らなかったベラは文無しになってホテルを探していると娼館に辿り着き、セックスをしてお金を貰えるという事実を知り、ひと稼ぎする。ベラに惚れてしまったダンカンはベラが娼婦になったことに怒りひとりロンドンに帰ってしまう。自分は100人以上の女性と関係を持ってきたとか言っていたくせにベラが他のたった一人の男性と関係を持っただけでブチ切れる。

また、社会主義に目覚めるトワネットと仲良くなってからのシークエンスが尻すぼみだと感じた。ベラが社会主義にも目覚めるのならトワネットと集会へ行く場面は最後まで描いても良かったんじゃないだろうか。とはいえ、ベラはアレクサンドリアで目撃した貧しい人たちにダンカンのお金を渡そうとしている場面でその土壌が出来上がっていることは分かる(多分預かった船員がくすねていると思うが)。

ベラは手術のことなど何も聞かされておらず、帝王切開の痕があることやその事実を教えたのが男であることを娼館のトワネットから知らされてロンドンへ戻り、ゴッドを問い詰めて事実を知ることになる。そこでベラは泣きじゃくったり怒鳴り散らしたりするわけではない。その事実とありとあらゆる感情を受け入れ、ゴッドを許すことにする。この許しはキリスト的である。

その後、ベラは婚約していたマックスとの結婚をあっさり決断する。牧師の前で誓いの儀礼を執り行っている最中にベラの夫を名乗るアルフィー・ブレシントン将軍が現れる。ベラは将軍の妻ヴィクトリアで、精神を患った末に投身自殺を図ったのだと知らされる。ベラは少し考えて将軍の元へ戻ると言って将軍の馬車に乗り込んでしまう。やや唐突に見えなくもないが、ベラはゴッドウィンに命を助けられたのと当時に嘘をつかれていたわけだ。ようやく真実にたどり着けるかもしれないわけで、将軍の元へ戻ることを即決するのも納得はできる。

ところが、将軍は使用人から嫌われており用心のために常に拳銃を携帯しており、使用人を馬鹿にして高笑いしているような人間であるとすぐに判明し、ベラはヴィクトリアとして投身自殺をしようとした理由を理解する。そして、自分(ヴィクトリア)も使用人から良く思われていない様子から(母親が)優しい人間ではなかったことを理解する。

ベラからすれば将軍は父親に当たるわけである。ベラはゴッドから両親が冒険家であったと教え込まれてきた。ベラは道中、自身の冒険心を親譲りであると感じている。そして、将軍が領土拡大に向けて戦っているという話を聞いて妙に納得してしまう。

女性器切除をしようとする将軍相手に抵抗したベラはゴッドの家に将軍を連れ帰り、マックス協力のもと将軍の脳にヤギの脳を移植することにする。ここで思い出したいのが、船の上でのベラとハリーのやり取りである。ハリーは人間は野蛮でありそれから逃れることはできないと言っているが、ベラはきっと良くなると信じている。この将軍こそ野蛮な人間の代表である。きっと良くなると信じていたベラは食卓越しの会話シーンでの対決で良くなることが無理だと悟ったはずだ。

自分がされたことと同じことをしてしまうという結末。たとえ自分の体の夫である将軍がどれほど酷い人物であったとして、また人の死を見たくないとしても彼の脳にヤギの脳を移植するのが正しいことなのか。この結末は「ザ・フライ2 二世誕生(1989)」や「私が、生きる肌(2011)」のそれを思い出させる。

とはいえ、ベラはヴィクトリアとアルフィー将軍との間の子供である。脳は彼らの血を引き継いでいるのだ。ベラはマックスと結婚し、ゴッドウィンの研究を引き継ぐと言っている。ベラはマックスとゴッドウィンが隠した事実を知って彼らのことを「モンスター」と言っている。自分もモンスターと同じじゃないか。

ラストはみんな揃ってベランダで昼から酒を飲む。揃ったみんなはベラにとって都合の良い連中ばかり。家政婦も医者も友人も皆が同じ立場で酒を飲んでいる。まさに社会主義的である。

ベラはおそらく髪を切っておらず、映画が始まった時点に比べるとラストの彼女の髪は腰下くらいまで伸びている。これはベラが感傷的にならず後ろを振り返ることなく前進し続けてきたことを示しているようにも見える。

最後に選ばれるのは生みの親より育ての親。ベラが生まれなかったとしてもゴッドは他の誰かで成功させていたことだろう。ベラが生まれたからこそゴッドの研究は引き継がれていくことだろう。そうして化学は発展してきた。それこそ同時期にオスカーを競うオッペンハイマーだって彼が原子力爆弾を発明しなかったとしても後に続いた誰かが発明していたことは言うまでもない。

また科学者のゴッドのとんでもない発想からベラは生まれた、ある意味外れ値の存在であろう。科学が進化すれば外れ値の存在も次々に出てくることだろう。マッドサイエンティストのゴッドによって、ダンカンがモンスター呼ばわりするベラが誕生した。100人以上の女性と関係を持ってきたダンカンをしても全く会ったことのない存在だった。誕生してから考えたのでは遅いのだ。

それこそ本作のようなことができるようになれば、脳死した人の体と体の自由が効かない人の頭がマッチングする可能性が出てくる。これは見た目と考えがマッチングしない怖さでもある。それこそヨーロッパは多くの移民を受け入れ、特にイスラム教徒との間でトラブルが発生してテロまで発生している。それこそ脳の移植のシークエンスを見ると洗脳も連想するところではある。この外れ値は科学の進化の末に生まれる存在についても言及できるし、とあるキリストの社会に入り込んだイスラムという存在にも言及することはできる。

それから絶対に触れておかなければならないのはエマ・ストーンという女優の起用だ。このベラ(ヴィクトリア)がダンカンに誘われたのも、娼館で稼ぐことができたのも美人でスタイルが良いからである。男も性欲を満たす上で誰でも良いとは思っていないはず。何度も求めるベラに対して何度も続けて出来ないとダンカンが答えると、ベラは「それって男の弱さ」だと返している。

またベラが船の上で会うマーサという高齢の女性との場面で、マーサが長年セックスをしていないという話を聞いて愕然とする場面がある。マーサは行為より思考が大事だとしてベラに本を渡して教育している。この「老い」はある意味で人間、ならびに生物の弱さであろう。その意味において、本作のベラが中身が赤ちゃんからスタートして大人になっているのに、成人した女性ヴィクトリアの見た目のまま映画が終わるのは卑怯にも思える。脳の成長と体の老いが同時並行で進めば物語としてもっと面白くできたようにも思える。

男性も女性も年を重ねたからと言ってセックスがすぐにできなくなるわけではない。ただ男性は勃起しづらくなってくるだろうし、女性は更年期になれば女性ホルモンの分泌が減少してくる。年相応の外見に脳年齢が追い付かないままだったらどんな物語になったのだろうか。魅力的だと思われたい年頃に老いを感じ始めたらベラはどう感じただろうか。それはこの映画の後の出来事として考えると興味深いところではある。

タイトルの「哀れなるものたち(Poor Things)」とは何を指しているのか。「Thing」の意味を改めて調べるとたくさんの意味がある。一般的に知られる「もの」以外にも「生きもの」や口語表現の「人(特に女性や子供の意)」、「所持品」、「考え」などの意味がある。本作に登場するありとあらゆるものが「哀れなるものたち」であるとも思えてくる。

本作は、ろくな教育も受けぬまま社会に飛び出したベラの成長の物語ではある。じゃあベラは正しいのか。彼女は歪んだ世界の上に生を授かり、映画の終わる時点ですべてを知ったような顔をしているが決してそうでもないだろう。本作では女性の解放も描かれつつ、生理や妊娠、レイプや中絶といった部分には触れていない。あえて触れていないのかどうかは分からないが、不特定多数の男性だけでなく女性とも関係を持つのなら言及すべきではないかとも思う。

観客はベラ視点に立つので彼女を応援したくなっていくが、そこも少し怖いところであろう。その歪んだ世界に立ち続ければまっすぐに見えて来るものでもある。エマ・ストーンだけでなくマーク・ラファロやウィレム・デフォーらさすがの存在感で彼らの演技を見るだけでも十分に価値のある作品。




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【予告編】

 

 

【書籍関連】

 

<哀れなるものたち>

 

形式

├紙

├電子

出版社

├ハヤカワepi文庫

著者

├アラスター・グレイ

翻訳者

├高橋和久

長さ

├481ページ