【作品#0771】いつも心に太陽を(1967) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

いつも心に太陽を(原題:To Sir, With Love)

【Podcast】

Podcastでは、作品の概要、感想などについて話しています。

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【概要】

1967年のイギリス映画
上映時間は105分

【あらすじ】

白人の高校に赴任してきた黒人教師のマーク・サッカレーは不良生徒たちの態度に最初は我慢していたがついに怒りが爆発してしまう。

【スタッフ】

監督/製作/脚本はジェームズ・クラヴェル
音楽はロン・グレイナー
撮影はポール・ビーソン

【キャスト】

シドニー・ポワチエ(マーク・サッカレー)
クリスチャン・ロバーツ(デナム)
ジュディ・ギーソン(パメラ)
ルル(バーバラ)

【感想】

エドワード・R・ブレイスウェイトの映画化。生徒バーバラ役で出演しているルルの歌う主題歌「いつも心に太陽を」も大ヒットを記録した。

本作と同年にシドニー・ポワチエは「夜の大捜査線(1967)」「招かれざる客(1967)」、そして本作と、話題作やヒット作に出演してまさに彼の年だったとも言える。「夜の大捜査線(1967)」では黒人差別の残る南部に北部からやって来るエリート黒人刑事を演じ、「招かれざる客(1967)」ではまだ20歳過ぎの白人女性が両親に内緒で連れて帰ってくる婚約者でエリート医師を演じた。そして本作では白人の高校に赴任してくる黒人の高校教師役を演じているのだ。

本作含むそれらの作品に共通しているのは「主人公が間違えないこと」である。シドニー・ポワチエが話す英語はとても上品であり、何でも知っており、態度も紳士的である。独身でありながら結婚についても語れるし、サラダも作れるし、まさに完璧なのである。

こういった完璧さこそ当時の白人に受け入れられていた、あるいは望まれていた黒人であり、貧困で学がなく、言葉遣いも汚くて犯罪に走り、低賃金の肉体労働しかできないというような当時の映画でよく描かれていたステレオタイプの黒人像とは正反対である。

そんな正しい人間であるサッカレーは、生徒たちの言動、態度の酷さに我慢できずに怒鳴ってしまう場面がある。そこから吹っ切れたようにサッカレーは生徒たちと真剣に向き合い、交流を深めていき、生徒たちを正しい方向に導いていくことになる。

ただ、物足らないのは生徒たちが先生を認め、自分たちの態度を改めていく過程である。このクラスにいる生徒の中に本当の意味での不良はいないのだろう。元々悪い人間ではないが、貧困故に育ちが悪くて言葉遣いが汚いとかマナーがなっていないとかそんなレベルである。確かにそういう高校に正しい場所へ導くことのできる人間が赴任して来ればうまくいく可能性は十分にあるし、本作のケースはまさに適材適所だったのだと感じる。

特に印象的なのは体育の授業を別の教師が見ている場面である。そこでは太り気味の生徒が跳び箱を怖がっているのだが、その教師は嫌がる生徒を嗾けて無理やり跳び箱に挑戦させる。そうすると跳び箱を支えていた柱が壊れてその生徒は怪我をしてしまう。周囲の生徒は嗾けた教師に暴力を振るおうとするがサッカレーが制止する。

この教師が悪く描かれているが、あの状況はあの教師を悪くとるのも理解できるが微妙なところ。跳び箱を支えていた柱が壊れたのはあの教師のせいではないし、仮にこの生徒が無事に飛び終えたとしても次の生徒の時に壊れていたかもしれない。用具の管理も危機管理も先生の仕事なので生徒に怪我人が出たら教師の責任ではある。それにしてはこの教師はこの生徒を目の敵にしているように見えるし、事故が起こってからの対応もいい加減だ。なので責められるべき対象であるのは間違いないが、周囲の生徒はこの教師に暴力を使おうとした。それは間違いである。サッカレーは暴力を使おうとしたことを咎めるのだが、もう少しこの生徒に説明が必要だったんじゃないだろうか。

また、自身の態度を生徒たちが見ている以上、この体育の授業を担当した教師にも確認したり話し合ったりする必要があったんじゃないだろうか。この場面でサッカリーがその教師に何も言わないとなると、白人様には盾突けないと言わんばかりである。ここで生徒たちからの信頼をやや失うのだが、状況が状況だけに完全に信頼を失ってしまってもおかしくはない。この場面から再びサッカレーが信頼を取り戻していく過程は物足らなかった。やはり「完璧」なシドニー・ポワチエに間違いだと認めさせられなかったのか。あるいは間違っていた可能性があったかもしれないと思うだけでも意味はあったと思う。

そんな「正しい」サッカレーは基本的に生徒たちからも同僚の教師からも受け入れられている。ただ、先輩の白人教師がサッカレーの受け持つクラスの生徒の言葉遣いがきれいであるとサッカレーに嫌味を言ってくる。この手の映画であれば、唯一の黒人教師であるサッカレーが同僚から嫌がらせを受ける場面があってもおかしくないが、本作でサッカレーに対して嫌がらせと分かる行為をしてくるのはせいぜいこの場面くらいである。教師も白人ばかり、生徒には白人と黒人の混血はいるがほぼ全員が白人である中にシドニー・ポワチエ演じるサッカレーは唯一の黒人である。彼は差別の対象になることもないし、周囲が「彼は黒人だけど私たちは差別しません」と言った言い訳がましい場面もない。ごく当たり前に受け入れている。何ならサッカレーに気がある女生徒まで現れる。これこそ何の淀みもない描写だと思う(混血のキャラクターについて白人生徒が言及する場面についてフォローが必要だったように思うが)。

また、学ぶ機会が学校しかない貧しい生徒たちのためにサッカレーは博物館への見学を校長に頼み込んで実現する。生活範囲、交友関係の範囲の狭い子供たちにとって社会見学は絶好の学びの機会であろう。職を転々としてきたサッカレーには多くの知識と経験がある。いくら教室で彼が自身の経験してきたことを語ったところで知れている。また、子供たちにとっては視野を広げるいい機会になるはずだ。ただ、諸事情により残念としか言いようがないのだが、この博物館の場面はスチール写真にアテレコのセリフを合わせたものになってしまった。本来であればこの場面には普段学ぶことのできないことを追体験できるという子供たちの視野の広がりを映像的にも表現できたであろうから、こうなってしまったのは残念である。

一方で、サッカレーは上述のように完成された人間である。ただ、彼にだって知らないことはあるし短所だってあるはずだ。この地区にある学校で教師として働いていくのであれば、彼があまり事情を理解していない生徒の貧しい事情を理解するために生徒たちの家に行く場面なんかがあっても良かったように思う。ケン・ローチ監督の「ケス(1969)」では、複雑な家庭事情を抱える主人公の家に担任の教師がわざわざやって来てくれるという場面もあった。

サッカレーは念願の技師の仕事に合格するのだが、一人でいた教室に来年このクラスになるという男女の「なっていない」生徒が入って来たことで、教師としてまた来年もやりたいと思い合格通知の上を破り捨てて映画が終わる。サッカレーにはこの学校に残ってほしいという気持ちは観客にも芽生えていたはずだ。予想通りと言えばその通りではあるが、気持ちの良いエンディングである。

結局のところ、シドニー・ポワチエという模範的な黒人であれば白人であろうと混血であろうと「差別しない」という言い訳なく接することができ、もちろん尊敬することができる。彼のような模範的な黒人が黒人の代表ともなれば一般人の黒人は憧憬や尊敬の対象であっても、いざ白人の前に立ったり中に入ったりすればプレッシャーに感じることもあったかもしれない。とはいえ、後の時代にシドニー・ポワチエ以外の黒人像も多く形成されていった訳だから、人種関係なくみんなそれぞれではある。ただこういう時代があり、この時代にシドニー・ポワチエというスター俳優がいたことは忘れてはならない。1967年の彼の出演した3つの作品はセットで押さえておきたい。

【関連作品】


「いつも心に太陽を(1967)」…シリーズ1作目
「いつも心に太陽を2(1996)」…シリーズ2作目(テレビ映画)



取り上げた作品の一覧はこちら



【ソフト関連】

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