【作品#0432】セールスマン(2016) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

セールスマン(原題:فروشنده)


【概要】

2016年のイラン/フランス合作映画
上映時間は125分

【あらすじ】

引っ越したばかりの家に妻が1人でいる時に、妻が何者かに襲われて頭部にケガを負ってしまう。事件が表沙汰になるのを恐れた妻は夫へ警察へ通報しないようにお願いするが…。

【スタッフ】

監督/脚本はアスガー・ファルハディ
音楽はサタール・オラキ
撮影はホセイン・ジャファリアン

【キャスト】

シャハブ・ホセイニ(エマッド)
タラネ・アリドゥスティ(ラナ)

【感想】

アスガー・ファルハディ監督にとっては「別離(2011)」に続いて2度目のアカデミー賞外国語映画賞の受賞となった作品。カンヌ国際映画祭でも男優賞、脚本賞を受賞するなど世界各地の映画祭で多くの賞を受賞した。

女性が受ける暴力と、その女性を守ろうとして男性が振るう暴力。2022年のアカデミー賞授賞式で、司会者のクリス・ロックから妻のジェイダ・ピンケット・スミスの悪口を言われて、夫のウィル・スミスが彼をビンタした問題と本質は同じ部分があると感じる。弱い(と思われる)女性を男性が力で守ろうとする。

本作におけるラナは暴行を受けた件は思い出したくないと思っている。もし裁判となれば弁護側から何を追及されるか分からない。「なぜ家に入れたのか」などあらぬ疑いや噂をかけられるかもしれない。様々なことを事細かに聞かれたら、思い出したくなくても裁判中は嫌でも事件のことを思い出さなければならない。周囲から憐みの目で見られるのではないだろうか。そんな思いをするくらいだったら忘れてしまおう。もう終わったことにして忘れてしまえばこれ以上傷つかなくても済むわけだ。でも1人でいるのは怖い。そういったラナの心の中に存在する多くの感情が彼女の行動や言動を男性(エマッド)が理解できないものにしていくことになる。

そして、痺れを切らしたエマッドは自ら犯人探しを始め、制裁するまでは終わらせまいと執拗に、そして暴力的になっていく。自分の妻(所有物)が傷つけられたからにはそれ相応の思いを味合わせないと気が済まない。エマッドはほんのちょっと事情を漏らしたことで劇団員全員に事情が知られてしまうことになった。これはエマッドにも原因はあるのだが、こうなったら犯人の老人の家族にも事情をばらさないと気が済まなくなってくる。

殺すつもりなどはなかったにしても持病を抱える老人を部屋に長時間閉じ込めて持病を悪化させてしまう。死にかけたところを何とか処置して命は助かり、その老人の家族が駆け付けると「助けてくれてありがとう」と感謝されてしまう。この場面でエマッドとラナを映すショットは別々であり、彼らの距離が完全に分断されてしまったことが分かる。この老人も娘が結婚する予定でありそれをぶち壊されたくないし、結婚35年もやって来てこんなことで恥をかきたくない。エマッドは隣人が事情を知っており、やがて劇団員も事情を知ってしまうことになり、ラナはレイプされたんじゃないかと思われながら生きて行かないといけない。そういった男性側のメンツやプライドといった事情だけで話が進んでいく。

所有物に関するところも面白い。エマッドとラナは引っ越し先に行くと、一部屋だけ閉ざされており、事情を確認すると新居が決まるまで荷物を置かせてほしいと言う前の住人が原因であった。家という自分たちだけの物であってほしいものがまだ完全に自分たちだけのものではないむずがゆさ。この辺りがどこか処女性とか、聖なるものとして女性を捉えたがる男性の願望にも見える部分ではある。

また、イスラム圏には「名誉殺人」が多く存在することでも知られる(他の宗教圏でもあるのだがイスラム圏が圧倒的に多い)。しかもその被害となるのはほとんどが女性である。たとえば、結婚前に男性と関係を持ったり、結婚しているのに不倫関係になったり、あるいは強姦されたり、こういったことを家族、特にその娘の父親が家族の恥だとして娘を殺害することがある。その娘を殺すことで家族の名誉を回復させようとすることが目的らしい。さらにこの名誉殺人を犯しても死刑にはならないそうである。ラナが名誉殺人の被害者になる可能性があるかどうかまでは分からないが、イランなど特にイスラム圏に名誉殺人の被害に遭う可能性もあるわけである。

映画の冒頭に話を戻すと、そこではまるで災害かテロなどが起きて避難しているのではないかと思わせるが、窓の外をカメラが覗くとショベルカーが隣の土地を掘っているところが映るのだ。こんな時間に工事かと思うが、イランの急速に進む土地開発を示しており、隣の土地を掘るだけで部屋中にひびが入ってしまうほどのいい加減な住宅であることも示される。まだ社会の基盤もできぬままに人口がどんどん増えていくイランそのものを示している。

イラン及びテヘランは、1979年のイラン革命後に急速に人口が増加していることで様々な社会問題が発生している。中でも首都のテヘランには開発する場所がどんどんなくなり、周辺エリアにニュータウン開発が行われているが、交通インフラの整備は完成しきっていない。そういったエリアに住む人たちがテヘラン市街地へ行くには自家用車か乗り合いタクシーに頼らざるを得ない状況である。本作でも序盤にエマッドが乗り合いタクシーで大学まで通勤する場面がある。面積そのままに人口が増えるということは当然人口密度も増すことになる。このタクシーの場面も別に近づきたくもないのに体が触れる範囲に人がいることを示しており、エマッドの隣に座るは「触らないで」と言っている。

その女性に対して、当初はエマッドも気持ちを察する余裕がある。エマッドはタクシー内で隣の女性の体に触れている訳でもないのに女性が席を代わってくれとまで言っていた。後に同じタクシーに乗っていた生徒から「あの女性は酷い」と言うと、エマッドは「過去に男性から嫌な目に遭ったからあのような態度を取っただけだ」とその女性を悪く言うでもなかった。この気遣い様を見ると、エマッドが自分の妻に話が及ぶとどれだけ人が変わるかがよく分かる。

そのエマッドが妻のラナらと主演している舞台は、アーサー・ミラーが原作の「セールスマンの死」である。1949年に初演されてから世界で上演されている名作として知られ、ピューリッツァー賞も受賞しており、1951年と1985年には映画化もされている。年老いたセールスマンが主人公で、かつては優秀なセールスマンだったが、徐々に売り上げも落ちて行き自分より若い社長からもあまりよく思われていない。2人の息子がすでに成人しており、長男はかつては優秀な生徒だったが、何事も長く続かずにプー太郎のような生活になっており、そんな長男に対して主人公は厳しく当たっていく。そんな主人公家族に訪れる悲劇を描いた作品である。本作には「セールスマンの死」がどんな舞台なのかを説明する場面はないので、補完しておいた方が良いかもしれない。

また、本作には2人の娼婦が登場する。と言っても1人は画面内に出てこないし、もう1人も「セールスマンの死」の登場人物である。2人の娼婦がいながら、1人しか画面内に登場しないとなると、彼女と前の住人の娼婦を結び付けてしまいたくなるのも当然である。主人公が引っ越す家にかつて住んでいた女性は「いかがわしい商売」をしていたと言っていたがおそらく売春をしていた娼婦だろう。この度調べて知ったことだが、イランでは風俗全体が完全に違法であり、店舗営業をするとその経営者も懲役刑になるし、完全に取り締まられるようである。だから、女性が個人で売春をすることが多いらしいのだ。いずれにしても、そういった売春行為をするのもお金のためだろう。

そして、「セールスマンの死」の稽古中に娼婦役の女性のセリフを聞いて笑い出す男がいる。侮辱されたと言ってその女性は稽古場から立ち去ってしまう。途中で立ち去ることを告げずに帰ってしまうところが、荷物を残して引っ越した前の住人に重なるところもある。彼女も遠いところからこの場所まで通っていて、しかも小さな子供を連れているのだから、決して裕福な暮らしではないだろう。こういった間接的に2人の娼婦を繋ぐ展開がうまく感じられる。

また、本作は始まりと終わりが円環構造になっている。始まりは夫婦が出演している舞台装置に照明が付けられていったが、終わりではエマッドが家の電気を消すと舞台の照明の照明が消えていく。さらに、冒頭は突然建物が揺れ始め、建物に住む隣人から避難するように言われて階段を降りていくことになる。ラストでは、その同じ建物からみんなが異なる理由で降りていくことになるわけだ。細かいところだが、メガネを持ったか確認するところも冒頭とラストで重ねている。

ちょっとしたボタンの掛け違えから、気付けば取り戻しのつかないところまで来てしまった。舞台に出演するためにエマッドもラナも化粧をしている場面で映画は終わる。ラナは確認せずにドアを開けてしまったことで悲劇を招いてしまい、暴走する夫を止めることはできなかった。エマッドは犯人の老人を見つけ、部屋に閉じ込めた挙句、顔を殴り、犯人の老人の心臓病を悪化させてしまった。その老人がどうなったかは描かれないので生死は不明だが、ラストのエマッドとラナの表情を見るにおそらく助からなかったと捉えるのが妥当だろう。また、閉じ込めている間に出演していた舞台でエマッドとラナが「セールスマンの死」で演じていた場面は「セールスマンの死」のラストシーンである。主人公が時代についていくことができず死を選んでしまう場面である。。彼らは紛れもない罪の意識を持ったまま生きていくことになるだろう。そんな彼らが舞台に出演するために老けメイクをしているわけである。何かで塗り固めないと生きていけないわけだし、この短い間に彼らも生を擦り減らして文字通り老けてしまった事だろう。

別離(2011)」などを入り口に順番にアスガー・ファルハディの作品を見ていると、「あぁ。こういう作品を撮る人ね」と割と共通点を多く見出すことのできるタイプの作家である。特に何かの誤解とか不注意から大事になり、それが家族内のトラブルに発展していき、どうしようもない結末に向って話が進んでいく。安易な表現だが、よく出来た脚本というところが、できすぎたものとして印象に残る人にはちょっと引っかかるかもしれない。ただ、これほどの作品を細かいパズルを当てはめるように完成させていき、細かい場面にもその意味を感じさせるところは見事である。

 

 

 

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├タラネ・アリドゥスティ 初日舞台挨拶
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