2024年3月16日(土)。天気晴れ。

我もまた渚を枕」(川本三郎:著、晶文社、2004年)に「手賀沼と利根川 水に暮らす町「我孫子」」という章があります。私は、これを読んで我孫子に行ってみることにしました。

昼食は、初台の「オペラシティ」にある「HUB」にて、シェパードパイを食べました。

競馬中継をやっていたので、ずっとここにいようかと少し思いました。
それから都営新宿線で「岩本町」まで行き、「秋葉原駅」でJR線に乗り換えます。「和泉橋」から見た「神田川」。
「上野駅」で常磐線に乗って、「我孫子駅」に到着しました。ちょうど1年ほど前に、常磐線で利根川を越えた茨城県の「取手駅」まで行きましたが、その時も我孫子で降りるかどうか、やや逡巡したことを思い出しました。「我孫子駅」のホームには、「弥生軒」という駅そばの店があって大人気です。

この店は、かつて「我孫子駅」の駅弁を作っていた弁当屋さんで、そこに放浪の画家・山下清画伯が働いていたことがあるそうです。
店が人気なのは、山下清画伯のせいもあるかも知れませんが、そばがおいしいせいでもあると思いました。私は、シェパードパイを食べていたので、たぬきそばにしました。唐揚げそばを頼んでいる人が多かったのですが。
「我孫子駅」の南口広場です。
「我孫子駅」は、1896(明治29)年の開業で、その誘致に尽力した飯泉喜雄という人の顕彰碑があります。
我孫子は、明治の終わりから大正にかけて、多くの文化人、とりわけ白樺派の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、バナード・リーチらが住んでいました。東京から程良い距離で、手賀沼の水辺の景観に恵まれ、ひっそりした田舎暮らしができたのです。
「我孫子駅」周辺は、区画整理事業によって新しい街並みになっています。
最初に訪れたのは、朝日新聞社の記者だった杉村楚人冠の旧居跡にある「杉村楚人冠邸園」です。楚人冠という名前は、自分の帽子(シルクハット)掛けに付けた名前だそうで、項羽(楚人)が秦を滅ぼした後、都の人から「項羽は冠を被った猿に過ぎない」と言われた故事に由来しています。自分にはシルクハットは似合わないという意味だそうです。
杉村楚人冠の家は大森にあって、我孫子は最初、別荘を建てたのですが、関東大震災の被災(子どもが死亡)をきっかけに、1924(大正13)年に移住をしました。今年は、その百周年にあたっていて、「我孫子で暮らそう-我孫子を愛した楚人冠」という企画展が開催されていました。
玄関を入って直ぐのサロン。
サロンには暖炉もあります。暖炉は良いですね。

書斎。蓄音機が置かれていました。
こちらは、最初に別荘として建てられた家屋です。「澤の家」と名付けられています。
住居は「手賀沼」湖畔沿いの崖面の上に建っていて、邸園は崖面を下る形で設計されています。
ベンチが置かれていて、この近くに住んでいる人は良いなあと思いました。
崖に沿った道は、「ハケの道」と名付けられています。野川沿いと同じですね。現在は、「手賀沼」が埋め立てられて、「ハケの道」から湖畔までは距離がありますが、志賀直哉や武者小路実篤は、「ハケの道」沿いにあるお互いの家を船で行き来していたそうです。
「ハケの道」沿いに「白樺文学館」があります。元々、民間の篤志家が設立した私設の文学館でしたが、2009(平成21)年から我孫子市の運営になっています。ここでは、「聴枩汀居」という志賀直哉が書いた扁額や、夏目漱石が志賀直哉に宛てた手紙、志賀直哉が小林多喜二に宛てた手紙、志賀直哉の葬式で里見弴が呼んだ弔辞などを見ました。館内は撮影禁止でした。
「白樺文学館」のはす向かいに、志賀直哉の旧居跡があります。地面に型どられたコンクリートの部分が旧居の跡を示しています。奥の建物は書斎です。
書斎は、他の場所に移されていたのを、元の位置に復しています。ここで志賀直哉は、「暗夜行路」を執筆したそうです。
「ハケの道」沿いにあった煎餅屋さん「大正煎餅木川商店」。
「柳宗悦旧居」である「三樹荘」(左側)沿いの坂道「天神坂」。右側は、嘉納治五郎の別荘でした。
「ハケの道」(左側)と「手賀沼ふれあいライン」(右側)の分岐。
「手賀沼公園」に出ました。
レールがあります。
ミニ鉄道が走っていました。
「手賀沼」は、元々は内海でしたが、時代が下るにつれて堰止湖となりました。江戸時代に利根川の流路が変えられた際、利根川水系に組み込まれました。更に新田干拓計画が進められ、約8割の水域が消滅しています。
湖畔で、先ほどの煎餅屋さんで買ったおかきを食べました。
間もなく湖堤道が開通するようです。
堤から一段下がった遊歩道を進みます。
「手賀大橋」を潜りました。対岸は柏市です。2005(平成17)年までは、東葛飾郡沼南町でした。
手賀沼越しに見えるのは「水の館」です。残念ながら時間切れで行くことができませんでした。
「我孫子手賀沼漁業協同組合」。
「旧村川別荘」。ともに東大の西洋古代史教授だった村川堅固・堅太郎親子の別荘跡です。ここも時間切れで入ることができませんでした。残念。
真言宗豊山派の寺院「白花山延寿院(子之神大黒天)」に向かう階段。
階段の上から、手賀沼を望みます。
「子之神大黒天」の本堂。1970(昭和45)年に火災で焼失するまで、源頼朝公手植えの松がありました。
帰りは疲れてしまったので、バスで「我孫子駅」まで戻りました。バスは、「阪東自動車」です。
今日のおみやげです。