2024年3月10日(日)。天気晴れ。

地形と思想史」(原武史:著、角川文庫、2023年)には、「「峠」と革命」という章もあります。峠は、山のこちら側と向こう側とを仕切る境界であるとともに、近世は交易路の役割を担っていました。私は峠に関心を持った先輩の手伝いで、甲武の境となっていた峠に登ったことがあります。それは、私が装備も体力も慎重に考えない無謀登山の経験を重ねていたことから、途中で天気が悪くなったり、道に迷ったり、何か出てきたりした時に役立つと思われたせいでした。この時に、山とは単に登るためにあるわけではないということを初めて知りました。

本書では、先ず現代の五日市への行き方である、「立川駅」から青梅線で「拝島駅」乗り換え、五日市線で終点の「武蔵五日市駅」へというルートが示された上で、かつては八王子と五日市とを結ぶ「秋川街道」のルートがあり、浅川水系と秋川水系とを隔てる「秋川街道」の「小峰峠」は、乗り越えるのが容易であったことが書かれています。このため五日市は八王子を介して、絹の交易路として横浜ともつながっていたことから、明治維新後に開明的な思想が流入しやすく、「五日市憲法」のような民間で自主的な憲法の草案が作られた背景になったのです。現代の感覚では、支線の支線の果てのような五日市で、なぜ民権運動が盛んだったのかは、峠を通じた人や情報の行き来を理解しないと分からないのです。そこで!、今日は八王子から「秋川街道」を通って、五日市に行ってみることにしました。

出発は、京王線「京王八王子駅」前です。

駅ビル「Kー8」が、3月末で閉館してしまいます。10時の開店前だったので、「ポポンデッタ」には行かれませんでした。八王子は、これからどうなってしまうのか?
「Kー8」の脇にあるバスターミナルから、西東京バス「秋04武蔵五日市駅行き」に乗り込みます。
バスは、「甲州街道」から「秋川街道」に入って、「浅川」の橋を渡ります。一路、五日市へ。
途中で「圏央道」の高架下を潜ります。
八王子市川口地区の近辺です。「浅川」の支流「川口川」に沿って道は続きます。明治時代の評論家・北村透谷は、川口地区に滞在していたことがあって、この道で小峰峠を越えて五日市に通っていたそうです。
小峰峠に向かう旧道が右に分かれると、
小峰隧道というトンネルが現れ、トンネルを抜けると五日市(現・あきる野市)になりました。
「武蔵五日市駅」に着く直前で、「秋川」の橋を渡ります。
「武蔵五日市駅」に到着です。なお、八王子から五日市に来るには、電車で来る方がバスで来るよりも運賃がずっと安いのです。
「武蔵五日市駅」に隣接して、西東京バスの五日市営業所の車庫があります。これだけバスがいれば、いろいろな所にたくさんバスが出ているだろうと思いましたが、そうでもないようです。
「武蔵五日市駅」のある高台から「秋川」を望みます。越えて来た小峰峠の山並み。
「秋川街道・檜原街道」の続きを歩いて行きます。
「五日市郷土館」。
ここには、五日市の農具や民具、自然の紹介に加えて、
「五日市憲法」の草案が展示されています。
「五日市憲法」は、1881(明治14)年に、「五日市勧能学校」の教員であった仙台藩出身の千葉卓三郎によって起草されました。五日市・深沢の名主であった深沢権八がリーダとなり、「五日市学芸講談会」という学習グループが作られ、民権運動への理解を深めていったようです。そのような中で、千葉卓三郎による憲法草案も生まれたのです。1968(昭和43)年、深沢家の土蔵を調査した「東京経済大学」色川大吉ゼミによって発見されました。深沢権八はたいへんな篤学家で、一時期「五日市勧能学校」を手伝っていた利光鶴松(小田原急行鉄道創業者)によれば、「凡そ東京にて出版する新刊の書籍は、悉く之を購求して書庫に蔵し居たり」だったそうです。そのような郷土の偉人の紹介もされていました。千葉卓三郎は31歳、深沢権八は29歳の若さで亡くなっています。
「五日市郷土館」の敷地には、五日市の民家(江戸時代・文政期の築)「旧市倉家住宅」も保存されています。
「五日市郷土館」の本館や「旧市倉家住宅」の中では、雛人形の展示がされていました。
古民家の雰囲気によく似合います。
「地形と思想史」では、この続きも車で、日本共産党の山村工作隊が活動した奥多摩の小河内、さらに赤軍派が終結した大菩薩峠の「福ちゃん荘」へと進んでいくのですが、車に乗っていない私は「五日市郷土館」に寄った後は、つげ義春の足跡をたどることに切り替えました。(続く)