2024年2月3日(土)。「板橋交通公園」の続きです。再び東武東上線「大山駅」から電車に乗り、

一駅池袋寄りの「下板橋駅」で下車しました。
「国道17号(中山道)」です。
その脇から、「旧中山道」である「板橋宿不動通り商店街」が続いています。
通りに入って直ぐにある、真言宗豊山派の寺院「如意山観明寺」。明治になってから、「成田山新勝寺」の分身を勧請し、縁日には多くの人で賑わうようになったそうです。
境内には、「豊川出世稲荷堂」が祀られています。近くに加賀藩下屋敷があり、この祠は加賀藩下屋敷から移設されたものです。山門も加賀藩下屋敷から移設されました。
東京で最古という寛文元(1661)年の庚申塔。
「観明寺」の近くには、「板橋宿平尾脇本陣・豊田家屋敷跡」があります。「板橋宿」は、江戸から出て「中山道」の最初の宿場で、京都寄りから「上宿」、「仲宿」、「平尾宿」の3つに分かれています。豊田家は、「平尾宿」の名主で、「板橋宿」の脇本陣になっていました。流山で官軍に出頭した近藤勇は、「東山道総督府本陣」の置かれた板橋に護送されました。斬首されるまでの約20日間、近藤勇はここ豊田家に預けられていたといいます。
「不動通り商店街」の名前は、「観明寺」に由来しています。
やがて、道は「仲宿」に入ります。旧「中山道」と交差する道路は、明治になってから造られた「王子新道」です。
「仲宿」に入ると、真言宗智山派の寺院「成田山遍照寺」があります。江戸時代は天台宗の寺院だったそうですが、廃仏毀釈でいったん廃寺となり、明治時代に成田山新栄講の道場となり、戦後、寺院として復活しました。
「仲宿」の商店街は、そのまま「仲宿商店街」といいます。たいへん賑わっていました。
明治時代に「板橋宿」は大火があったこともあり、当時の面影は全くありません。うっかりすると見逃してしまいそうな所に、「板橋宿総本陣飯田新左衛門家」跡の碑があります。
「飯田新左衛門家」は、「仲宿」の名主であった「飯田総本家」の分家で、「板橋宿」の本陣を担っていました。
そして、こちらが「仲宿脇本陣」でもあった名主「飯田総本家」跡の碑です。官軍の本陣はこちらに置かれていたようで、近藤勇が元御陵衛士であった加納鷲雄らに正体を見破られたのは、こちらだったのかも知れません。
「本陣」近くにある真言宗豊山派の寺院「幡場山大聖寺文殊院」です。飯田家の菩提寺です。
「文殊院」の本堂。ここには、閻魔大王、脱衣婆、地獄絵図のあるお堂がありお詣りしましたが、あまりの怖さで写真には撮りませんでした。とにかく悪いことはしないようにしたいと思うばかりです。
そして、「石神井川」に架かる「板橋」。これが本当の「板橋」です。河川改修で「石神井川」の流路が変わったため、前方の橋はかつての流路に架けられたダミーの橋で、奥の橋が本当の橋になります。
「板橋」の上から眺める「石神井川」の流れ。
こちらは、現在の「中山道」である「国道17号」に架けられた「新板橋」。
「国道17号」を渡ると、「氷川神社」があります。イチョウ並木の長い参道。
大宮の「氷川神社」を分霊して創建され、「板橋宿」の鎮守でした。明治時代の大火、戦災に遭っています。
1958(昭和33)年再建の拝殿。
境内には富士塚があります。この富士塚は、境内で唯一江戸時代の痕跡を留めるものです。
富士塚の東側は、「国道17号」の拡幅で一部改変されたようです。
「板橋」を渡ると、「上宿」に入ります。ここまで来ると、人出は少なくなっている印象でした。
「中山道板橋宿上宿」の碑。交番の隣にあります。
「縁切榎」。江戸時代からの名所で、和宮降嫁の折は、わざわざこの榎の前を通らず迂回したそうです。現在は、「良縁は結んでくれて、悪縁は切ってくれる」ということで、参拝の人が絶えません。
ここから、都営地下鉄三田線に乗ります。
都営地下鉄三田線で「新板橋駅」まで来ました。こちらは、新装なったJR埼京線の「板橋駅」。
「板橋駅」の直ぐ近くに、永倉新八が建てた近藤勇と土方歳三両名の墓があります。この碑は、「近藤勇宜昌」と名前を間違えて刻んでいることが特徴です。
立派な永倉新八の墓もあります。
左から永倉新八、土方歳三、近藤勇。
近藤勇像。
「近藤勇埋葬当初の墓石」。ここは、近藤勇の刑場の近くということで選ばれたようです。なお、近藤勇の亡骸(胴体)は、処刑後すぐに掘り起こされ、生家近く三鷹の龍源寺に埋葬されました。