2020年5月17日(日)。快晴。

京王線「西調布駅」。高架化や地下化はされていませんが、駅舎は橋上駅となり、駅前広場も整備されて、以前の狭い路地に商店の並んでいた駅前風景とは様変わりです。

そして、「新選組局長 近藤勇生誕の地 上石原」という看板が。

「西調布」という駅名に変わったのが1959(昭和34)年ということなので、既に60年以上が過ぎており、この駅名にも馴染みはありますが、元々の駅名は、この辺りの地名でもある「上石原」だったのです。

「上石原」は、甲州街道沿いの布田五宿の一番西に位置する「上石原村(宿)」からきています。

今の時代の国境や国内の行政区境の感覚からは、曖昧な境界というものは許されないような気がしてしまいますが、江戸時代において、そこまでの厳格さはなかったのでしょう。飛び地や境界の入り繰りはありこちで見られますし、必ずしも土地の管理が生産力の向上(豊かさ)だけではなく、むしろ様々な負担や苦労につながっていたことがあるのではないでしょうか。甲州街道の宿場になることも、有難味はあまりなかったかも知れません。そもそも往来の自由が制限されていた時代に、今のような観光振興のような視点はないでしょう。たとえ、その要素があったとしても、東海道や中山道という他の街道と比べると甲州街道は裏道の性格が強く、甲府に拠点を構える幕府の関係者や、諏訪(高島)藩、高遠藩、飯田藩の参勤交代など、いかにも面倒そうな人たちへの対応に当たることが主な任務だとすると、気の重くなることばかりだったのではないかと思いやられます。布田五宿ということで、5つの村が順番に宿を担当したということも、嫌々やっていた感があったのではと詮索してしまいます。

それで境界が曖昧という話になりますが、「上石原村」は、本来「品川道」(京王線の南を東西に走る道)の南側、もっと多摩川に近い辺りに位置していて、甲州街道沿いは上石原村というわけではなかったようです。しかしながら、甲州街道が整備されて宿場が置かれることになり、「上石原村」の飛び地的に宿が置かれたようです。さらに、現在の「調布飛行場」を越えて北に向かい、「人見街道」近くにも「上石原村」の飛び地があり、近藤勇の実家である宮川家は、こちらの飛び地(現在の調布市野水)に所在していました。元の村の大きさだけでは、宿場としての負担に耐えられないという事情もあって、新たに開発した土地なのかも知れません。したがって、京王線「西調布駅」に降り立って、ここが近藤勇生誕の地かと思いをめぐらすというのは、半分当たっていて、半分違っているような気もします。もちろん、地縁の結びつきの中で、近藤勇と大きな関わりを持っていることは間違いありません。

 

「西調布駅」から北に向かうと、すぐに上石原の「旧甲州街道」に行き当たります。この交差点は、つげ義春の「ある無名作家」(1984年)という作品に描かれています。街並みの様相は全く変わってしまっていますが。

「旧甲州街道」沿いにある天台宗の寺院「長谷山聖天院西光寺」。室町時代の応永年間(14世紀末)創建と伝えられますが、甲州街道整備にあわせて、当地に移転してきたということです。

「西光寺」の山門。弘化4(1847)年築。

山門の横に「近藤勇像」が鎮座しています。

近藤勇率いる新選組は、伏見の戦いで官軍に敗れ、船で江戸まで敗走してきます。過激派でもある新選組を江戸払いして、官軍との交渉を進めようと目論む幕府は、甲府城を護るという大義名分を近藤勇に与え、近藤は若年寄格にまつり上げられ、大久保大和と名乗るようになります。官軍東山道軍の迫る甲府に向かうため、新選組を母体に新たに「甲陽鎮撫隊」を組織して甲州街道を西進しますが、途中この「西光寺」で休憩し、「上石原村」の鎮守である「若宮八幡神社」の方向に遥拝したとも伝えられます。既に時勢を失ってはいましたが、それでも故郷に錦を飾る形になった近藤の心境はいかばかりだったでしょう。

山門を潜ると、仁王門が建っています。この仁王門は、天文5(1740)年築ということです。

「西光寺」の境内。右が本堂、左が観音堂です。

「西光寺」を出て、「旧甲州街道」の西方向を望みます。目の前に「中央高速道」の高架があります。近藤勇はじめ「甲陽鎮撫隊」の一行も、束の間の休息の後に甲府を目指して、この道を進んで行ったのです。が、直ぐに府中で宿泊してしまったようですが。。

次に、「西調布駅」から南、元々の「上石原村」に向かいます。こちらの道幅は、以前のままになっています。

武蔵野台地の立川面から多摩川沿いの沖積低地に下って行く「立川(府中)崖線」の地形。この左側の木立が、「上石原村」の鎮守、「上石原若宮八幡神社」です。「西光寺」も元々はこの位置にあったようです。

いったん「立川(府中)崖線」の下まで降ります。その名も「宮下橋」から、崖線沿いを流れる「根掘川」を眺めます。

「上石原若宮八幡神社」は、この「立川(府中)崖線」上に建立されています。

応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としているので、「若宮八幡神社」と呼ばれます。

境内の「稲荷社」。ここもたいへん雰囲気のある神社です。

次に、近藤勇生家のある「上石原村」飛地である調布市野水周辺も訪ねてみることにします。

周辺は、戦時中に「調布飛行場」として整備され、その時まで残っていた近藤勇の生家も取り壊されてしまったので、現在は生家跡があるだけになっています。

現在、調布飛行場の周辺は、「武蔵野の森公園」、「野川公園」、「武蔵野公園」など、自然のたくさん残っているエリアになっています。「武蔵野の森公園」から「国分寺崖線」の緑を望む。

そして、「調布飛行場」。右側には「味の素スタジアム」が望めます。

「調布飛行場」の周辺に今もいくつか残る、戦時中に戦闘機を空襲から隠すために造られた「掩体壕(えんたいごう)」。

「近藤勇生家跡」近く。通りは、三鷹の牟礼、下連雀、上連雀、野崎、大沢と東西を横断してくる「人見街道」です。

そして「近藤勇生家跡」。近藤勇の実父・宮川久次郎は、この辺りの富農で、敷地内に道場を造って剣術の稽古に励んでいたと伝えられます。そこに江戸から出稽古で来ていたのが、天然理心流宗家の近藤周助で、勇は近藤周助の養子となって天然理心流を継ぐことになりました。

生家跡と「人見街道」を隔てた向かいには、近藤勇の養子・近藤勇次郎(勇の兄・宮川音五郎の次男で、勇の娘・たまと結婚した)が建てた道場「撥雲館(はつうんかん)」が残っています。

「人見街道」を大沢方向にしばらく行くと、宮川家の菩提寺である曹洞宗の寺院「大澤山龍源寺」があります。宮川音五郎・勇次郎はじめ村の人たちが、板橋の刑場で処刑された近藤勇の遺体を掘り出し、ここまで運んできて弔ったということです。

ここにも「近藤勇像」が。

「龍源寺」の本堂。

境内にひっそりと佇む近藤家の墓。

水木しげるが、1970(昭和45)年から1972(昭和47)年にかけて「ガロ」で連載した「劇画近藤勇-星をつかみそこねる男」の「ちくま文庫版(1989年)」あとがきから引用します。

「たしか昭和三十四年ごろだったか、偶然京王線の調布に住むことになり、やたらに付近の散歩をしてみた。

(略)なんでも古代人の住んでいたという穴があり、その近くに竜源寺という寺があった。そこで私は、偶然近藤勇の墓に面会したわけだ。なんだ、あの有名な近藤勇ちゃんは、こんなところで生まれたのかと、急に親しみをおぼえたわけだ。(略)とにかく、調布の芋畠を歩いていた子供が道場主の養子となり、貧乏生活のあげく食えなくなって京都に行き、偶然新選組の御大になり、歴史に名を残したものの、結局本人にとってはあまり幸福ではなかった、すなわち「星をつかみそこねた男」にすぎなかったわけだ。勇はむしろ、調布の芋畠で芋を作りながら、天寿を全うしたほうがよかったのかもしれない。その近藤勇の一生を、私なりの見方で描いたのがこの作品である」。

頻繁に「調布飛行場」に着陸する飛行機が通り過ぎます。けっこう大きな音です。

「近藤勇生家跡」近くの「野川公園」。本当に緑が美しかったです。

「30m道路(東八道路)」まで出ました。この辺りで、かつて「ゼロヨン」と呼ばれた公道レースの行われていたことを思い出しました。

京王線「東府中駅」前にて。このモニュメントは、なんと「府中市公共下水道事業完成記念」で、「下水道構造物のイメージを形にあらわしている」そうです。下水道が好きな人には、本当に共感できるモニュメントだと思います。が、一般受けするものであるかは疑問です。

本日、東京競馬場のメイン11Rは、牝馬GIの「ヴィクトリアマイル(GI)」でした。圧倒的1番人気は、一昨年の牝馬3冠に輝いた「⑫アーモンドアイ」(牝・5、C.ルメール騎手)。今春、ドバイまで遠征しましたが、結局コロナウィルスのためにレースは中止となり、輸送の負担だけかかって帰国しました。このことが気がかりというくらいでしょうか。2番人気は、昨年の「ヴィクトリアマイル」2着だった「⑨プリモシーン」(牝・5、D.レーン騎手)。前々走「東京新聞杯(GIII)」優勝は、私も現場で見届けました。3番人気は、昨年のオークス馬「①ラヴズオンリーユー」(牝・4、M.デムーロ騎手)。前走は昨年の「エリザベス女王杯(GI)」3着です。この馬もドバイの輸送だけで帰国となりました。

レースは、「⑬トロワゼトワル」(牝・5、三浦皇成騎手)がハイペースで引っ張り、「⑰コントラチェック」(牝・4、武豊騎手)や「⑱サウンドキアラ」(牝・5、松山弘平騎手)がついていきます。「⑫アーモンドアイ」はその後ろ外目を静かに追っていく感じ。最後の直線で、「⑱サウンドキアラ」が前に出ようとしますが、ノーステッキで「⑫アーモンドアイ」が余裕の発進をして、4馬身差をつけて貫録勝ち。2着に「⑱サウンドキアラ」、3着には「⑫アーモンドアイ」の後ろにつけていた「⑯ノームコア」(牝・5、横山典弘騎手)が入りました。「⑬トロワゼトワル」が残って4着、一昨年の2歳女王「⑦ダノンファンタジー」(牝・4、川田将雅騎手)が5着でした。「①ラヴズオンリーユー」は7着、「⑨プリモシーン」は8着。とにもかくにも「⑫アーモンドアイ」の強さが際立ったレースでした。