宇都宮城3
<宇都宮の歴史シリーズ 8>
なぜ歴史ある宇都宮に、歴史的建造物が残っていないのか・・・・
1867年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行いました。
その後の措置を不服とする旧幕府軍は、
1868年1月「鳥羽伏見の戦い」を皮切りに新政府軍との戊辰戦争が始まります。
1868年4月1日に、江戸の無血開城が行われました。
大鳥啓介と新撰組の土方歳三の旧幕府軍は、江戸を離れ日光に幕府再建の夢を持ち北上。
日光に立て籠もったとしても、宇都宮を拠点として新政府軍が攻めてくるのを恐れ、
土方歳三が先に宇都宮城を攻め落とすことに。
4月19日、現在のミツトヨ方面(南東)から土方歳三は宇都宮城を攻めました。
北からの守りは堀、土塁などで頑丈な宇都宮城。
江戸から攻めてくるのは、全くの「想定外」。
あっけなく、たった1日での落城。
当時の城主戸田氏は命からがら逃げ出してしまいました。
これに驚いたのは新政府軍(薩長)。
4月23日に、「六道辻の戦い」(現・宇工高そば)から一気に新政府軍は、宇都宮城を奪還に成功。
しかしこの戦いによって、宇都宮城はもとより2400件もの家屋が焼失。
死傷者は300人以上、被災者は1万1千人を超えたと言われています。
二荒山神社も燃え、宇都宮は焼け野原になってしまいました。
以前にも書かせていただきましたが、
戊辰戦争によって城下町すべて焼失したのは3つ。
会津若松、長岡、そして宇都宮。
現在宇都宮に住んでいる人で、
戊辰戦争で焼け野原になったということを知っている人はどれくらい居るのでしょうか。
戊辰戦争による被害を住民は永く語り継いできた会津と長岡とは対照的・・・・に感じます。
(つづく)
宇都宮城2
<宇都宮の歴史シリーズ 7>
関東七名城と謳われた宇都宮城には、天守閣は造られませんでした。
日光参拝に来られる将軍様の宿舎として、御本丸内には「御成御殿」が建てられました。
宇都宮城主はというと、2の丸に城主の御殿があったとか。
現在、江戸時代の宇都宮の姿は、地名や街道としてしか残っていません。
本多正純は、奥州街道を宇都宮市内を通るように変更しました。
そのため多くの旅人や参勤交代の大名などが賑わう宿場町として発展しました。
奥州街道と日光街道の分岐点の伝馬町付近は、
大名が泊まる本陣や、問屋場、旅籠などで大いに賑わったようです。
国道4号線の不動前交差点を斜め北西に折れカーサーの方に進むのが、昔の奥州街道。
そこを北に歩くと、「史跡跡」を示す看板がたくさん建っています。
宇都宮地方裁判所にぶつかり、クランク状に北上すると日光街道に繋がります。
7世紀の東山道の頃はさほど大きな街ではありませんでしたが、
鎌倉時代には宇都宮大明神(二荒山神社)の中心とした多くの寺院があった門前町、
そして江戸時代には、宇都宮城を中心とした城下町と見事に発展していった宇都宮。
そんなに歴史があるのなら、なぜ歴史的建造物が残されていないのか・・・・。
(つづく)
宇都宮城1
<宇都宮の歴史シリーズ 6>
私が宇都宮の歴史に興味を持ち始めたのは、1冊の本からでした。
- 童門 冬二
- 近江商人魂―蒲生氏郷と西野仁右衛門〈上〉
やはり商人たるもの「近江商人」の本を読まなくてはと思い、手にしたモノです。
この本には、近江商人を保護した「蒲生氏郷」という大名が登場します。
織田信長に大きな影響を受け、商人を保護育成した大名です。
日野の大名でしたが、晩年秀吉により会津若松に飛ばされました。
そこであの有名な「鶴ヶ城」を作り、見事な城下町の基本を作り上げました。
蒲生家のその後に興味を持ち調べてみると、
蒲生氏郷の子供、「蒲生秀行」が何と宇都宮城主として1598年に来ているのではないですか。
そこで改めて、地元宇都宮の歴史自体、無知だった自分に気がつきました。
その時から、宇都宮の歴史について非常に興味を持つようになりました。
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蒲生秀行は1601年に再度会津若松城主として帰ります。
その3年半の間に、父親の氏郷の手法を踏襲し、宇都宮城下町を整備しました。
また近江の国・日野の商人を連れてきて、商人の集落「日野町」を作ることに。
その後徳川家康の孫、奥平家昌が宇都宮城主に。
1616年家康が亡くなり、日光東照宮が建設されることになりました。
そして2代将軍秀忠が日光参拝で宇都宮に宿泊することに。
この頃から宇都宮の重要性が増すことになりました。
奥平家昌の子供(忠昌)が小さかったため、本多正純が城主になると、
本格的な宇都宮城の大改装、宇都宮の城下町の大改造が行われました。
今の宇都宮を設計したのは、この本多正純さん。
奥州街道を宇都宮市内を通るように改修したり、二荒山神社や釜川なども手を加え、
城下町として礎を作ってくれました。
しかし奥平家から宇都宮城主の地位を奪ったと逆恨みをした家康の長女亀姫が
「宇都宮城に釣り天井を作り、将軍の暗殺を企てている」という噂を流し、本多正純を失脚させたのです。
- 杉本 苑子
- 汚名―本多正純の悲劇
これが有名な「釣り天井」の話になったので、
実際に宇都宮城には釣り天井など無く、無実の汚名だったわけです。
その後無事に奥平忠昌が宇都宮城主として戻りましたが、
彼の死後は赤穂浪士の仇討ちのモデルになった「浄瑠璃坂の仇討ち」などがあり、
その後は戸田家が城主になるまで、頻繁に城主が変わることになりました。
- 高橋 義夫
- 浄瑠璃坂の仇討ち
(つづく)






