2011年1月24日9時53分 日刊スポーツ
「いとこい漫才」として上方お笑い界で長く活躍した漫才師・喜味こいし(きみ・こいし)さん(本名・篠原勲=しのはら・いさお)が23日、大阪市内の病院で肺がんのため亡くなった。83歳。兄で名コンビだった夢路いとしさんが03年9月に他界してからは、漫才の
ご意見番として後進の育成・指導などにあたっていた。
こいしさんは肺がん治療のため、1年ほど前から大阪市内の病院に入院していた。
兄のいとしさんが亡くなった03年以後は、演芸番組のゲストやイベント出演を重ね、
入院後も病院から仕事先に出かけた。漫才界の長老としての存在感は抜群で、NHK上方漫才
コンテストの審査員を務める(昨年3月)など、若手のお目付け役だった。
読売テレビ「上方お笑い大賞」の元プロデューサーで、親交が深い元ワッハ上方館長の
有川寛氏は、昨年7月に会ったのが最後。「その時は、お元気な様子だった」といい、
同12月初旬までは舞台出演するなど、元気に仕事をしていた。
体調が急変したのは今月20日ごろ。懸命の治療もかなわず、23日午後1時38分、息を引き取った。遺体はその後、大阪市内の自宅に運ばれたが、周辺はひっそりと静まりかえっていた。
いとしさん、こいしさんは1937年(昭12)に活動開始。旅回りの劇団に所属し、
コンビ結成以前から子役として出演。戦時中は慰問公演にも回っていたが、
終戦の45年当時は広島で新兵訓練を受けており、その際に被爆している。
戦後は漫才作家・秋田実氏とともに活動、しゃべくり漫才で人気者に。
テンポのよい掛け合い、上品な語り口は、その後の漫才に大きな影響を与えた。
「うちの妻(さい)がね」「サイを飼ってるんか?」「いや、嫁のことやがな」
「ありゃサイというよりカバや」などの名調子はオールドファンには懐かしい限り。
コンビは漫才で人気を集める一方、テレビ司会でも活躍。代表作は大阪・毎日放送制作の
「がっちり買いまショウ」(1963年12月~75年3月放送)。視聴者参加の買い物ゲームで、
いとしさんの「10万円、7万円、5万円、運命の分かれ道!」というフレーズは流行語に
なり、627回放送の長寿番組となった。50歳ごろ、ぼうこうがんを患ったが、克服していた。
◆喜味こいし
本名・篠原勲。1927年(昭2)11月5日、横浜市生まれ。一家が旅回り一座をしており、
子役を経て、40年に上方漫才の荒川芳丸に入門し、実兄の夢路いとしと「荒川芳博・芳坊」を名乗る。戦後、漫才作家の秋田実氏に師事し、いとし・こいしと改名。
50年NHKラジオ「気まぐれショーボート」で注目を集め、テレビでも多数司会を務め、
役者として活躍した。93年、漫才コンビとして初めて紫綬褒章。99年には大阪市の「市宝」
である大阪市無形文化財に指定された。代表作に「交通巡査」「わが家の湾岸戦争」など。
幼い頃に、よくTVで「がっちり買いまショウ」は、兄の夢路いとしさんの
あのフレーズがとても面白くて。漫才も好きでよく観ていました
ネタで笑いを…夢路いとし・喜味こいし師匠は芸人のかがみ
公開日: 日刊ゲンダイ
漫才コンビ「夢路いとし(右)・喜味こいし」/(C)共同通信社
「上方漫才の至宝」夢路いとし(写真右)・喜味こいし(同左)のおふたり。2003年に
兄のいとし師匠が亡くなられるまで、60年以上にわたって上方漫才を牽引してこられました。私の構成するトーク番組、バラエティー番組にも何度となくご出演いただきました。
いとし・こいし師匠が大阪市の「指定無形文化財」に指定された1999年に関西テレビで
記念番組を作ることになり、構成担当になった私は、打ち合わせでディレクターとともに
楽屋をお訪ねした時のことです。“いと・こい漫才” はある時期を境にいとし師匠が
ツッコミからボケへ、こいし師匠がボケからツッコミへ交代しています。
このことがずっと気になっていた私は「途中でボケとツッコミを交代されていますが、
何か理由があったのでしょうか?」と伺うと、いとし師匠がおもむろに「あきましてん」と
一言。すぐに意味が理解できず「あきた……といいますと?」と聞き返す私に、
「ずっとおんなじことばっかり言うてるからあきたんですわ」。「はぁ……」と驚く私に、
かぶせてこいし師匠が「それも話し合いもなんにもおまへんねん。舞台袖で出番待ってる時に、いきなり『ボケとツッコミ逆にするぞ』だけ言うて、兄貴がサッサと舞台へ出て行きますねん。代わらなしゃあないがな」とぼやくこいし師匠。その顔を見ながら「やってみたらこっち
(ボケ)の方がおもしろおましてん」と笑顔で答えるいとし師匠。ボケとツッコミを
入れ替える、それも一度の稽古もせずに。
にわかには信じられない、まさに “衝撃の告白” でした。
どうしてこんな “無謀” なことができたのか? それは個性のぶつけ合いではなく、
あくまでネタで笑いをとる漫才をされていたからだと思います。
ある時、NGK(なんばグランド花月)の楽屋で新聞の取材に答えられていたオール巨人さんが「一番すごいと思われる漫才コンビは?」という問いに「やっぱりいとし・こいし師匠
でしょう。阪神・巨人も、やすし・きよし師匠もそれぞれの個性・色で笑いをとりますけど、
いとし・こいし師匠は色がない。無色で舞台に出て行かれて、気がついたらお客さんを
いとし・こいしの色に引き込んではりますもん、これはできることじゃないです」と
おっしゃっていたのを思い出しました。
この番組がご縁で、私にとって唯一の「いと・こい漫才」を書かせていただきました。
2000年のミレニアムネタで、「2000年が来る、2000年が来る言うから、玄関から
こんにちは言うてくんのかと思たら、なんにも言わんとやってきて、ひょっとしたら来年は3000年が来るんちゃうか?」「アホなことあるかえ」というやりとりから始まる台本に、
「面白かったよ、サゲ(オチ)の言い回しだけちょっと変えさせてもらいましたんで……」
と若造の私に丁寧に説明をしてくださいました。いつお会いしても腰が低く
「僕らは、つこてもろて(仕事をもらって)なんぼやねんから、えらそうにしたらいかん」。
文字通り “芸人のかがみ” のような師匠でした。
「あきましてん」と言った喜味こいしさんですが、本当は言わされたんです
( 長女が飽き性なので、そう思わされて・・・ )
そして、急に兄の夢路いとしさんから言われてボケとツッコミを入れ替えた
喜味こいしさん死去・・・しゃべくり兄弟漫才で活躍
上方演芸界を代表した兄弟漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし」の喜味こいし(きみ・こいし、本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが23日午後1時38分、肺がんのため大阪市北区の病院で死去した。83歳だった。実兄の故・夢路いとしさんとのコンビで戦前から活躍。
絶妙な合いの手とツッコミは名人芸と言われた。2003年9月のいとしさんの死を機に
漫才を引退した後は、俳優業や自らの被爆体験を伝える講演活動などを行っていた。
こいしさんはこの日午後、大阪・北区の病院で妻・正子さん(83)、演芸家の次女・
喜味家たまごさんらにみとられ穏やかな表情で息を引き取った。
関係者によると、昨年1月に肺がんを発症し入院。抗がん剤治療を続けてきたが、
今月21日に容体が急変し、そのまま意識が戻らなかった。最後の仕事は昨年12月2日、
NHKテレビ「上方演芸ホール」の収録。病院のベッドからスタジオへと出向き、
昔の演芸について解説していた。
旅回りの芸人一家に生まれ、兄の夢路いとしさんとともに1940年、少年漫才師
「荒川芳博・芳坊」の芸名でデビュー。当時、いとしさん14歳、こいしさん12歳だった。
芸名が「いとし・こいし」となったのは48年。その間、新兵教育を受けていた広島で
被爆するなど苦労を重ねたが、兄弟が手を取り合い、いとしさんのボケにこいしさんが
鋭くツッコミを入れる絶妙な呼吸の “しゃべくり漫才” を完成させた。
常に新作ネタにこだわり続け、生みだした作品は1万を超えた。また、60年代から70年代に
かけてはテレビ番組「がっちり買いまショウ」の司会としても人気を集めた。
93年には兄弟で紫綬褒章。半世紀以上にわたって第一線で活躍したが、
そんな兄との二人三脚も03年9月25日のいとしさんの死によって “失意のゴール”。
「いとしこいしの漫才はもう、これで終わりでございます。
兄貴のおかげで漫才師としてやれてきた」と漫才との決別を宣言した。
その後はひげを伸ばした独特の風貌で、俳優としても活躍。07年公開の映画「星影のワルツ」では、79歳にして映画初主演。09年に公開された映画「ホノカアボーイ」でも、
エロ本を欲しがる日系老人役を熱演した。
その一方で、自らの被爆体験を語る講演活動にも力を入れ、04年8月に広島で開かれた
原水爆禁止世界大会では戦争反対を涙ながらに訴えていた。
▼通夜 26日午後7時
▼葬儀・告別式 27日午前11時30分から。いずれも大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115、
大阪市立葬祭場やすらぎ天空館で。喪主は長男・敏昭(としあき)氏。
◆喜味 こいし(きみ・こいし)本名・篠原勲。1927年11月5日、埼玉・川越市生まれ。
旅回り一座の家庭で育ち、幼少の頃から子役として舞台に立った。その後、上方漫才の創始者、荒川芳丸に入門し、40年に2歳上の兄、夢路いとしさんと少年漫才師としてデビュー。
戦後、漫才作家の秋田実さんと出会い、48年にコンビ名を「夢路いとし・喜味こいし」に。
天才的なツッコミを駆使し、ラジオやテレビ、舞台で活躍した。93年に兄弟で紫綬褒章。
06年にはNPO法人「上方演芸研進社mydo(まいど)」を設立し、後進の指導にも
力を尽くした。 { 以上、スポーツ報知 1月24日(月)8時0分配信 }
“いとこい”の愛称で親しまれた兄弟漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし」の喜味こいし
(本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが23日午後1時38分、肺がんのため大阪市内の病院で死去した。83歳だった。しゃべくり漫才の最高峰として活躍し、“漫才の教科書”とも呼ばれる存在だった。2003年に実兄の夢路いとしさん(享年78)が亡くなってからは一人で活動。
古典落語のように語り継がれる名作漫才を数多く残し、昭和の名漫才師が旅立った。
◇ ◇
昨年1月、体調不良のため病院で診察を受け、肺がんが発覚した。その場で本人にも病名と
病状は知らされたが、こいしさんは手術せずに入院して抗がん剤治療を受けることを選択。
しかし、今年に入ってから体調が思わしくなくなり、21日に容体が急変。
23日に妻や娘らが見守る中、眠るように静かに息を引き取った。
最後まで仕事に意欲をみせていた。肺がん発覚後も入退院を繰り返しながら仕事現場へと
足を運んだ。最後の仕事となったのは昨年12月2日に大阪・NHKホールで収録された番組
「満員御礼!寄席芸ワールド」。曲芸、マジック、落語家の余芸など、今では語る者が
少なくなった寄席芸を、こいしさんが豊富な知識で解説。数年前から担当していた番組は、
この日がくしくも最終回で、マネジャーによると「収録日は体調も悪くなく、スムーズに
収録を行っていた」という。
こいしさんは埼玉県生まれ。旅一座の家庭に育ち、幼少時から2歳上のいとしさんと
舞台に立った。37年に荒川芳丸に入門。荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始め、
48年に「夢路いとし・喜味こいし」に改名した。
45年には新兵教育を受けていた広島で被爆。77年には膀胱(ぼうこう)がんを患い、
人工膀胱で生活するなど波瀾(はらん)万丈の人生だったが、ひょうひょうとボケる
いとしさんに翻弄(ほんろう)されながらも、こいしさんが的確なツッコミを入れる
芸風で関西演芸界の重鎮となっていった。
93年には兄弟で紫綬褒章。2003年9月にいとしさんが死去して以降は、上方演芸会の
“ご意見番”としての講演や、映画「ホノカアボーイ」(09年公開)に出演するなど
存在感をみせていた。 { 以上、デイリースポーツ 1月24日(月)9時10分配信 }
こいしさんは昨年1月から大阪市北区の病院で入退院を繰り返してきた。抗がん剤による
肺がん治療を続け、昨年末にはマネジャーに「元気になったら仕事取ってな」と話していたが、21日に容体が急変。急激に血圧が下がったといい、関係者は「最期は本当に穏やかだった」と話した。夫人、女道楽家で次女の喜味家たまご(55)、マネジャーらにみとられ眠るように
息を引きとり、この日夕、遺体は市内の自宅に移された。
最後の仕事となったのは昨年12月2日に収録したNHK「上方演芸ホール―満員御礼!
寄席芸ワールド―」。ゲスト出演し落語家の林家染丸(61)とのトークで元気な姿を見せた。同8月には人間国宝の桂米朝(85)と上方演芸の殿堂入りに参加。
その際は病院から現場に向かった。
77年に膀胱(ぼうこう)がんを患って人工膀胱保有者となったが復調。だが、
03年には腸閉塞(へいそく)で手術をし、数年前には人工膀胱を取り換えた。
大好きな酒とたばこは、医師に止められても、やめることはなかった。
兄のいとしさん(享年78)とのしゃべくり漫才で一世を風びした。いとしさんが話を
繰り広げつつ放り込む「ボケ」を、こいしさんが楽々と受け止めて「ツッコミ」を入れる
スタイル。時にボケ返し、ボケとツッコミを瞬時に入れ替え、自在な呼吸はまさに名人芸。
「漫才の教科書」とも評され、中田カウス・ボタンや上岡龍太郎(68)をはじめ、
多くの芸人の手本とされた。
旅回りの一座に生まれ、いとしさんとともに子供の頃から漫才師として舞台に立った。
戦前は吉本興業に所属し、戦後は漫才の父、故秋田実に師事。無駄を省いた話芸で上方演芸界を代表するコンビとなった。故ミヤコ蝶々さんとの芝居では喜劇役者としても活躍した。
{以上、スポニチアネックス 1月24日(月)7時2分配信}
名コンビを組んだ兄の夢路いとしさんが、話を繰り広げつつ放り込む「ボケ」を、
弟の喜味こいしさんは楽々と受け止めて「ツッコミ」を入れる。時にはボケ返し、
ボケとツッコミが瞬時に入れ替わる。自在な呼吸は、まさに名人芸だった。
1950年代、兄弟は寝る間も惜しんで漫才の芸を練った。まずは台本に忠実に。
一つ一つの言葉をそしゃくし、その後に自分たちの味付けに取り掛かる。
「急がば回れ」。同世代がうけていても、いつかはちゃんと評価される時代が来ることを
見据えたような歩みをみせた。
ひょうひょうと語る兄いとしさんと、だみ声で鋭くツッコミを入れる弟こいしさんの
絶妙な間。代表作「交通巡査」「ジンギスカン料理」など、ふくよかな大阪弁を生かした
しゃべくり漫才は、市井に生きる人たちの息遣いや、日常の中の無邪気な笑いを伝えた。
簡単なようで、実は最もハイレベルな技量が要求される領域に挑んでいた。
2003年にいとしさんを失ってからの落胆は、はた目にも痛々しく、
舞台に立つ姿は寂しげだった。だが1人になっても大ベテランとして上方芸能を引っ張り、
俳優や「ご意見番」としても、大きな存在感を持ち続けた。
▼落語家桂米朝 漫才に品がありましたな。一切お客さんをいらわず(いじらず)、
呼称は常に「きみ」と「僕」。決して「おまえ」「どついたろか」といったどぎつい言葉は
使いません。こいしさんは二つ年下やが、芸歴は私より古い。昔の芸界の様子を実によう
知ってはりました。彼と古い話をしだすと、もう止まりません。ホンマに寂しい限りです。
[ 以上、同上2011年1月23日 20:41 ]
うーーーむ、何とも複雑な思いの訃報ではある。
寂しさの募る中、無事に成仏できたという安堵の念もある。
元々漫才師は、相方を亡くすと途端に気力が失せていた。
中田ラケットはそれはもう悲惨なものであった。
こいし師の場合も例外ではなく、やはり一人で立つ姿はどこかえもいわれぬ影があり、
痛々しさを感じさせた。一人ではご意見番として大御所としての風格を見せ、
殊に「賞取り漫才になるな」の訓えが印象深かった。
「夢路いとし」の死に様
夢路いとしは2003年(平成15年)9月25日午前0時35分、自然気胸に
肺炎を併発したため亡くなりました。78歳でした。
同年の8月初旬まで舞台に立っていましたが、同年8月22日に胸の痛みを訴えて、
過労と肺血腫のために神戸市内の病院に入院します。
同年9月20日に肺炎を患い、25日には親族10人以上に見守られ、
入院先の病院で静かに息を引き取りました。
「夢路いとし」の死に様の信憑性
夢路いとしの死に様に関する信憑性は病院内で亡くなっていることや
親族に見守られて亡くなっていることなどから高いでしょう。
死の床では「うわごとのように『マイクがどうのこうの』と話していたそうで、
もう一度舞台に立つことを望んでいたのでは」と妻の幸子夫人は
報道陣に対して話していたようです。
まとめ
夢路いとしの死去によって、同月29日にいとしの相方で実弟の喜味こいしは
「いとし・こいし」のコンビ解散を発表します。
解散後、こいしは2011年1月に亡くなるまで誰ともコンビは組まずに
一人での活動をつづけました。
いとし・こいしを師と仰ぐはな寛太・いま寛大はこいしから「自分が死んだら
いとし・こいしの名を襲名してもよい」と言われていましたが、
2007年にはな寛太が死去したため、襲名は幻と化しています。
「兄は最高の相方でした」/こいしさん、思い出語る
2003/09/29 17:26 四国新聞
唇をかみしめ亡くなった夢路いとしさんの思い出を語る弟の喜味こいしさん=
29日午後、大阪市北区のホテル
25日に亡くなった上方漫才界の大御所、夢路いとしさんと半世紀を超えてコンビを組んだ
弟の喜味こいしさん(75)が29日、大阪市内で記者会見し「兄貴は最高の相方でした。
上にも、ぎょうさん芸人がいるので、天国でも賞を取ってほしい」と語った。
こいしさんは「いとしこいしの漫才は終わり。兄貴のおかげでぼくは漫才ができた」と話し、
今後は対談などには出演するが、漫才の舞台には立たない意向を示した。
通夜では兄に「長いことご苦労さんやったね」と語りかけたといい、兄の死が公になった
28日は「ええ年をしたおっさんが人前で泣くのは嫌やと思い、京都のなじみの旅館で
1人で泣いていた」と明かした。
会見中も一瞬、声を詰まらせたものの、時折笑顔を見せながら、兄との思い出話を
淡々とした口調でユーモアを交えながら語り、終始気丈に振る舞った。
幼い時から、漫才を観ていましたが、中田ラケットさんも1人になり・・・
そんなことになっていたなんて知りませんでした。
兄弟2人で60年もの間、漫才をしていて相方を亡くすともう漫才はしないと思うのは、
それだけ息が合い、その人以外に漫才を組む気にもなれないほど、漫才をしていて
楽しかったんだと思いました。ご兄弟で、天国でまた漫才して楽んでいそう
ご冥福をお祈りいたします。
この1つ前のブログの感想を書きましたので、読んでいただくと嬉しいです
伊勢物語絵巻六三段( つくも髪 )
むかし、世心つける女、いかで心なさけあらむ男にあひ得てしがなと思へど、 いひいでむもたよりなさに、まことならぬ夢がたりをす。子三人を呼びて語りけり。 ふたりの子は、なさけなくいらへてやみぬ。三郎なりける子なむ、 よき御男ぞいで来むとあはするに、この女、けしきいとよし。 こと人はいとなさけなし。いかでこの在五中将にあはせてしがなと思ふ心あり。 狩し歩きけるにいきあひて、道にて馬の口をとりて、かうかうなむ思ふといひければ、 あはれがりて、来て寝にけり。 さてのち、男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、 百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ とて、いで立つけしきを見て、うばら、からたちにかかりて、家にきてうちふせり。 男、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女嘆きて寝とて、 さむしろに衣かたしき今宵もや恋しき人にあはでのみ寝む とよみけるを、男、あはれと思ひて、その夜は寝にけり、世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。 (文の現代語訳) 昔、色好みの女が、なんとかして情深い男と一緒になりたいものだと思っていたが、 言いだすきっかけがないので、作り物の夢物語をした。子どもを三人呼んでその夢の中身を 語ったのだった。(すると上の)二人の子は、そっけなく答えただけだったが、三人目の 子は、きっとよい男の人が現れるでしょうと夢説きをしたので、女は機嫌がよくなった。 (三郎には)ほかの男はまったく情愛がない、なんとかして在五中将と一緒にさせてあげたいものだと思う心があった。そこで、(業平が)狩りをしているところに行き会ったとき、 道にて馬の口を取って、(ある女が)こんなふうに(あなたを)お慕いしていますというと、(業平は)女を哀れに思って、(女の家に)やってきて、一緒に寝たのであった。 さてその後、男の姿が見えなくなったので、女は男の家に行って、その姿を垣間見たので あったが、それを男がほのかに見て、 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髪の老婆が、私のことを恋している らしいのが面影に見える(だから、その女のところにいってやろうか) 男がこういいながら出発する様子を見て、(女はうれしくなって)茨やカラタチのとげに 刺されながら、家に戻って床に臥した。男の方では、女がしたように、 忍び立ってかいま見ていると、女は嘆き寝をするとて、 むしろに衣を敷きながら、今宵も恋しいひとと一緒になれないで、 むなしく寝るのでしょうか こう(女が)読むのを聞いて、男は哀れと思って、その夜も一緒に寝てやったのであった。 世の中の例としては、自分でいとしく思う人を思い、そうでない人は思わないものだが、 この人(業平)は、いとしい人もそうでない人も、区別しない(思いやりのある) 心を持っていたのである。 (文の解説) ●世こころ:「世」は男女のなかをさす、●いかで:なんとかして、どうかして、 願望をあらわす、●あひ得てしがな:あいたいものだ、「がな」は願望をあらわす、 ●いひいでむもたよりなさに:言い出すきっかけがない、「たより」は機会、きっかけ、 ●まことならぬ夢がたりをす:本当でない、つくりものの夢の話をする、 ●なさけなくいらへて:そっけなく答えて、●三郎なりける子:三番目の男の子、 ●よき御男ぞいで来む:よい男があらわれるでしょう、●あはする:夢の話にあわせて 夢説きをする、●こと人はいとなさけなし:他の人は全く情愛がない、 ●あはせてしがな:あわせてやりたい、●狩し歩きけるに:あちこち狩りをしている ところに、狩りは鷹狩のことをさす、●かいまみけるを:「かいまみ」は垣根の隙間から ちらりとのぞき見ること、●つくも髪:「つくも」は九十九をいう、そこで「百年に一年 たらぬ」となる、つくも髪は、九九に乱れた老女の髪、●うばら、からたち:野茨と カラタチ、どちらもとげがある、●さむしろ:「むしろ」に接頭語のついたかたち、 ●けぢめ見せぬ:区別しない (絵の解説) 一枚目:女が三人の子を集めて夢物語をしているところ、 二人はばかばかしそうな顔つきで席をたつが、三人目は熱心に聞いてやっている 二枚目:鷹狩をしている業平の一行、業平の跨っている馬の口を捕えて、 一人の男が業平に語りかけている 三枚目:業平が女の家に行って、共に寝ようとする場面、 ここでは女は、白髪頭の老女として描かれている (付記) 女が思いのたけを夢にたくして語りかけた三人の子と言うのは、この女自身の子どもと 考えられる。そうだとしたらこの女は、かなり奔放な女と言えるだろう。三人の子を持つ 白髪頭の老女の身にして、なお男への思いに駆り立てられる。尋常な話ではない。 一方、業平の方は、相手の優劣に区別を設けず、だれにでも恵みをかける やさしい男として描かれている。 |
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