西洋事情を知り世界への夢膨らませる

坂本龍馬は嘉永6(1853)年3月17日、藩から剣術詮議のため15カ月間の国暇が
許され、江戸へ旅立った。龍馬19歳だった。同志の溝淵広之丞と土佐を出立し、
この時、父八平から「 修行中心得大意 」をもらい懐に入れていたといわれている。
最近、この訓戒書をみて不思議に思った。折り目がないのである。
龍馬は実際は懐中せず坂本家に置き忘れていたのだろう。実に龍馬らしい。![]()
《 修行中心得大意
一、片時も忠孝を忘れず、修行第一のこと
一、諸道具に心移り銀銭費やさずのこと
一、色情にうつり、国家の大事を忘れ心得有るまじきこと
右三ヶ条胸中に染め修行をつみ目出度帰国専一に候 以上
丑ノ三月吉日 老父
龍馬殿 》
修行とは北辰一刀流の千葉定吉道場での剣術のことで、腕をあげることを期待されていた。龍馬は流行に敏感だったのだろう。父は無駄なものに金を使わず、女性
の誘惑にも気をとられず、藩や国家のためになるような人物になれと励ました。![]()
黒船を見る
龍馬の現存する書状(原本所在不明)で、もっとも古いのが黒船来航のもので
ある。書状は父宛てで、このような内容だった。
「御状下され有難き次第に存じ奉り候。金子お送り仰せつけられ、何よりの品に
ご座候。異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と存じ候。
その節は異国の首を打ち取り、帰国仕り候。かしく」(嘉永6年9月23日付)
龍馬は父からの仕送りに感謝していた。6月、アメリカ艦隊が浦賀に来航した際、
龍馬は土佐藩臨時雇として品川海岸警備についたといわれ、そのとき黒船に遭遇したのだろう。
黒船はマシュー・ペリー提督率いる艦隊でヘンリー・アダムスが副使兼艦長を務めていた。龍馬は黒船にカルチャーショックを受け、このままでは近いうちに江戸も
戦いになるだろうと伝えた。その異人の首を取るとかなり威勢がいい内容であった。これを読み、父はさぞ満足であったに違いない。
河田小龍を訪ねて
龍馬は翌安政元(1854)年6月23日、江戸での剣術詮議を終え土佐へ帰藩することになった。帰藩すると日根野弁治から剣術の腕前を認められ、「小栗流兵法十二箇条」「同二十五箇条」各1巻を授けられた。
龍馬は江戸で遭遇した黒船が脳裏から離れない。藩内で西洋知識をもつ河田小龍を訪ねるようになった。河田は長崎に留学した経験があり、またアメリカへ漂流した
ジョン万次郎を取り調べたこともあって、詳しく西洋やアメリカの事情を教えてくれた。![]()
龍馬は幼少の頃に乙女に連れられ、廻船問屋下田屋の主人川島猪三郎から見せられた世界地図を思いだした。河田の話は耳に心地よく聞こえ、世界へ夢を膨らませた。(木村幸比古・霊山歴史館副館長)
坂本龍馬の功績が「出来過ぎている」ワケ、
ドラマでは描かれない実像とは
桑畑正十郎 キャリア・働き方新説・新発見!今こそ学ぶ「歴史・地理」
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幕末の英雄として多くのドラマや小説で描かれてきた坂本龍馬だが、
実は、その功績の多くが創作であるとの見方が強まっている
幕末のヒーローとして、数多くのドラマや小説などに描かれてきた坂本龍馬は、
日本史上の「好きな偉人ランキング」でも決まって首位を争う。老若男女を問わず
人気の高い龍馬だが、一介の脱藩浪士が激動の中で縦横無尽に活躍したというのは、あまりにも出来過ぎではなかろうか? 近年、歴史教科書では「薩長の盟約に尽力した」という程度の紹介にとどまり、幕末史研究の専門家からはその虚像と実像との乖離(かいり)も指摘されている。(ジャーナリスト 桑畑正十郎)
「薩長同盟」「大政奉還」「船中八策」
“3大功績”の虚実は吟味必要
坂本龍馬の幕末の功績と言えば、一番に「薩摩藩と長州藩の仲介役として薩長同盟の立役者となったこと」、次いで「土佐藩を動かして大政奉還を提言したこと」、さらに「明治新政府の基本となった国家構想『船中八策』を提案したこと」が有名だ。
多くのドラマや映画など、龍馬の活躍を描く上でこの三つは欠かせない。
しかし、史実を丹念に調べていくと、残念ながら大半がフィクションだったと
言わざるを得ない。
一番の功績「薩長同盟」を後回しにして、まず「船中八策」について見てみよう。これは、龍馬が土佐藩の参政(重臣)後藤象二郎に、京へ向かう船中で与えた策として知られているが、策を長岡謙吉(土佐藩出身)が書き留めたという書面は存在せず、後藤の回想などにも出てこない。以前から「後世の作り話」と指摘されてきた。
実はこのエピソードは、「新政府綱領八策」という、慶応3(1867)年11月に
龍馬自身が示した新政府設立のための政治綱領(龍馬の自筆が残る)を基に、
龍馬を “際立たせる” 意図でさかのぼって創作された逸話と判明している。![]()
< 浪速風 >激動の人生で何より代えがたかったであろう
坂本龍馬の「日本初の新婚旅行」

坂本龍馬は慶応2(1866)年、京都・伏見の寺田屋で襲撃された。
入浴中、異変に気付いたお龍が風呂を飛び出して知らせたおかげで龍馬は難を
逃れた。「難にあいし時も、この龍女がおればこそ、龍馬の命はたすかりたり」。
龍馬は姉、乙女への手紙で妻を命の恩人と書いた。
▶ 事件の際、親指などに刀傷を負った龍馬はその年の春、治療を兼ねて
お龍と鹿児島を旅した。手紙の続きに旅について「実にこの世の外かと
思われ候ほどの珍しき所なり」とつづる。
▶ 天孫降臨伝承で知られる霧島山の高千穂峰に登り、天逆鉾(あまのさかほこ)を
引き抜いたとも書き、「おおいに二人が笑いたり」と心から楽しんだことがわかる。
登山の日は新暦に直すと5月13日。龍馬は翌年、京都で暗殺された。
それだけに「日本初の新婚旅行」といわれる旅は龍馬の激動の人生で何より
代えがたいひと時だったに違いない。
NHK大河ドラマ【 龍馬伝 】にも出てきた、天逆鉾を引き抜いたのは本当だった ![]()
何事も真実を見抜く目を持たないと、騙されるので気を付けたいですね。
坂本龍馬に学ぶ「対立する者」を結びつける
絶妙なテクニック 増田賢作 キャリア・働き方リーダーは日本史に学べ
「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトの
バイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。
そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】
【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかり
やすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』
(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。
「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といった
リアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集した
ものです。
Photo: Adobe Stock
長州藩 vs 薩摩藩
坂本龍馬(1835~67年)は、幕末の志士。土佐藩(高知)の下級武士の家に生まれる。下級武士とはいえ、坂本家は豪商の分家で豊かだった。青年期は剣術に励み、
名門・江戸京橋桶町北辰一刀流千葉道場では塾頭を務めた。土佐に戻り、当時の流行であった尊王攘夷(天皇を中心として外国を打ち払う)運動に参加したものの、運動に疑問を感じたこともあり土佐藩を脱藩。幕臣の勝海舟(1823~99年)の門下生と
なり、勝の主導で設立した「神戸海軍操練所」に入所し、航海術などを学ぶ。ところが、勝の失脚とともに神戸海軍操練所が閉鎖され、薩摩藩の支援を受けて日本初の
株式会社となる「亀山社中」を長崎に設立。薩摩や長州の交易を支援することで、
薩長同盟(1866年)の締結に関わる。その後、土佐藩の支援を得て「海援隊」を設立(1867年)。土佐藩とともに平和的な新しい時代への移行を目指し、江戸幕府の自主的な政権放棄となる大政奉還(1867年)を実現する。その直後、何者かに京都・近江屋で暗殺される。現在も京都の霊山墓地に多くの幕末同志とともに葬られている。
幕末、江戸幕府に対抗していた2つの藩がありました。それは長州藩(山口)と
薩摩藩(鹿児島)です。もっとも、この2つの藩同士も、とても仲が悪かったのです。
幕末の政治の中心だった京都で、薩摩藩は会津藩とともに陰謀を企て、長州藩を京都から追放した八月十八日の政変(1863年)により、長州藩の恨みを買いました。
そして、長州藩が京都を攻めた禁門の変(1864年)で、京都の市街地に大火を
招きつつ、薩摩・会津の両藩が激戦を繰り広げ、長州藩を返り討ちにしたのです。![]()
憎んだ相手と手を結ぶ
こうした経緯があるため、とくに薩摩藩に対する長州藩の憎しみには、
激しいものがありました。一方で薩摩藩は、長州藩を京都から追い出したものの、
江戸幕府が存続する限りは日本をリードできるわけではありません。それどころか、幕府によって薩摩藩が討たれる可能性があるとさえ考えました。
そのため、一度追い落とした長州藩と手を結ぶことを考えるようになったのです。![]()
経済連携を仲介して憎しみをやわらげる
もちろん、激しく薩摩藩を憎んでいる長州藩に、「京都では悪いことをしました。
やっぱり一緒に手を結んで幕府に立ち向かいましょう」などと持ちかけたところで、すんなりと合意を得られるわけがありません。
そこで考えたのが、坂本龍馬が設立した「亀山社中」を活用した薩摩藩と長州藩の
経済連携でした。まず亀山社中は、薩摩藩経由で、長州藩に最新の武器を供与しま
した。当時、幕府の監視対象となっていた長州藩は、イギリスなど海外から軍艦や
新式銃などの最新武器を自由に購入できなかったのです。
対立するリーダーを仲介役が説得
そこに目をつけた坂本龍馬は、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛、両藩のリーダーを説得し、薩摩藩の名義でイギリスから軍艦や新式銃などを購入し、長州藩に供与することを提案したのです。
両藩のリーダーから了承を得て、後に初代総理大臣となる長州藩の伊藤博文
(1841~1909年)などが長崎に潜入し、亀山社中のメンバーのサポートを得ながら
イギリス・グラバー商会のトーマス・グラバーから最新兵器を購入します。![]()
これにより長州藩は武力を拡充することができ、日本陸軍の創始者で兵器・軍制の
近代化を目指した大村益次郎(1825~69年)の指導を受けながら、対幕府戦で
勝利を収めることができたのです。
ギブ・アンド・テイクの提案
逆に、長州藩から薩摩藩に供与されたものもあります。それは戦時における軍兵の
食糧米(兵糧米)です。薩摩藩は、京都に多くの兵士を抱える軍隊を置いており、
そのための兵糧米を必要としたのです。
坂本龍馬から長州藩に、薩摩藩への兵糧米の供与を依頼したところ快く承諾し、500俵を準備しました(薩摩藩が受けとらず、亀山社中が受けとったともいわれています)。
感情的なわだかまりを解く
これは、米の生産量が少ない薩摩藩に対して、長州藩は米の生産が盛んなことに
着目したものでした。
このように薩摩藩から長州藩には最新武器を、長州藩から薩摩藩には兵糧米を
相互に供与することにより、徐々に感情的なわだかまりは解けていきました。
こうした経緯を踏まえて、ついに薩長同盟が成立し、時代は一気に明治維新へと
向かっていくのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集した
ものです。
やっぱり、坂本龍馬が仲介役で活躍しないと、薩長同盟は成立しなかった。
だから龍馬が幕府から命を狙われたのも分かります ![]()
「龍馬が生きておったら…
毎日新聞 2025/8/15 東京朝刊642文字
坂本龍馬とお龍のブロンズ像=京都市伏見区で、花澤茂人撮影
「龍馬が生きておったらまた何とか面白いこともあったでしょうが」。
幕末に暗殺された土佐藩士、坂本龍馬の妻、楢崎龍(ならさき・りょう)を晩年に
インタビューしたのは高知出身の漢学者、川田瑞穂(みずほ)だ
▲ 西郷隆盛ら明治維新の英雄が登場する聞き書きを発表。その後も文部省維新史料
編纂(へんさん)会で龍馬暗殺の経緯などを研究した。早稲田大教授を務めた漢文の大家である ▲ 内閣書記官長起草とされる「終戦の詔書」の「川田草案」が見つかったのは45年前。「堪え難きを堪え」の表現もあり、名文家の川田が起草者という説が浮上した。国立公文書館で開催中の特別展に閣議決定された「ご署名原本」や川田草案とほぼ一致する「第一案」が展示されているが、作成過程には謎が残る ▲ 今日は80回目の「終戦の日」。維新から終戦までを上回る時が過ぎた。クーデター未遂から詔書を
録音した「玉音放送」まで「日本のいちばん長い日」を書いた作家の半藤一利さんは維新以降の日本の浮沈について「40年周期説」を唱えた▲継承すべきは日露戦争後40年の下り坂の記憶だ。攘(じょう)夷(い)から開国に転じ近代化に成功しながら「アジアの盟主」と過信して国際協調に背を向けた。満州事変以降は孤立を深め、米英との衝突コースを歩んだ▲戦後は独立後40年にわたって発展を続けたものの、バブル崩壊で局面が変わった。戦争は無論、高度成長の記憶も遠くなり「日本人ファースト」など内向きの声が強まる。龍馬の海援隊ではないが、世界とつながってこその
島国ではないか。
坂本龍馬の妻、楢崎龍さんのことは明日調べてupします ![]()
最後までお読みいただき、ありがとうございました ![]()
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