サンスポ
「カッパ」「大口」とツッコみ合った鳳啓助さんとの夫婦漫才で人気を得た
京唄子さん。離婚後も、コンビは鳳さんが亡くなる1994年まで続いた。
1998年、叶麗子、大村昆と京唄子さん(中央)
故鳳啓助さんとの夫婦漫才で親しまれ、女優でも活躍した京唄子(きょう・うたこ、本名・鵜島ウタ子=うじま・うたこ)さんが6日午前10時33分、肺炎のため
大阪市内の病院で死去した。89歳だった。大きな口がトレードマークで、啓助さんとは離婚後も息の合った漫才芸を披露。女優としても、TBS系「渡る世間は鬼ばかり」シリーズなどで存在感を見せた。近年は体調を崩し、半年前から入院していた。
通夜は7日、大阪市内で近親者のみで行われた。
最期は、最初の夫との間にもうけた長女、節子さん(67)と現在の夫で俳優、
萩清二(79)の2人で看取った。表情はやすらかで眠るようだったという。
亡くなる前日の5日には桜の話をしていたが、のどに食べ物を詰まらせて、
体調が悪化していた。
唄子さんは、2009年に腰椎を圧迫骨折し、出演予定だった舞台を降板。2度の
手術を受けた。13年に再び腰のけがで2カ月入院。退院後は自宅療養を続けてきた。
昨年9月に体調を崩して大阪市内の病院に入院。長年マネジャーを務めた井川タカ子さんによると、最近はペースト状のものを食し、話すことができない状態だったが、井川さんの言うことは理解していたという。
京都簡易保険局に勤めていた唄子さんは終戦直後の1945年、人気女優、
宮城千賀子さんの主宰劇団「なでしこ」に入り、京町歌子の芸名で活躍。
その後、女剣劇「瀬川信子劇団」で知り合った鳳啓助さんの説得で京唄子に改名し、56年に漫才コンビ、唄子・啓助を結成。「大口」「カッパ」をそれぞれの代名詞に
人気者となり、2人は結婚した。速射砲のような悪口を浴びせかける唄子さんの
「大口」は、1962年から出演したドラマ「てなもんや三度笠」で吸い込みネタに
発展。それが縁で掃除機のCMにも起用されたことも。
69年から16年間続いたフジテレビ系トーク番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」
では、一般人の熟年夫婦を招き、なれそめや性生活などを絶妙のタイミングで
笑いに包んで引き出した。苦労話を聞いた際には大粒の涙をぼろぼろ流し、
人情味あふれる一面をお茶の間に知らしめた。女優としても、NHK朝ドラマ
「おんなは度胸」やテレビ朝日系時代劇「遠山の金さん」などで存在感を発揮。
なかでも「渡鬼」シリーズで演じた岡倉長子(藤田朋子、51)の義母、
本間常子役は晩年の代表作となった。
【補足】
「渡鬼」のプロデューサー、石井ふく子氏(90)は「とても親しみやすく、
稽古場に入ってくるだけで周りをパッと明るくしてしまう方でした。
唄子さんのようなキャラクターの女優さんはあまりいません。
まだまだご活躍できたと思います。残念です」とのコメントを出した。
離婚してもコンビを続けた啓助さんが、94年8月8日に71歳で死去。
09年の腰椎骨折後は手術などで休養したが、10年10月に「渡鬼」の
最終シリーズで1年半ぶりに復帰した。
私生活では4度結婚。08年に上方演芸資料館による「上方演芸の殿堂入り」
表彰を「唄子・啓助」で受けた。「大口」で豪快に笑う姿は、もう見られない。
西川きよしさん「オーラある多才な人。
出番の直前に作り上げる夫婦漫才の凄さ」
死去した京唄子さんとの思い出を語るタレント、
西川きよしさん=7日、大阪市中央区のNHK大阪放送局
6日に肺炎のため89歳で亡くなった女優、京唄子さんについて、
タレントの西川きよしさん(70)は7日、大阪市内で報道陣の取材に応じ、
「オーラのある芸人さんでした」と、その死を悼んだ。
NHK大阪放送局の新番組「ごごナマ」に出演後、約20人の報道陣を前にした
きよしさん。唄子さんとは、漫才コンビ「やすし・きよし」を結成した当初、
演芸番組でたびたび一緒になったという。
「そら、師匠がこうもり傘のような帽子を被って楽屋に入ってこられると、
みんなが起立して迎えました。そら、オーラのある方でした」ときよしさん。
楽屋では、唄子さんの横で、相方の鳳啓助さん(故人)が、出番ギリギリまで
漫才台本を書き、唄子さんがイライラする姿をよく見かけたという。
「唄子師匠が『まだか』『あと30分しかないで』と怒ってはるし、僕らはどんな
漫才しはるんやろ、とヒヤヒヤしていました。師匠は、原稿用紙が1枚書き上がる
ごとに、それを覚えて、本番では見事に演じておられました」
唄子さんが晩年、体調を崩して療養していた際、きよしさんは見舞いの打診を
何度もしたが、家族を通じて丁重に断られたという。「そういうメリハリのきっちりされた方でした。漫才はやる、お芝居もやる、女優もやる、劇団は作られる。
本当にマルチな方でした。昭和の人がだんだんいなくなりますね」と寂しがった。
上沼恵美子 京唄子さん悼み涙「芸能界のお母さん」
上沼恵美子(61)が10日、大阪市でレギュラーのABCラジオ「上沼恵美子のこころ晴天」に生出演し、6日に亡くなった女優京唄子さん(享年89)を思い、放送中に
号泣した。家族葬と聞き、通夜に行かなかったことを「後悔してます」と語った。
上沼は最近、母を亡くしており、自らも葬儀を家族葬として、訃報を知らせな
かった。それだけに「やっぱり、違う人がくると気を使うから…。でも、新聞報道を見たら、チラホラ行ってた…。後悔してますわ」と涙声で本音を吐露した。
「京唄子さんは芸能界のお母さん、ほんま。私は1人だなと思う。1人だわ…」と
すすり泣きながら、言葉を続けたものの、その後、しばし沈黙。言葉がなかなか
出てこず「ごめんね。申し訳ない。楽しい話、せなあかんのに」と声を振り絞ると、継続は無理と判断し、スタッフに「ちょっと、ごめん。CMいって」とお願いし、
転換を要求したほどだった。
関西のしゃべくり女王が号泣し、言葉が出なくなるハプニング。
そのワケは、79年のNHK連続テレビ小説「鮎のうた」で共演した唄子さんを
「芸能界の母」とまで慕っていたからだ。上沼は「海原千里・万里」として、70年代初期に漫才師として全盛を誇り、77年に関西テレビのディレクター(当時)だった
上沼真平氏と結婚。出産を控え「芸能界引退」を公言していた。 ところが、「鮎のうた」は花登筐作品で、ヒロインが山咲千里。「千里つながりで出演の依頼をいた
だいた」ため、出演を決めた。すると、収録現場で、共演者や後輩までが
「この世界辞めたんちゃうんか? すっこんでろ」などと、いじめに遭ったという。
「この仕事終わったら、ほんまに芸能界から退くつもりやった」上沼だったが、途中から出演した唄子さんから「いや~、もう、えみちゃん! あんた、大阪の宝やで」
と言われ、仕事を継続したことを、共演者らに聞こえるように絶賛。以来、関西で
絶対的存在感を誇った唄子さんの鶴の一声で、いじめはピタリととまったことが
あった。後に、唄子さんから「あんたは大阪の宝や。よう辞めるなんか、言うたな! 旦那さんも業界やろ。大阪の宝を自分の物だけにするやなんて! 旦那さんにも
言うたったらからな」と言われたといい、確認すると、唄子さんは、上沼の夫にも
芸能界引退を撤回するように迫っていたことも分かった。「だから、私にとっては
好き…何というのか、好きは軽い。重要な人。唄子さんがあのとき、ああ言って
くれなかったら、今ごろ、普通のきれいなおばちゃんになってた」
芸能界の恩人であり、母が唄子さん。上沼は「せやから私、びっくりするほど
ショックなんです。京唄子さんは大阪のシンボル。通天閣みたいなもん。
お別れ会は絶対、やってほしい。発起人になってもいいから…」と、
ここでも涙で声を詰まらせながら訴えた。
上沼は昨年、母を亡くし、20年来付き添ってきた全幅の信頼を置く
マネジャーも病気退職。そこに芸能界の母を失い、相当な衝撃を受けている。
みんなから、お見舞いに伺いたいと言われても、弱っている姿を
見せたくないと思って丁寧に断っていたんですね。
お通夜も、家族葬ということで、気をつかって行かなかったのは分かります。
この時のことを話している時に、急に泣き出したり、声が出なかったり・・・etc。
大変だったと思いまが、今も番組を観ていると相変わらずやられているのが
上沼さんの周りの人が亡くなったり、病気で退職したり大変でしたね。
京唄子さんとのTV共演も観ていました。本当に優しい人で、お洒落で良い人でした。
負けないで、これからも頑張って下さい
京唄子の晩年。「爆報!THE フライデー」で娘・鵜島節子が告白。腰の激痛と車椅子と手術・金具で骨折(動画・画像)
今年2017年の4月6日に、89歳で亡くなった女優の京唄子さん。
「渡る世間」などで有名な方ですが、それ以前に出演した名作は数知れず、
昭和の映画を愛した多くのファンが悲しみに暮れました。
そんな京唄子さんですが、亡くなる直前の晩年について、
娘の節子さんが番組「爆報!THE フライデー」にて語りました。
ずっとファンが知りたかった裏側ということで、
大変大きな反響があったそうです。
今年4月に肺炎のため亡くなった漫才コンビ「唄子・啓助」で人気だった女優・京唄子さん(享年89)の「謎の晩年」を実の娘・鵜島節子さんが
22日放送のTBS系「爆報!THE フライデー」(金曜・後7時)で
明かした。引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170922-00000133-sph-ent
かなり過酷な晩年に、ツイッターなどネット上で、
京唄子さんに対する様々な感傷的な声が溢れてます。
どんなに辛くても仕事に没頭した、尊敬するべき晩年だったというのは、
昭和の女王として、さすがとしか言いようがないです。
京唄子の晩年。「爆報!THE フライデー」で
娘・鵜島節子が告白
京唄子さんの娘の鵜島節子さんから語られる、
生々しい晩年に、多くの視聴者が涙を流しました。
番組では共演者の方々も感動の声をあげ、昭和を代表する
大女優への尊敬の念は、改めて大きくしました。
もともと、京唄子さんは2008年に舞台稽古で腰を痛めていたそうで、そこから、
体に鞭を打って舞台に励んでいたことが、のちの病状の悪化につながったそうです。
京さんは08年、舞台稽古中に腰に激痛が走り、腰椎圧迫骨折の診断を
受け、車いす生活に。復活への強い思いから1年後、名作ドラマ「渡る
世間は鬼ばかり」で女優復帰を果たした。しかし、腰を万全にしたいが
ために全国の病院を行脚。ある病院で「腰椎インストゥルメーション
手術」という成功率30%の難手術を受け、成功した。引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170922-00000133-sph-ent
腰を痛めた後は、車椅子で生活を送りながらも、
渡る世間で女優復帰を果たすというガッツ・・・。
腰は常に痛み、痛みをこらえて、現場では堂々と振舞っていたそうです。
それでも、全国の病院を回って、腰をよくするアテを探していたそうです。
やっと見つけた、「腰インストゥルメーション手術」という、
成功率30%の難しい手術を成功させ、また、女優として再発しようとしてました。
しかし、唄子さんに悲劇が起きたのはその後だったそうです。
ギリギリまで現場にしがみつく女優根性とは裏腹に、
体はいうことを聞かなかったそうです。
京唄子の晩年は腰の激痛と車椅子と手術・金具で骨折
大きな手術を成功させた京唄子さんですが、その手術で体に入れていた
金具の重みに骨が耐えられずに、腰椎を粉砕骨折させてしまったそうです。
その時に京唄子さんは医者に、「二度と歩くことはできない」と告げられた
そうです。車椅子生活からの必死のリハビリで現場復帰。
さらには難しい手術を成功させた矢先です・・・。
喜劇と悲劇が交互に舞う、ジョットコースターのような晩年ですね・・・。
しかし、女優復帰も見えてきた矢先に手術で入れた金具の重みに骨が耐え切れず、腰椎を粉砕骨折。医師から「2度と歩くことはできない」という診断を受け、寝たきり生活になってしまった。
「手術はしない方がいいと言ったのに、本人が『やる』と言って…」と節子さん。その後は24時間介護が必要な寝たきり生活になってしまった。
女優としてのプライドから病床の写真などは一切、
撮らせなかったという。
「だんだん、やせてきて。オムツを代えたり」と振り返った節子さん。6年に渡る闘病の末、京さんは今年4月に亡くなった。引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170922-00000133-sph-ent
骨折した後の京唄子さんは寝たきりの生活になってしまったそうです。
女優としての復帰が絶望的になってしまったので、
京唄子さんの最後を早めたのでしょうか?
もともと娘さんは手術自体に反対だったそうですが、
京唄子さんは現場に戻れるわずかな可能性に賭けてみたかったのです。
6年の闘病生活の中でも、女優としてのプライドからか、
写真は一切撮らせなかったそうです。
最後の最後まで女優であり続けた、偉大という言葉では足りなぐらいの方です。
高倉健さんの晩年も感動的だったと言われてますが、
昭和を生きた方の方が強い方が多いと思うのは気のせいでしょうか?
今後、京唄子さんや健さんのような演者は、
二度と現れないと、勝手に思ってしまう次第です。
お仕事を長く続けたい理由で、娘さんのアドバイスを聞かずに無理をして、
医者からもう二度と歩けないと言われた時は、凄くショックだったでしょう
もう少し長生きをして、お仕事頑張ってほしかったです。
でも最期は、最愛の夫と娘さんに看取ってもらい、眠るように亡くなったと
占い師の母と同じ89歳で亡くなり、2人共もっと長生きをしてほしかったです。
もっと、みんなに元気を与えたり、いろんなことを聞きたかったです
天国で、みんなと楽しく漫才などをして盛り上がっていますか?
嫌な事や辛い事がなく、みんなと一緒に気楽にすごして下さいね
ご冥福をお祈りいたします。
いつも、ブログを書いている時に邪魔をしてきて迷惑。思考低下させないで
人に自分の考えを言わさないで。吸い上げない、言ってこないで
必要以上に買い物をさせないで。投げ銭禁止
間違った話をリークしないで
調子つきすぎ、深夜に連絡してこないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました