離婚しても夫婦漫才を続けた「唄子・啓助」 | poohta8のブログ

poohta8のブログ

ブログの説明を入力します。

「世にも汚い男」「才能があって頭がよかった」

2人が遺した言葉でみる「本当の関係」

配信  デイリー新潮

 

1976年12月の鳳啓助(左)と京唄子。

「唄子・啓助のおもろい夫婦」記念番組を収録した際の一コマ

 

 京唄子と鳳啓助の「唄子・啓助」といえば、昭和の時代に絶大な人気を誇った

夫婦漫才コンビだ。昭和31年のコンビ結成後に結婚した2人は、昭和40年の離婚を

経てもコンビでの活動を継続。しかも、昭和44年にスタートした視聴者参加型の

トーク番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」(フジテレビ系)を、なんと16年の長寿

番組に育て上げている。仕事を続けるための割り切った関係ではあったものの、

2人が語った言葉には深い絆と互いへの思いがにじんでいた。

元夫婦としても支え合う関係になった理由には、啓助の特異なキャラクターが

あったようだ。(「新潮45」2006年9月号特集「昭和&平成 芸能史『女と男』

13の修羅場」掲載記事をもとに再構成しました。文中敬称略 )  

 

***

訃報を聞いて泣き崩れた唄子

 リズミカルな掛け合い、ナンセンスなぼけぶりで上方芸能界屈指の人気を築いた

夫婦漫才の鳳啓助が逝ったとき、長年相方を務めた京唄子は、ある雑誌の取材に

応じ、いち男性としての啓助像をこう回想している。 「やさしいんですよ。

女性をその気にさせるのが上手で。でも夫婦でいたら、気の休まることがない。

いつもちょろちょろして、(ほかの女性に)コナかけてますからね」  

私生活では、啓助の2番目の妻だった。しかし、夫婦関係を解消してからもなお、

浮き沈みの激しい芸の世界で苦楽をともにしてきた彼女の存在は、一種特別だった。

互いに役者あがり、妙な符丁か、どちらも4度の結婚を経験する。

ただ、ふたりとも「あ・うん」の脈に通じた芸の相方は、生涯ひとりだけだった。 

啓助「いよいよ粉末でんな」 唄子「なんや、それ」 啓助「いいそこ間違い。

年末でした」 唄子「お前、脳いかれとんのとちゃうか」 啓助「オー・ノー」

 

啓助が世を去る8カ月前、平成5年暮れに2人は16年ぶりに漫才コンビを復活させて

いた。だが、年明け早々に体調を崩した啓助は、間もなく末期リンパ腺癌の宣告を

受ける。そして平成6年8月8日、71歳の彼は最後の妻に看取られて、静岡県下の

病院で眠るように息を引きとった。大阪での公演中に訃報を聞いた京唄子は、

舞台を降りて報道陣に囲まれると、人目もはばからず泣き崩れたという。

啓助の最初の妻は漫談家

 大正12年に大阪の天王寺で、非嫡出子として生まれた啓助の本名は、小田啓三。

父は三味線問屋の主人で、母は弟子入りしていた女浄瑠璃師だった。  

2歳で父と死別した啓助は、母の結婚により、3歳のときに山口県下で田舎芝居一座を率いていた祖父のもとへ預けられる。転校続きで学校にはほとんど通わず、一座の旅暮らしのなかで育つ。役がつかない時期には、呉服屋や洗濯屋へ奉公にも上がった。 祖父と死別し、頼った母の家庭にも馴染めず、16で大阪に流れてきた彼が、

漫談家の吾妻ひな子と所帯を持ったのは20歳のころ。一女をもうけたその生活は、

妻のハワイ巡業中に精を出した浮気がもとで、6年ほどで破局した。

妻のシャレを真に受けて口説いた27人

 啓助が、「アサヒ芸能」平成3年7月18日号で語った「おんなと自分史」である。 「留守中に、自分がどれだけモテるか試してみたらエエワ」という妻の言葉に従い、出航を見送った啓助は、ファンや仕事場の女性を端からくどいた。 「結局、3カ月で27人とデキた」彼は、相方の評を逐一日記にまとめ、帰国した妻に丁寧に報告したという。これが彼女の逆鱗に触れ、「シャレでいうてんのを、本気にするやつがどこにおる!」と家を追い出されるのである。せっせとくどき落としたその27人のなかに、当時、啓助が役者兼座付き作家として活躍していた「瀬川信子劇団」の人妻女優・

京唄子がいた。劇団には俳優であった彼女の夫もいた。「そのころボクは台本も書いててね。夜中、舞台の上に小机置いて裸電球の下で原稿書いていると、コトコト足音がする。深夜に唄子がとっくり持って出かけようとしてるんですよ。(略)旦那は、普段はいい人なんやけど酒乱だった。酒買って来いいうて殴ったり蹴ったりすんですワ」そんな彼女に同情し、一緒に酒屋を探し、相談に乗り「ゴタゴタしてるうちに

デキてしまった」と言う。やがて事情が座長に知れ、啓助が一座を去ることになる。

唄子が抱いた第一印象は「世にも汚い男」

 当初の芸名を京町歌子といった京唄子は、京都の生まれで、父は「東西屋」

(ちんどん屋)の親方だった。一時は地元の大手製作所、簡易保険局に勤めた彼女

だが、戦時中に慰問演劇に参加したことをきっかけに、戦後一転、劇団界に身を

投じた。そこで知り合った20歳以上年上の夫との間に一女をもうけ、夫婦で小劇団を転々とする生活のなかで、啓助と知り合うのである。「初めて会ったのは昭和27年

ごろ。世にも汚い男でしたわ。ヒロポン打って、髪はボサボサで、いいかげんな人。ところがいろいろあって……」とは、啓助の死の直後、彼女が「週刊新潮」の

追悼記事で述べた飾り気のない印象だった。妻と別れ、「瀬川信子劇団」を退いた

啓助は、宿無し状態で新劇団「人間座」を興す。ほどなくそこに、「旦那と別れて

きたから、面倒見てちょうだい」と、唄子がふらりとやってくる。  

新劇団に唄子が飛び込み、かたや、彼女が母親と住んでいた京都の家に啓助が転がり込み、妙な案配で互いの足下が固まり、新しい夫婦関係と二人三脚の仕事が船出ている。だが、芝居小屋を支えていた “娯楽に飢えた人々” の足が、ストリップ劇場に

吸い込まれる逆風の時代だった。3年ほどのち、啓助もついに人間座の旗を

降ろさざるをえなくなった。そうして打った次の手が、夫婦漫才だったのだ。

「唄子は才能があって頭がよかった」

 もっともほかの劇団からは、ふたりを役者として迎え入れたいという申し出も

あった。「そやのに啓ちゃんが “唄子、漫才をやって3年辛抱してくれ。そしたら、

もっと大きい劇場で、いまより大きい女優にしたる…” というて転向しましたんや。最初は舞台に出るのがいやで、ワアワア泣きましたわ」(「週刊平凡」昭和51年2月26日号) 「京唄子」は、このときに啓助が付けた芸名だ。軽いコントから入った

唄・啓が、漫才コンビとして本格デビューしたのは、昭和31年の春。  

前出「アサヒ芸能」にある啓助の唄子評である。「才能があって頭がよかった。

漫才の台本を舞台に出る30分前に書いても、ちゃんと覚えてこなしましたからね。

唄子と一緒でなければ、あんな漫才できなかったやろうな」 「大口」「カッパ」と

相手をこきおろしつつも嫌みのない掛け合いに客が笑い転げ、活躍の場はテレビ、

ラジオへと広がっていく。とりわけ、昭和44年から始まったテレビ番組

「唄子・啓助のおもろい夫婦」での人間臭い司会ぶりは、視聴者の共感を呼んだ。「おもろい夫婦」は、放送16年にも及ぶ長寿番組となった。

ついに別離もコンビ解消は回避

 しかし順調な仕事の裏で、夫婦関係は波乱続きだった。一向にやむ気配のない啓助の浮気を黙認し、芸のためにふたりの子どもを堕ろしてきた唄子だったが、結婚11年目の昭和38年、ついに別離に踏み切っている。 引き金は、啓助が入れ込んだ女性の

妊娠だった。相手は、唄子の後輩にあたる若手女優で、やがて彼女が啓助の3人目の

妻となる。「啓ちゃんに子どもができたと、弟子の口から聞いたときは、これで

みんなおしまいやと思いましたね」(「女性セブン」昭和51年6月9日号・桂三枝との対談)と、のちに唄子は涙ながらに告白している。しかし関係者の説得もあり、

ふたりは崖っぷちでコンビ解消を踏みとどまるのだ。同じ対談で唄子はこう続ける。 「急に相手変えても、うまくいきませんよ。私が他の人と組んでもだめ、啓ちゃんが他の女性と組んでもだめですね」 啓助もそれを認めつつ、一切を割り切った心の

うちを、「結局、仕事に対してガメツイから、としかいいようがおまへんな……」

(「週刊平凡」昭和43年8月29日号)とやや自嘲気味に表現している。

「負けんなよ!」という温かい声援

「エロガッパ」を自称した啓助の真骨頂は、自らが失意の底に突き落とした元妻に

すら「ほんとうに憎めん人やからね……」と言わせる、邪気のない愛嬌と優しさ

だろう。荒れた生活がたたり、番組収録中に骨盤骨折して入院した唄子を

しばしば見舞い、ときには泊まり込んで慰めたのもまた、浮気の張本人だった。

彼女の3度目の結婚に際しては、立会人を務め、手一杯の祝福を送った。

夫婦別れから7年ほどのち、昭和45年には「唄啓劇団」を旗揚げし、かつての

約束通り、彼女を看板女優に押し出していくのである。2年近く伏せていた

夫婦別れの事実を新聞にスッパ抜かれ、それをファンに告げた場面というのが、

実に「おもろい夫婦」らしかった。昭和40年秋、大阪の日立ホール(当時)である。「別れた夫婦の漫才なんか見たない言うたらやめます」 会場から返ってきたのは、「負けんなよ!」という温かい声援であった。

 

駒村吉重(こまむら・きちえ) 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・

執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』

(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。 デイリー新潮編集部

 

 

ある占い師さんに占ってもらうのに、占いよりも話(愚痴や悪口)の方が多く、

相手をこきおろしていたとブログに書かれていました。その後、人気占い師を

引退し、大阪のタワーマンションから淡路島へ引っ越しました 物申す パンチ!パンチ!パンチ! 

 

 

大鳥圭介 と鳳啓助      2012年12月18日 山と蟻の間より

「おおとりけいすけ」と言うと、幕末明治に関心のない一昔前の方は、

「ポテチン」というギャグで有名な京唄子とコンビを組んでいた鳳啓助を挙げます。

20年近く前にお亡くなりの方ですので、すでにこの漫才師鳳啓助も

ご存知ではない方も多いかと思います。

鳳啓助、本名小田啓三。1923年生、1994年没。

大阪出身の俳優、漫才師、脚本家です。
この鳳啓助が髣髴されやすい大鳥圭介ですが、その芸名の由来が、

大鳥圭介そのものであったことは、あまり知られていません。
この経緯に関連した新聞記事をご紹介します。

● 読売新聞 昭和54年4月14日夕刊

「劇団結成の動機?そりゃ好きな軽演劇をしたかったよってですよ」
唄子・啓助の漫才に親しんできたから、寄席芸人が一念発起して

劇団結成した―くらいに思っていたら、これが違った。
母が浄瑠璃好き、祖父が劇団を結成して旅回りするほどの芝居好きという環境に

育ち、幼時から山口県の祖父の劇団に子役で出た。

十七歳で帰阪し、二十三歳で鳳啓助劇団を設立。宮城千賀子劇団に京歌子で出ていた唄子と結婚 (十六年年前に離婚) ―と聞くと、寧ろ役者が本業だったのだ。
「十年前は商店街の売出しがあると聞くと、飛んで行きましたね。一枚でも券を

買うてもらおう思うて。このごろでは電話で百枚、二百枚と注文がきます」

啓助は舞台が受ける理由をこう分析する。かつて森川信劇団が上演していたような

"まじめな軽演劇" が今はない。これを目ざし、その場だけの屈託のない

笑いを盛った肩の凝らない "底辺の芝居" に仕上げたためではないか―。
そのために、まず役者を喜ばさねば、という論法だ。


「ぼくの芝居作りは、まず装置を考える。それから役者さんの割り振り。最期に

物語を組み立てていく。だから唄啓劇団に出た役者さんは、みんな喜んでくれます。必ず為 (し) 所を作るからね。だって、みんなが楽しみを分かち合わないと、ね」

幕末に榎本武揚と函館の五稜郭にたてこもった大鳥圭介に心酔していて、

芸名もここから。「彼はやるだけのことは十分したから降参してもいい、死ぬことはないといって、維新政府でも要職につきました。あの生き方がすきなんですねェ。

ぼくはいつまでもみんなと生きていたい」
唄啓劇団が根強い人気を持ち続けているもう一つのわけは、座長・啓助の暖かい

人柄と、したたかな生命力が舞台ににじみ出ているから―なのかもしれない。

芝居好きというのは大鳥圭介も鳳啓助も同様でした。

後者はそれを芸に高め漫才師として大成しました。鳳啓助は大鳥圭介の芸人魂に

共通するものを感じたのかと思っていましたが。負けても死なずに生き残り

後の世に尽くした生き方が好きということでした。

もうひとつ。

● 神戸新聞 昭和59年8月10日の「正平調」

赤穂上郡郡での出来事。役場を訪れた若い記者が尋ねた。
「この町の有名人を教えてください」

「オオトリケイスケですね」と町職員が答えた。
記者「すると京唄子さんも…」
職員「?」

彼(町職員)が誇らしげにあげたのは、榎本武揚らと函館・五稜郭で官軍に抵抗しながら、明治政府で枢密顧問官まで昇進した異色の政治家大鳥圭介のことである。「漫才の鳳啓助と間違うとは、ヤングの歴史音痴にも程がある」と一つ話になっている。
しかし、二人のオオトリが太い糸で結ばれていることはあまり知られていない。

旅回り一座で育った小田啓三少年が、皿洗いや新聞配達で暮らしを支え、やっと

舞台に上がれた時、真剣に芸名を考えた。そこで心に響いたのが大鳥圭介だった。

名優・鳳啓助はこうして生まれた。

「大鳥圭介の生き方が好きなんです」と鳳(啓助)さんは言っていた。

変節とか転向とかではない。「やることは十分したから、降参してもいい、

死ぬことはない―この考えにポテチンと参ってしまった」のである。

素直な気持ちに裏打ちされた生命力の強さに感動したのだった。

唄子さんとの絶妙の掛け合いや「おもろい夫婦」の芸術的ともいえる司会に、

そんな哲学がにじんでいた。本紙の随想にもこんな詩を綴ってくれた。
「もつれあい、化かしあい、許し合う狐と狸。夫婦、おもしろきかな、

この長き道連れに幸せあれ」

がんで逝く直前、鳳さんは「蛍の光」を歌っていたという。

出会った無数のカップルに別れを告げていたのか。

励まされた日本中の夫婦が、続いて「蛍の光」を輪唱する番だ。

「ヤングの歴史音痴にも程がある」との言葉に、昭和の世からの時の流れを感じます。この記事は1984年。長生きの方なら、日清公使時代「ヨッポド偉い者」と謳われた大鳥圭介そのものを、同時代の方としてご存じである方がまだおられた頃でした。

「死ぬことはない」と言ったとされていますが大鳥本人は「幡然、衆に代わって

茲(この)躬(み)を殺す」と死ぬ覚悟はしていました。ただ、「なあに死にやしない」と衆に対してはうそぶいていた。その点が仰ぎ見るところです。

大鳥が安藤太郎など多くの人に伝えた「いつも負けてばかり」ということも、関西人が美徳とする謙遜と自虐とユーモア故のことでしょう。しかし実際は勝率は五分五分以上、連勝している事も多かった。大鳥は同時代の新聞や錦絵などでは高名な将としてもてはやされていました。だからこそ、本人の口から、苦労ばかりして負けて

ばっかり、ということを聞かされると、感じ入って印象に深く残ってしまうもの

だったでしょう。それゆえに、現在になって戦下手という悪名がフィクションで

強調されるようになってしまった。このあたり、臆面もなく自分の自慢話を強調し、結果、戦の天才として名前の残った板垣退助などとは対照的な感じがします。

大鳥の謙遜と諧謔は、いつの時代にも通じるものではないかと思います。

大鳥は事実を冷静に見極め、世に役立つものを提供する能力がある方ですが。

一方で、南柯紀行や各漫談のタメやオチにあふれるユーモアから見ても、

漫才師としての才能もあった方ではないかと思います。

大鳥圭介と鳳啓助。この二人が同じ世に生きていれば、笑いの絶えない

善い付き合いができたことでしょう。
今後、「おおとりけいすけ」という名を耳にして「なんやポテチンか!」と

返す方がおられましたら、「その漫才師が尊敬して名前をあやかったという

偉人の大鳥圭介のことや!」と、ぜひ説明して差し上げて下さい。

ラベル:大鳥圭介

 

 

静岡・伊豆長岡に駆け付け、悲しみの対面をした。

日刊スポーツ:1994年9月10日付

 

 午後7時45分、京は、大阪から3時間余りかけて、遺体が安置されている

伊豆長岡の本円寺に駆け付けた。色の濃い眼鏡で泣きはらした目を隠していた。

家族への弔問を終えた後、時に大泣きしながら、名コンビの死を悲しんだ。

「一緒にいたときは食べられないこともあったけど、思い出すのはいいことばかり。元気でいてくれたら良かったのに。やっぱり早かった」。

 

 大阪・中座での公演はこの日が唯一の1日1回公演日。「だからこうして

来られたんです。私に会いたかったんかなあ。今の奥さんには悪いけど」。

しかし、こう言いながらも、弔問では、ハマ子夫人や前の夫人の娘さんらに

「ほんとうによくやってくれたね」と抱きついて、お礼を言った。これ以上はない

名コンビの死に、京は「もう一切、漫才はやりません」と、封印を誓った。

京は昼間も泣いた。終演間際だった。笑いを交えてファンにあいさつしていた京が、同じ舞台に出演中の鳳さんの実弟志織満助さんを紹介した後、「啓助といえば……」と突然、こらえ切れなくなった。「昨晩10時30分ごろ亡くなりました」。

ふ報をまだ知らなかったファンからどよめきが漏れ、平静を装っていた京は

この時初めて舞台で泣いた。

舞台終了後の会見では「がんと聞いたときから覚悟はしていました」

切り出すと涙が止まらなくなった。涙は止めどもなく流れ、言葉を失った。

手術を拒否、きれいな顔のままで死んでいった芸人らしい心根にふれ、

「えぐり取られた啓助の顔は見たくありません」と声を震わせた。

 

 7月中旬、鳳さんから病状を心配している京の元へファクスがあった。

-ワシは刻一刻と元気になっている。もう一度、打ち上げ花火を上げたる-。

 「もう恨みごとを言わない啓助になりました」と言うと京は再び言葉につまった。二人は昨年暮れ、テレビ番組で16年ぶりに “唄啓漫才” を復活させた。

「毎日やっているみたいや」とブランクを感じさせない息の良さだった。

 

 結婚、そして離婚。いろいろあった。「でも啓助がいたからこそ、今の私がある。浮気でいろいろ泣かされましたけど、私にとって偉大なるパートナーです。

よく頑張ったね。安らかになれて良かったね。私を見守ってね」。

それは旅立った鳳さんへの何よりの手向けだった。

年齢など表記は当時のもの

 

 

私、この記事を読むまで、鳳という漢字は堺市の鳳と関係しているのかと思って

いました。鳳にある神社は、大鳥神社と書くのを不思議だと思っていました。

大鳥大社は日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りする1000年以上の歴史が

ある神社です。( 調べました )

 

京唄子・鳳啓助さんの夫婦漫才は、小さい頃から、よくTVで観ていました。

漫才で、よく別れた夫や浮気の話などで大盛り上がりで楽しかったですが、

この2人には、夫婦よりも漫才師としてのコンビの方が合っていたんですね。

女の幸せよりも仕事を選んで、子供を降ろす決断をしたのは辛かったと思います ショボーン

でも、お互い良い人とめぐり逢えて、結婚をして幸せで良かったです。

お互いに相手の良いところを知っていて、その才能を引き出し、

上手く漫才に取り入れて京唄子・鳳啓助の漫才が出来たんですね 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

 

占い師の母からいろいろ聞いていましたが、この事を関係していました プンプン おばあちゃん 

 

最後の最期まで啓助さんは唄子さんを気遣い、自分の本音を伝えていたんですね。

心配しないように。車で静岡まで行き、本当に啓助さんに会えて良かった。

お互いに心残りがないようにしたかった。亡くなる前、苦しまずに眠るように亡く

なられたことが良かったですね。苦しむのは見たくないので お願い おばあちゃん 虹 パンチ!パンチ! 星

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

純ちゃんに嫌な事をしてこないで! 咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、

体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、

体などを痛くしない。 トイレ関係も。脅さないで!  プンプン 爆弾

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト! プンプン

その技術を使わないで!

 

TV等の撮影でスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで ムキー パンチ!

束縛、嫉妬や執着、妬み、依存を止めて、人に嫌な事をしてこないで パンチ!パンチ!

人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこない。トイレ等禁止 プンプンパンチ!パンチ!

思考低下、頭を空っぽにしないで!仕事の邪魔や記憶障害にしない。 目の錯覚、

老眼近視、他人に言われたことを人に言わさない。心の中に持って来ない ムキー爆弾パンチ!

ブログを書いている時邪魔しない!自分で考えて書いて。深夜に連絡してこないパンチ!パンチ!

負けず嫌いも程々に高圧的な態度禁止。口臭も。咳込まさない。毒舌禁止、

散財させないで、調子づかないで、無理強いしないで プンプン パンチ!パンチ!

乗り物関係を運転時は邪魔をしない。中枢神経を触って来ない。頭を重くしないで!

人の感情やパワーを抑えない、唇を痺れさせない。人をコントロールしないで パンチ!

マウントを取って来ない、過保護にしない! 頬を痛くしないで!あの母親のパワーが

胃の付に感じて、あの子が後ろに憑き、あの三女が遠隔でコントロールしてくるの

止めて!あの親子、両依存水晶を使って人を脅さない。個人情報保護法、

プライバシー侵害しない! 日本には言論や表現の自由がある ムキーパンチ!パンチ!パンチ! 

その力、仕事以外に使わないで人の為に使って、決して悪いように使わないで。パンチ!パンチ!

 

全責任は、お母さん達に取ってもらう。 もちろん本人にも取ってもらう!

あの長男、人のPCやスマホに侵入してきて、ハッカーのようにしてこないで パンチ!パンチ!パンチ!むかっ

長女のパワーを使わない! 上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないでムキー爆弾パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート