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 広島東洋カープの元エースで、野球解説者の北別府学氏さんが16日午後0時33分、広島市内の病院で死去した。65歳。16日に所属事務所のホリプロが発表した。

北別府さんは、2019年11月、成人T細胞白血病(ATL)を発症し、2020年1月、病名を公表。同年5月に骨髄移植手術を受け、その後、治療に専念し、2021年3月にはテレビ出演で復帰をたすものの、尿毒症、敗血症などを発症し、入退院を繰り返していた。今年春に移植片対宿主病(GVHD)で入院。懸命な治療を続けてきたが、きょう

6月16日午後0時33分、広島市内の病院で家族が見守る中、静かに息を引き取った。

 

 北別府さんは、1957年7月12日生まれ、鹿児島県出身。1975年にドラフト1位で

広島東洋カープに入団。3年目に10勝を挙げると翌年以降11年連続二桁勝利。

1982年には20勝し最多勝と沢村賞を獲得。優れたコントロールから「精密機械」の

異名を取り、カープのエースとして活躍した。1994年シーズンをもって現役を引退。

 プロ通算成績は213勝143敗5S、防御率3.67。名球会入りした。

最多勝2回、最優秀防御率、シーズンMVP、沢村賞2回、ベストナイン2回、

野球殿堂・競技者表彰など受賞多数。引退後は広島ホームテレビ・テレビ朝日で

野球解説者として活動。2001~04年までは広島東洋カープの投手コーチを務める。

退団後は、広島ホームテレビの野球解説者として活動する一方、日本にとどまらず

中国や韓国でも野球の普及と指導活動を行った。

 

 

北別府学さん死去、65歳 広島一筋“精密機械”213勝 

20年・白血病公表、昨年・尿毒症、敗血症も

スポーツ報知 

 

94年9月20日、試合後に行われた引退セレモニーで瞳を潤ませる北別府学さん

94年9月20日、試合後に行われた引退セレモニーで瞳を潤ませる北別府学さん

北別府学さん
   北別府学さん
 

 広島のエースとして球団最多213勝を挙げ、カープで初めて名球会投手となった

北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日午後0時33分、広島市内の病院で死去

した。65歳だった。正確無比な制球力で“精密機械”と呼ばれた。1992年に20世紀

最後の200勝投手となり、2度の沢村賞などを獲得。2012年に競技者表彰で野球殿堂入りした。20年1月に、ウイルス感染が原因でがん化した細胞が増殖する成人T細胞白血病を患っていることを公表し、近年は感染症からくる敗血症などで病気療養中

だった。通夜、告別式は後日、執り行われる。

 

 球史に名を刻んだ広島の大エースが、天国に旅立った。

関係者によると、入院中だった北別府さんは15日になって容体が悪化し、

この日、家族らに見守られながら静かに息を引き取った。まだ65歳だった。

 

 20年1月に白血病を公表した際には「解説者としてカープの日本一を見届けるために必ずや復活します。孫にも野球を教えなければなりません」と前向きな言葉を

残し、入院生活を送っていた。同5月に次男の骨髄を移植する手術を受けた。

21年6月には転倒して側頭部を十数針縫い、尾てい骨を骨折。

21年11月には大たい骨骨折で人工大たい骨にする手術を受け、昨年3月に尿毒症、

同6月には敗血症を発症し、入退院を繰り返した。今年2月には帯状疱疹(ほうしん)に罹患(りかん)。“精密機械”と呼ばれた制球力を武器に、球団最多213勝を

積み上げた右腕も病魔には勝てなかった。

 

 闘病の様子は、妻・広美さんが頻繁にブログで発信していた。今月12日に「もう

すぐ父の日だよ、がんばれ!」と題し、北別府さんが退院した時のことを考えて子供たちが用意したというリクライニングチェアの写真が掲載されたのが最後だった。

 

 甲子園出場がなく、全国的には無名ながら、高校時代から規格外の投手だった。

宮崎・都城農では1年からエースとして活躍し、75年の春季九州大会1回戦・

伝習館(福岡)戦で完全試合を達成。75年ドラフト1位で広島に入団すると、

78年から11年連続で2ケタ勝利を達成し、79年はチーム最多17勝を挙げ球団初の

日本一に貢献した。82年は20勝で最多勝と沢村賞を獲得。球団最多9度の開幕投手はセ・リーグ2位で、開幕戦勝利数6はリーグトップだ。5度のリーグ優勝と3度の

日本一に貢献し、黄金期を支えた。200勝を達成した92年オフには、球団史上初の

1億円プレーヤーに。12年には競技者表彰で野球殿堂入りした。

 

 94年の現役引退後は野球解説者、沢村賞選考委員などを務めた。01年から4年間は広島の投手コーチとして、黒田博樹氏(48)=現球団アドバイザー=らの指導に

あたった。昨年3月、「カープ レジェンドゲーム」が本拠地移転前の08年に広島市民球場で行われて以来、14年ぶりに開催された。北別府さんは参加できなかったが、同じ時代に戦った大野豊氏(67)が復帰の願いを込めて20番を背負って登板した。

誰もが願っていた復活は、かなわなかった。

 

 ◆北別府 学(きたべっぷ・まなぶ)1957年7月12日、鹿児島県生まれ。

宮崎・都城農から75年のドラフト1位で広島入り。3年目の78年から11年連続

2ケタ勝利。82年には開幕11連勝で20勝を挙げ、最多勝と沢村賞。

86年には18勝でリーグ制覇に貢献し、MVP、沢村賞、最多勝、最優秀防御率に輝いた。92年7月16日の中日戦(ナゴヤ)で球団初の通算200勝を達成。94年に引退し、2001~04年に広島の投手コーチを務めた。12年に野球殿堂入り。右投右打。

 

 

共演者語る北別府学さん秘話と晩年「ファンにずっと

恩返しをしたいと」 [2023/06/16 23:30]  テレビ朝日

◆北別府さんとゆかりの深い広島HOMEテレビの榮真樹アナウンサーに聞きます。

( Q.かなり長いお付き合いだということですが、訃報はどう受け止めましかた )
正直、まだ受け止め切れていない状況です。ひと月ほど前に奥様から厳しい状態で、覚悟しなきゃいけない状態だとは聞いていましたが、まさかこんなに早くお別れのときが来るとは思っていませんでした。北別府さんは「早く番組に戻りたい」という気持ちを持っていたので、また一緒にお仕事ができるのではという期待を持ちながら、ずっと待っていただけに、まだ受け止め切れていないというのが本音です。 

(Q.野球の解説者としての北別府さんはどんな感じでしたか)
決して優しいタイプではなく、厳しい口調だったと思います。特にご自身がコント

ロールの良いピッチャーだったので、若手がコントロールを乱したりすると、

かなり厳しいコメントしていた印象です。

(Q.野球の番組だけでなく、情報番組でも共演されていたということですが、

そのときはどんな感じでしたか)

決して、コメンテーターとして奇抜な発言をするタイプではなかったのですが、

広島の土砂災害や西日本豪雨のときなど、ご自身が災害ボランティアとして、被災地に入っていて、実体験をもとにコメントをされる方でした。番組の中で、古民家再生プロジェクトという企画があったのですが、何事も一生懸命される方で、物を持ったり、切ったりするなど、テレビカメラが回ってないところでも、誰かの力を借りずに、自分の力で最後まで全うする、真面目な性格というのが常に表れていました。

(Q.闘病中の様子はどうでしたか)
抗がん剤治療の影響で、髪が抜けたり、痩せていったり、表情が明るくなかったり

とかありましたが、後ろ向きなコメントはなかったです。本当に弱音を吐く人では

なかったです。必ず「番組に戻る」「解説者としてファンの前に立ちたい」と

前向きな発言が多かったと思います。

(Q.番組のなかで病気を告白し、闘病中の姿もブログなどで隠さず

見せていたのは、なぜですか)
北別府さんは、現役時代に後悔がありまして、勝利に執着するあまり、

ファンサービスにうまく対応できなかったという話をされていました。

だから、現役を引退したあと、解説している時、番組に出演している時、

キャンプ取材に行った時に、ファンサービスであったり、カープを応援するという

形で、何とか恩返ししたいという思いが常にあったようです。また、闘病生活を

する姿を伝えることによって、同じように苦しい思いをされている方に

勇気とか、元気を与えたいという思いを常々おっしゃっていました。

お酒をよく飲まれる方でした。常に現役時代の後悔を口にしながら、これからは

恩返しの日々、そして、「カープを、北別府学をまた好きになってほしい」という

思いを常に口にされていました。

(Q.容態が悪くなってからの家族の様子はどうでしたか)
北別府さんも弱音を吐きませんでしたが、ご家族も決してしんどい姿を見せる

こともなく、退院した時には、家のなかでは明るく振る舞っていました。

入院生活から家に帰ったときまで、北別府さんを何とか勇気づけよう、

元気づけようという姿があったように感じます。

 

 

【北別府学氏追悼コメント集】大野豊さん「彼の勇姿は

いつまでも忘れることはない」

 

北別府 学氏(きたべっぷ・まなぶ=元プロ野球広島投手)16日午後0時33分、

広島市内の病院で死去、65歳。鹿児島県出身。20年に成人T細胞白血病(ATL)を

公表し、末梢(まっしょう)血幹細胞移植を受けた。昨年6月下旬には敗血症に

かかり闘病していることを妻の広美さんが明かしていた。

( 中略 )

94年限りで引退後は広島のコーチ、沢村賞選考委員などを務めた。12年に野球殿堂

入り。通算成績は515試合登板で213勝141敗5セーブ、防御率3・67。

 

◆元広島・大野豊さん 「残念だし、さみしい。何とも言いようがない気持ちで

いっぱい。彼の勇姿はいつまでも忘れることはない」

◆元広島・大下剛史さん 「若いころから信念を持ってわが道を行くタイプだった。まさに孤高のエース。カープの黄金期は北別府とともにあった」

◆元広島・安仁屋宗八さん 「惜しい人物を亡くしてしまった。

他の選手に対して厳しい顔を見せていたが、それ以上に自分に厳しかった。

現役引退後は誰にでも親しまれるような素顔を見せていた」

◆元広島・小早川毅彦さん 「大変なご病気だけど北別府さんの強い精神力だったら必ず復帰される、と信じて疑わなかった。それだけに、もうお会いできないと

思うとショックで悲しい」

◆広島・新井貴浩監督 「すごく残念。どんな時も淡々と、どっしりとしている

方だった。天国で北別府さんが見守ってくれていると思いながら、選手たちと

プレーしていきたい」

◆広島・松田元オーナー 「黄金期のエースとしてチームを支えてくれた。

素晴らしい投手だった。心が強く、エースのプライドも高く、闘争心があった」

◆オリックス・水本監督代行 「(広島に新人として)入ったときに、プロとしての厳しさを教えてもらった。人が言えないことも言ってもらった。本当に頭に残って

いるし、感謝している。ゆっくり休んでください、という言葉しか出ない」

阪神・岡田監督 「(対戦は)何十打席やっている。コントロールのいい投手。

本当にコースに決めてきた。(同い年で自分が)プロに入った時はエース格に

なっていた」

◆元広島・山本浩二さん 「精密機械のようなコントロールでキャッチャーのミットが動かなかった。打者の懐にも投げて勇気のあるピッチャーだった」

◆元広島・佐々岡真司さん 「先発からリリーフに転向し、最初の試合で北別府さんの後を任された。すごく緊張した。初セーブを挙げて、北別府さんから「ありがとう」と声をかけてもらい、とてもうれしかった」

◆巨人・原辰徳監督 「まさに針の穴に糸を通すような非常にコントロールの良い

投手で、ライバルとして戦ってきた中でも大変印象深い選手の一人だった。病と闘われているという話は耳にしていたが、同世代の先輩の訃報を聞き残念でならない」

 

 

北別府さんは移植をして、1年後に自宅で転倒をして側頭部を十数針縫い、

尾てい骨を骨折したと書かれていましたが、階段から落ちたんでしょうか? パンチ!パンチ!

いろんな人を調べていると、よく自宅で転倒をして大ケガをしたり、亡くなったりと

多いですね。私も廊下で滑って転んだりしましたが、ケガもなく無事でした。パンチ!

特に、階段を降りる時は気をつけて下さい 物申す

 

北別府さんは、人に厳しい以上に、自分にはもっと厳しかったんですね。

だから、あそこまでの大偉業を達成することが出来たんですね。

それでこそプロだと思います。引退後、ファンのためにも感謝を忘れずにいた人。

家族を大切にしたり、されたり。覚悟は出来ていたと思いますが、65歳で亡くなる

のは早いです。もっと長生きしてほしかったです。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

あまり変わらないので省きますが、あの3人、私にいろんなことをしてきていると

思っていたら、みんなにもしているのが分かりました。

どんな理由があろうと、占い師の母が言うように「理解しても良いけど、

無理に理解しないでいい」と言っていたので理解しない 物申す おばあちゃん パンチ!パンチ!パンチ!むかっ 星

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート