遺体発見当日から捜査線上に浮上していた

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1997年6月28日、逮捕直後の記者会見。兵庫県警捜査一課長、山下征士氏(82)が明かした被疑者の “素性” に日本中が戦慄した。
「被疑者は、神戸市須磨区居住の中学3年生『A少年』、男性14歳です」
「酒鬼薔薇聖斗」と自ら名乗っていた被疑者は、この時から「少年A」と

呼ばれることとなる。

捜査一課長として捜査を指揮した山下氏が、「少年A」逮捕に至るまでの

過程を振り返った。/文・山下征士(元兵庫県警捜査一課長)

「少年A」逮捕の過程

当時、私が住んでいた兵庫県警の公舎にある電話が鳴ったのは、5月27日、

早朝6時半過ぎのことでした。受話器をとると、県警本部の刑事部に詰めていた

捜査員からの報告でした。神戸市須磨区の友が丘中学校の正門前に男の子の

頭部が置かれている、と。学校の管理人が出勤したところ、切断された頭部を

見つけて110番をしたということでした。

「間違いやないか?」

思わずこう言っていました。捜査員の話が現実離れしていて、マネキンや人形の

類を人間と見間違えたのではないかと思ったんです。しかし、何度確認しても、

「間違いない」というのです。

3日前の、5月24日の午後。須磨区在住の小学生・土師(はせ)淳くんが、祖父の家に行くといって一人で自宅を出たあと行方不明となっていました。その直前、相生市で中学生による殺人死体遺棄事件が発生しており、当時、私は相生市に張りついていた。もちろん淳くんの失踪事件についても耳に入っていたので、相生から須磨署に「どうなってる?」と状況を確認する電話を入れたりしていました。

相生の事件が解決した後は、すぐに須磨の捜査本部に飛んでいきました。

署も編成を組んで捜査しているものの、特に進展はなかった。

26日には公開捜査に踏み切ることになるのです。

「明日は朝一で捜査本部に顔を出そうかな」

遺体発見の前日もそんなことを考えていました。そこに、男の子の首が見つかったという情報が入ってきた。行方不明だった淳くんの存在は、嫌でも頭によぎりました。これはひょっとしたら大変なことになるな——そう覚悟する一方で、

何かの間違いであってほしいと祈る気持ちでした。

さまざまな感情が入り混じった状態で、現場に向かいました。

中学校の正門前に到着した時には、須磨署の署員が何人かいて、すでに現場は

テントで覆われていた。何よりもまず、犯人検挙のために最も重要となる現場保存、刑事部長や県警本部長への報告、広域での緊急配備を優先しました。

 

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友が丘中学校の正門

急ごしらえの安置所

今でこそ警察署には霊安室が設置されるようになりましたが、当時はそんなものなくてね。須磨署の駐車場の一角に囲いだけで急ごしらえの安置所をつくって、そこに

淳くんの遺体を置かせてもらいました。正午前には淳くんのご両親が到着され、

お父さんに淳くん本人かどうかを確認していただくことになった。私も確認に同行しました。その時、発見されていたのはまだ頭部だけです。須磨署の方が気を遣って、顎から下にブルーシートをかけ、下の部分を隠してくれていた。そうして、

体があるかのように見てもらってね……。身元確認を終え、お父さんから

調書にサインをいただき、遺体はすぐに司法解剖へと回されました。

同日午前8時には、兵庫県警捜査一課が須磨署に捜査本部を設置している。

捜査本部が設置された須磨署の5階には朝礼をおこなうための大きな会議室があって、3月に同区竜が台で通り魔に殺害された山下彩花ちゃん事件の捜査本部が先に設置されていた。その会議室に、淳くんの事件の捜査本部も新たに入ることになりました。

彩花ちゃんの事件もAによる犯行でしたが、この段階では2つの事件に関連があるとは考えられていなかった。それぞれの本部が個別で、捜査を進めている状況でした。

本部には200人近くの捜査員が集められ、聞き込み班、捜査班、声明文等分析班に

分けられました。その他にも、県警本部長が特に力を入れて作ったのが「警戒班」だった。犯人が捕まっていないなかで、これ以上犠牲者を出さないようにと、現場周辺の警戒にあたる班です。大阪府警と京都府警から応援を呼び、合計600人ほど投入

されていた。その頃は現場周辺の地区を少し歩けば、すぐ警察官に出くわすような

状況でしたね。被害者が少年だったため、少年係との連携も密にとりました。

捜査員は総勢800人を超える大所帯でしたが、上司に頼んで、私直属の「特命班」をつくることにしました。死体を専門に見る刑事調査官を一人、科捜研で医学博士の

学位を持っている先生を1人、2人の人材を借りてきて、プロファイリングの作業を

進めることにしたのです。

酷似する2つのケース

「特命班」による分析では、いくつか注目すべきポイントが上がってきていました。

まず、現場周辺の環境についてです。1970年代に神戸市営地下鉄の西神線が開通したことで、須磨区は神戸市中心部にアクセスがよくなり、友が丘周辺に6つほどの

団地が立ち並ぶなど、ベッドタウンとして発達していきました。

さらに阪神淡路大震災の後、他の地域から多くの住民が流入。震災後のストレスも

重なり、当時は非行に走る子供が多くなっているとのことでした。

シンナーを吸うなど、非行を繰り返す不良グループがいくつかある、と。

このような須磨区の地域性、通り魔的犯罪、子供が被害者であるという点。

3つの要素を踏まえ、警察庁から100件くらいの資料を取り寄せました。資料を検証

していくと、淳くんの事件と酷似するケースが2つあった。一つは、昭和56年に

札幌市内の団地で4歳児が刺されて重傷を負った事件で、犯人は13歳の少年。

もう一つは、同じ昭和56年に、東京足立区であわせて4人の少女が団地内で相次いで切りつけられた事件で、犯行は小学6年の男子生徒によるものでした。

さらに、情報収集を続けていた科捜研の先生のもとに、アメリカの科学者から有力な見解が寄せられていました。その科学者はドイツの科学誌の内容を示しつつ、

「被害者が精神的な遅滞児童である場合、犯人は被害者の信頼を得るために長い期間を必要としたはずで、したがって犯行時には犯人と被害者にはなんらかの友好関係ができていたはずだ」と説明したといいます。淳くんは知的発達の面で遅れがあり、

一緒に遊ぶ年齢といえば同世代が基本です。

これらの情報から、少年捜査を意識せざるを得ませんでした。

〈汚い野菜共〉

プロファイリングにおいて特に注目したのは犯行声明文の内容でした。

淳くんの口に咥えさせられていたものです。

犯行声明文には赤いインクが使用され、直線的な文字で書かれていた。

〈さあ ゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

SHOOLL KILLER
学校殺死の酒鬼薔薇〉(原文ママ)

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これはちょっと特徴がありすぎるな——文章を読んで、そのような感想を持ちましたね。「これと似たような文章、言葉の引用があるはずや。探してみてくれ」

刑事調査官にはそのように指示した上で、科捜研の先生には文章をもとにした

犯人の性格分析をお願いしました。特に声明文では、「野菜」という言葉が気に

なった。これは犯人の属性を示す重要なキーワードになると。特命班からも、野菜は「植物人間」や「障がい者」の比喩であると考えられ、犯人の関心もそこにあるはずだという指摘があがってきました。ただ、先入観をもちすぎると、大事なことを

見落としてしまう。プロファイリングに偏りすぎるのではなく、捜査の“鉄則”である現場周辺の洗い(聞き込み)は、人員の8割以上を投入しておこないました。

被害者の属性、当日の足取りについては徹底的に洗っていく。

特に、学校関係者への聞き込みには力を入れました。学校の校歌やその由来まで、

とにかくいろんな資料も貰いましたね。他にも過去に職務質問をした人間や前歴者。怪しいと感じたものは全て洗ってもらいました。

捜査本部には大量の電話がおかれ、地域住民から不審者情報を集めていました。

それに加え他府県の県警からもよく情報が入りましてね。なぜか島根県からが一番

多かったと記憶しています。こうした不審者情報は、捜査三課の警部を専属にし、

分析させていました。

プロファイリング、現場の洗い、情報収集。これらの基本的なことを疎かにせず、

犯人像の “物差し” をつくっていったということです。

「黒いゴミ袋を持った中年男が、友が丘中学校の北通用口付近を    うろついていた」

「黒いブルーバードが付近に停車しているのを見た」

淳君が消息を断ってから遺体が発見されるまでの間、現場付近では   このような目撃情報が相次いでいた。そのため、テレビや全国紙などの マスコミは「中年男」の犯人像を盛んに報じていた。

実は、Aの名前はかなり早い段階から、捜査線上に浮上していました。

淳くんの頭部が発見されたのは5月27日の午前6時半頃でしたが、同日の午後3時

には、殺害現場となった「タンク山」から淳くんの遺体が発見されました。

その頃にはすでに、Aの名前が私まで上がってきていたと記憶しています。

たとえば、住民から匿名で、「Aが犯人だ」と名指しでの情報提供がありましたね。

証拠や根拠のない情報でしたが、そういうのが意外と重要なのです。

 

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「タンク山」の慰霊碑

情報共有は6名だけ

「Aがクロで間違いない」

プロファイリングの件もあり、捜査が始まった頃からそう考えていたのが、

正直なところです。ただ、「中年男」や「ブルーバード」など、他の可能性を

一つずつ潰していく必要がある。全ての人が納得できる捜査資料を作らなければ、

裁判所の信用は得られず、逮捕や起訴もできません。Aの存在は頭の片隅に置きつつ、基本に沿って捜査を進めました。捜査をするうえで、もっとも気を遣ったのが、

保秘の徹底とマスコミ対策です。仮に犯人が少年だった場合、社会に与える影響は

計り知れず、慎重に行動する必要があった。ちょうど同じ年の5月、奈良県の月ヶ瀬村で女子中学生が行方不明になる事件が発生しましたが、マスコミが被疑者を逮捕前に特定し、テレビ各局が被疑者の自宅周辺で張り込む騒ぎに発展していました。

「あんなふうになったら、この事件はアウトや。潰れてしまう」

そう考えて、警察内でも情報共有はごくわずかな人間に限定したのです。

通常の事件の捜査本部では、朝礼などで捜査員全員に情報の共有を図ります。

この事件では犯人が少年である可能性を念頭におき、専従チームのメンバーのみで

情報管理をおこなっていました。チームが出来たのは捜査本部を立ち上げてから

1週間ほど経った頃です。メンバーは、刑事部長、捜査一課長、捜査一課調査官、

友が丘・竜が台両事件の捜査主任官、須磨署刑事課長の6名だけでした。会議の場所は適宜変更しながら、短時間で済ませる。そこまで念を入れて行動していました。

県警本部長は毎日のように捜査本部を視察したがっていましたが、私が県警本部に出向いて定期的に捜査情報を報告することで、あまり動きを目立たせないようにした。そうすることで、捜査員やマスコミに異変を察知されないようにしました。

また、外部から情報を受け取るための電話機やファックス、複写機などは、私の目の届く範囲内に移動させました。捜査本部には、他の部署から応援にきている捜査員も多かった。誰がいつ、どこで、何の情報を持ち出すか全く予想できない。

特に同僚同士のやり取りには、細心の注意をはらっていました。

前歯を折られた同級生

捜査本部には、Aについての情報が次々と寄せられました。

淳くんのご両親側からは「2人が一緒にタンク山に遊びにいっていた」という話が

出てきていたし、Aに殴られて前歯を折られ、ナイフを突きつけられた同級生がいる

ことも分かった。A自身の経歴についても調べていくと、幼い頃から病院の精神科に

通っていたことも分かった。通っていた学校からは本人が書いた作文や絵も取り寄せましたが、なかでも彼が彩花ちゃんの事件後に書いた作文「懲役13年」という

文章は、猟奇殺人に関係する本からの引用も見られ、大変参考になりました。

さらに、事件現場周辺には、知的障がい者のための施設が3カ所ほどあったのですが、そこに通っている人を「Aがなじっていた」という目撃証言もあった。

これらの情報から、Aの “特異性” がくっきりと浮き彫りになってきたのです。

逮捕に向けた捜査がだんだんと煮詰まっていきました。

 

この続きは、有料で読んで下さい。

 

 

「容疑者は14歳、中学3年」取材班に走る衝撃…「少年A」が起こした “神戸連続児童殺傷事件” はそれまでの少年犯罪と何が違ったのか 『 記者がひもとく「少年」事件史 

少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す 』より 2022/10/22  文春オンライン

 

 1997年、少年事件の「少年」観を大きく変える出来事が起きた。

当時中学生だった「少年A」が小学生5人を殺傷した、神戸連続児童殺傷事件である。

5月、中学校の校門で小学校6年生の男児の頭部が発見されたことを皮切りに、

神戸新聞が犯人から送られてきた犯行声明を全文掲載するなど、各紙の報道は

エスカレートした。しかしその段階では犯人は明らかになっておらず、

誰も「少年」の犯行とは見抜けなかったのである。

 

 ここでは、毎日新聞記者の川名壮志さんが少年事件の歴史から社会を読み解いた

一冊『 記者がひもとく「少年」事件史少年がナイフを握るたびに大人たちは

理由を探す 』(岩波書店)より抜粋。「少年A」の逮捕を巡り、報道の現場は

どれほど混乱したのか――。当時の新聞紙面や関係者の証言を振り返る。

(全2回のうち2回目/ 山口二矢編を読む)

◆◆◆

新聞の一面が「少年逮捕」一色に…

 逮捕は、青天の霹靂だった。

事件の発覚から約1カ月後の6月28日。14歳の少年が、いきなり兵庫県警に

逮捕されたのだ。同日夜、兵庫県警は緊急の記者会見を開き、少年の逮捕を発表。

報道の「前打ち」(発表前にスクープ記事を載せること)は、一切なかった。

「犯人」は、遺体が見つかった中学校に通う中学3年の少年。

被害者とも顔見知りだった。

 

 「淳君事件 中3男子を逮捕」(朝日)

 「淳君殺害容疑 中3少年逮捕」(読売)

 「淳君殺害 中3男子を逮捕」(毎日)

 

 ――各紙とも、朝刊で少年の逮捕を報じた。

 驚くべきは、その扱いだ。

各紙とも、朝刊の一面を丸々使って、少年の逮捕を報じたのである。

新聞が最も重視する一面には、政治や経済、国際情勢など複数の記事が必ず入る。

どんなに大きなニュースが飛びこんできても、一つの記事で紙面を偏らせることは

ない。他にも伝えるべきニュースを盛りこんで、一辺倒にせずにバランスを

保つことが、新聞の矜持でもある。ところが、この日の紙面は、14歳の少年の

ニュース一色に染まった。それは、新聞史上、異例中の異例のできごとだった。

それが、どれだけ特異なことなのか。過去の事件を振り返ってみると、よくわかる。たとえば、少年事件の扱いが大きかった50~60年代でも、小松川女子高生殺人はもちろん、永山則夫(編注:1968年の連続ピストル射殺事件)や山口二矢(編注:1960年の浅沼稲次郎刺殺事件)の事件でさえ、一面がそれのみで埋まることはなかった。

 

 成人の事件を見ても、前例が見当たらない。リクルート事件の江副浩正の逮捕や、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人の宮崎勤の逮捕でさえ、それほどの扱いではなかった。かろうじて、ロッキード事件の田中角栄・元首相の逮捕や、オウム真理教の麻原彰晃の逮捕時は一面がそれのみで埋まったが、しかしそれらはいずれも夕刊だった。

神戸の事件と同様に「犯人逮捕」のニュースで朝刊の一面がまるまる埋め尽くされたケースは、他に何があるか。安倍晋三・元首相を殺した銃撃犯の逮捕である。

つまりサカキバラ少年の逮捕は、一国の元宰相の殺害犯並みに、ニュース価値が

置かれたのである。いかに神戸の事件が衝撃的だったかということだ。

そしてこの事件が発生するまで、少年事件の新聞報道は、たとえどんなに残虐な

事件でも、抑制的であるのが「常識」だった。新聞協会の方針通りに、加害者の

「親の立場」に立ち、成人よりも扱いを小さく抑えていた。いたずらなスキャン

ダリズムに陥らないように、配慮することが意識されていたのである。

ところが、この事件は新聞各紙のスタンスを反転させた。

少年事件の報道史をがらりと変えたのである。

「まさか中学生が…」各紙の反応は

 この少年逮捕を、各紙は社会面や社説でも手厚く報じている。

 たとえば、朝日。

 「まさか中学生が 『弱ければだれでもよかった』」「社会に挑戦なぜ」

 ――といった見出しで、社会面の見開きページをほぼ事件の記事で埋めつくし、

逮捕当日のドキュメントも掲載。本来は政治や海外ニュースを扱う二面や三面でも

事件を報じた。さらに社説では「今回の事件を、私たちは冷静に解読する責任が

ある。その作業を通して、社会のあり方に欠陥があるとすれば、どこにどのような

要因があるのか、深く考えなければならない」と強調した。

 読売も同様だった。

 「『まさか』 14歳の凶行」「『弱者ならだれでもよかった』」

「近所の子、通り魔も……」

 ――と、社会面を見開き、やはり二、三面をほぼ事件の記事で埋めた。

兵庫県神戸市のJR三ノ宮駅で「中3生を逮捕」の号外を読む人 ©共同通信社

兵庫県神戸市のJR三ノ宮駅で「中3生を逮捕」の号外を読む人 ©共同通信社

 

 社説では「少年をこれほど憎しみに満ちた残忍な犯行に走らせたものは何だった

のか。少年は取り調べに『殺害の相手はだれでもよかった』と自供しているという。その心の荒廃は空恐ろしいばかりだ。動機と背景を多角的に解明しなければ

ならない」と訴えた。

 毎日も変わらない。

 「近所の子だとは 惨殺背景は」「息をのむ教育界」

 ――の見出しで、社会面で「14歳の衝撃」と題して緊急連載をはじめた。

 二、三面でも事件を報じ、社説では「あまりにもむごい事件だったが、その容疑者が同じ区内の中学3年生だったことで、事件の異様さとナゾはさらに深まった(中略) これだけむごく、異常な犯罪をなす人間をこの社会が生み、しかもそれが少年で

あることの怖さと痛みを、私たちは改めて知らされた」と記している。

当時の関係者が語る、「14歳」の衝撃

 新聞協会発行の雑誌「新聞研究」に、衝撃に動揺する新聞社の雰囲気を伝えた

記録が残っている。朝日の前線デスクとして事件を仕切っていた両角(もろずみ)

晃一社会部次長は、社内の雰囲気を、こう振り返っている。

「当初、各社の報道は、おしなべて、罪のない子供を殺し、首を切断し、警察をあざ笑うような声明文を送り付けた〈憎むべき容疑者〉〈犯罪史上例を見ない猟奇事件〉という土台の上に成立していたと思う。それが少年の逮捕で一変した。六月二十八日夜。私は神戸の前線からたまたま本社

社会部に戻っていた。『少年逮捕』の一報に編集局は騒然となった」

 また、読売の加藤譲神戸総局長も、事件直後の様子を、こう記した。

「『容疑者は少年』『14歳、中学三年』。次々と入ってくる情報に、

取材班が受けた衝撃は大きかった。予想していた犯人像と違っていた

こともあるが、何よりも『14歳』という事実に直撃された」

 少年の逮捕は、それほどまでにニュースバリューが大きかったのか。それとも報道を巻き込んだ一種のヒステリーだったのか。いずれにしても、どの社の紙面にも、「犯人」が14歳の少年だった衝撃と動揺がにじんでいた。事件の衝撃は、

事件取材が豊富なベテランにとっても、かつてないほど大きかったのである。

 

「少年A」が少年事件報道のあり方を変えた

 事件の「犯人」は、14歳の少年。その激震は、新聞報道のあり方を変えた。

少年事件を抑制的に報じるのではなく、手厚く、つまびらかに(あるいはどぎつく)扱う方向に、各紙は舵を切る。それは、少年事件報道史の一大転換だった。

犯行の手口や動機。凶器の押収や、犯行後の少年の言動。さらには政治家や文部省、法務省などの省庁の動きまで、事件に関連するとなれば、各紙はスクープ合戦を

展開し、微に入り、細に入り、事件を詳報した。それは、テレビのワイドショー

さながらだった。

 「連続通り魔事件も認める」

 「大人に見せない別の顔」

 「『透明な存在』実像は……」

 「通り魔事件詳述メモ」

 

 朝日は逮捕の報道から13日間連続で、朝刊夕刊の紙面で続報を掲載。

 「頭部、一時自宅に」

 「少年はなぜ変わった」

 「頭部切断は『儀式』」

 

 読売も逮捕から18日間ぶっ通しで続報を打ちつづける。

 「連続通り魔も認める供述 学校への恨みが動機か」

 「中3供述 『瑪羅門(ばらもん)の生まれ変わり』」

 「『自分の行為』 仲間に誇示?」

 

 毎日も20日間にわたり、続報を掲載した。

 事件が大きく扱われる二つのパターンは、犯人が捕まっていない場合と、

全国紙の記者が特ダネ争いにしのぎを削る警視庁や大阪府警が捜査する場合だ。

犯人が逮捕されれば一件落着だし、地方の事件では各紙とも支局の人手が足りない

のだ。だが、この神戸の事件は、逮捕後も続報の熱が冷めなかった。

事件は、新聞社の慣例や台所事情を軽々となぎ倒したのである。

 この事件は、少年事件の報道の量だけでなく、その質も変えた。

 世間の注目する少年の「型」が、様変わりしたのである。

「少年A」は今までの「少年犯罪」と何が違う?

 ここで、それまで各紙がニュース価値を見いだした(あるいは見いださなかった)少年事件を、もう一度振り返ってみる。

 

 たとえば、各紙が関心を抱いたのは、60年代ならば、山口二矢のような政治少年であり、永山則夫のように極貧に育った少年だった。80年代に入れば、家庭や学校に

背景があるとされた事件、つまり「親子」や「教育」を基軸とした事件だった。

90年代初頭に注目されたのは、死刑を宣告された年長少年だ。

一方で、「1969年の酒鬼薔薇事件」と称された15歳の同級生の首切り事件や、

目黒の中2少年の祖母両親殺害事件などは、尻すぼみの報道に終わった。

報道はこれらの事件を、個別の子供の事件として、目をつぶったのである。

つまるところ、各紙が価値を置いたのは、社会の情勢と結びつく少年事件だった。

過ちを犯した少年を通じて得られた教訓を、社会にフィードバックする。

その意味で少年事件は、まさに「社会の鏡」だったのである。

そうした視点に立つと、神戸の事件は、従来ならば大きく報じられないタイプの

少年事件だった。14歳の少年に政治的な思想などなかったし、貧困にあえいでいた

わけでもない。そして、ツッパリでもない目立たない存在だった。

道徳的な価値観が失われたかにみえる少年の「犯行」は、80年代以後の少年事件

報道の典型だった「ウチの子にかぎって」の文脈からも、明らかに逸脱していた。

 

 少年は中学生だったが、もはや新聞はこの事件を加害者の「親の立場」に立って

報道することはできなかった。「ひとつ屋根の下」の家族の事件としてはとらえられなかったのである。しいていうならば、少年は社会から切り離された存在だった。

この事件で、少年事件をめぐる報道のスタンスは足場を失った。この事件は報道に

とって、少年が人を殺す理由が「わからない」事件だったのである。

だが、それゆえに、この事件は「少年事件はわからない」という、新たな基軸を

生んだともいえた。犯行声明で少年が自らを「透明な存在」と称したことも、

それに拍車をかけた。

 14歳の少年は匿名で報じられたにもかかわらず、ちまたでは「少年A」と

名付けられた。その呼称そのものが、神戸の少年本人を指す固有名詞化したのだ。

 匿名と個人名の両義性をもつ「少年A」。

 その報道は過熱し、やがて「少年A」の存在は一人歩きしていく。

少年は怪物(モンスター)化して報じられていくのである。

この神戸の事件以後、少年事件は、少年が「犯人」であるがゆえに、

成人よりもむしろ大きく報道されるようになる。

少年事件は「小さく」から「大きく」へ。

この事件でもって、少年事件報道のたがが外れる。

 

 

この少年Aは今何を考え、何を思っているのかもう少し調べて行こうと思います物申すおばあちゃん

 

あまり変わらないので少し省略しますが、この責任は、個人、連帯責任及び

お母さんに責任と取ってもらいます。

人の思考を低下させないで、理性を失わせないで!

人の後ろに憑かないで、憑依しないで。人に自分が思う言葉を言わせないで ムキー パンチ!パンチ!

プライバシー侵害、個人情報保護法、言論の自由や表現の自由を守って プンプン パンチ!パンチ!パンチ!

人に束縛や嫉妬、妬み、執着などをしないで、暴言やコントリロールを止めて パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート