【 2012年4月20日付デイリースポーツ記事より 】
女優・淡路恵子が20日に放送されるTBS系「爆報!THE フライデー」
(金曜後7・00)で再婚、離婚、三男の交通事故死、四男の逮捕と自殺など
波瀾万丈の壮絶人生について激白した。
番組はデビュー63年目、78歳の大女優の華やかな女優人生の裏に
隠された “闇” を大公開するという内容になっている。
16歳で黒澤明監督に見いだされ、名優・三船敏郎と映画「野良犬」で共演し、鮮烈なデビューを飾った淡路。瞬く間にスターの仲間入りを果たし、20歳でフィリピン人歌手ビンボー・ダナオ氏と結婚し、2児をもうけるも、離婚。1966年に歌舞伎の
名門に生まれ、抜群の演技力と圧倒的な存在感で昭和を代表する映画スターと
なっていた中村錦之助(のちの萬屋錦之介)さんと再婚した。
女優業を引退し、2人の子供(ともに男児)も生まれ、幸せな日々を送っていたが、錦之介さんの個人事務所が多額の負債を抱えて倒産。筋無力症で倒れた夫を
献身的に支えていたが、86年に夫と元宝塚スターの女優・甲にしきの不倫が発覚。
87年に離婚した。番組では借金が13億円だったことや、生活費を稼ぐため、
一時は「六本木のクラブのママになりはてた」ことも明かしている。
不幸はなおも襲った。90年には三男がオートバイで交通事故死、97年には別れても「全部が好き」だった最愛の錦之介さんが死去。
04年は錦之介さんの “忘れ形見” だった四男が地方公演中だった
淡路の都内の自宅に窃盗に入り、住居侵入罪で逮捕され、実刑判決を受けた。
淡路は記者会見を開き、「立ち直らせるため何としても逮捕してほしかった。
もう2度と会わない」と悔し涙で絶縁を宣言。四男はアルコール依存症と
薬物中毒で手をつけられない状態で、厳罰を求め、淡路が刑事告訴していた。
その四男も10年に自殺した。
「今までテレビの前では深くしゃべったことがない」という壮絶すぎる
激動の人生は、衝撃の連続だ。
近年はバラエティー番組で再び脚光を浴びていた。
淡路さんのマネジャーや長男で俳優の島英津夫(52)によると、淡路さんは
体重が32キロまで減り、昨年7月1日に入院し検査を受け、食道と直腸のがんと
肺気腫が見つかった。直腸がんは範囲が広がりすぎていたため摘出せず、
人工肛門と胃ろうの処置を受けた。当初は1・5センチ程度で治療を続けていた
食道がんも、10月には5センチほどに肥大。水も吐き出すような状態だったが
復帰には前向きで、今月9日にマネジャーが見舞った時も
「元気になって早く帰りましょう」と話したという。
1948年に松竹歌劇団に入団し、翌年黒澤明監督の「野良犬」で銀幕デビュー。豊田四郎、川島雄三ら名だたる監督の下、喜劇からシリアスな作品まで幅広く活躍した。
私生活では、フィリピン人歌手の故ビンボー・ダナオさんとの間に息子2人をもうけたが、65年に結婚生活を解消。翌年、萬屋錦之介(当時中村錦之助)さんと再婚、2男を出産した。だが87年に離婚。90年と2010年には三男と四男に先立たれた。
近年は辛口トークでバラエティー番組に引っ張りだこ。芸能界屈指のゲーム好きと
して知られ、フジテレビ「アウト×デラックス」では「ゲームをやりすぎて腱鞘
(しょう)炎になった」というエピソードを披露し若者にも親しまれた。
昨年夏に病室から電話インタビューに応じ、11月に放送されたTBS
「金曜日のスマたちへ」が最後のテレビ出演。12年11月に撮影し、
公開中の映画「四十九日のレシピ」が遺作となった。
淡路さんの遺体は11日夜、四男が眠る豊島区の仙行寺に運ばれた。島が同所で
会見。昨年10月に淡路さんが「写経を書きたい」と言い、治療のモルヒネの影響で
目が見えづらい中、同30日に「南無妙法蓮華経」と3回書いた紙を「最後に書いた
言葉だからあなたにあげるわよ。形見だと思ってよ」と島に手渡した。
波乱の人生を送った母親を、島は「すごい人。何事にも後ろを向かず、子供より
旦那さんのために生きてきた。錦ちゃん、錦ちゃんと」と強調した。淡路さんの
自室には萬屋さん、三男、四男の写真があり、お供え物を欠かさなかったという。
葬儀・告別式は東京都港区の青山葬儀所で。
日取りは未定。喪主は島=本名・晃一郎(こういちろう)=さん。
◆淡路 恵子(あわじ・けいこ)本名井田綾子(いだ・あやこ)。1933年(昭8)7月17日、東京都生まれ。48年松竹歌劇団に入団。芸名は憧れていた宝塚スター
淡島千景にちなんだ。歌劇団では草笛光子らとともにステージに立った。
16歳の49年、黒澤明監督の「野良犬」にレビューの踊り子役で抜てきされ終生の
代表作となった。57年「女体は哀しく」「下町」でブルーリボン賞助演女優賞。
他に東宝「駅前」シリーズ、「男はつらいよ 知床慕情」(87年)などに出演。
最近はバラエティー番組などで活躍。04年毎日映画コンクール田中絹代賞受賞。
淡路恵子さんは、最期まで錦之介さんを心から愛していたんだと分かりました
愛する人のために、クラブで働き生活費を稼ぎ、多額の借金を返済している時に、
錦之助さんは不倫をしてその後、自分より相手の幸せを望んで離婚したのかも
淡路さんは、後ろを振り向かずに前だけを見て生きた人。
泣き言を言わずに辛いことに耐えた人。普通、辛い事から逃げたり楽な道を
行きたいのに、その物事に立ち向かって戦った本当に強い人だと思いました
淡路恵子さん死去和製モンロー波瀾万丈の生涯
喜劇からシリアスまで幅広く映画やドラマで活躍した女優、淡路恵子、
本名・井田綾子=いだ・あやこ)さんが11日午後5時24分、食道がんのため東京・
虎の門病院で死去した。80歳だった。晩年はバラエティー番組での毒舌ぶりが人気
だったが、昨年7月から入院。復帰を目指して療養中だった。俳優、故萬屋錦之介さんらとの結婚や離婚、息子2人の死など、波瀾万丈の生涯だった。
「ホッとしたような顔でした…」。長男の俳優、島英津夫(52)がこの日夜、
遺体の安置された東京・池袋の仙行寺で涙をこらえながら会見、
直前に対面した母の表情をそう語った。
舞台公演中の島は朝、病室で意識の混濁する淡路さんに「行ってくるね」と声を
かけた際、「あーうー」と反応してくれたのが親子の最後の意思疎通に。
最期は島の関係者ら2人が看取ってくれたという。
ヘビースモーカーで病院嫌いだった淡路さんが体調を崩したのは、昨年6月下旬。7月1日に入院し、精密検査で直腸がんと食道がん、肺気腫が見つかった。
主治医から島は「余命半年」と告げられたが、淡路さんには知らせなかった。
人工肛門をつけ、抗がん剤治療を受けてきた淡路さん。一時はゲームのドラクエを楽しむほど元気だったが、昨年10月の検査で食道がんの進行が明らかに。
かなりの痛みを伴ったため、モルヒネ治療も始まり、体力が消耗していった。
検査の10日前には芸能人らを毒舌で斬りまくってきたTBS系特番「嵐を呼ぶ!
あぶない熟女」に声で出演。視聴者に「忘れないでね」と呼びかけたのが最後の
テレビ出演に。このころ、淡路さんが半紙に自身の芸名や本名と「南無妙法蓮華経」をしたため「もう書けないから。形見と思って大切にして」と手渡した時が、
親子最後の会話になったという。
淡路さんは1949年、黒澤明監督の「野良犬」に踊り子役で出演し映画デビュー。
日本人離れした肉感的な肢体から「日本のマリリン・モンロー」と騒がれ、
艶っぽい演技で映画の「社長」「駅前」シリーズなどに出演し、人気を得た。
私生活では1954年にフィリピン出身のジャズ歌手、ビンボー・ダナオ氏と事実婚。ダナオ氏に妻子がいることが分かっても、「当人同士がよければいいじゃない」と
世間の常識を吹き飛ばし島と次男、照史さんをもうけたが、65年に破局した。
翌66年に萬屋さんと子連れ再婚。一時女優を引退したが、萬屋さんがオーナーの「中村プロ」が6億円の負債で倒産し、高級クラブのママを務めたことも。
87年に再び離婚後、「男はつらいよ 知床慕情」で映画復帰。その後、萬屋さんとの間に誕生した2人の息子に先立たれた。三男はバイク事故、俳優だった四男は淡路
さん宅に窃盗目的で侵入して逮捕され、後に自殺した。
これらのことで憔悴しきった時期もあったが、幸も不幸も包み込んで受け入れた
淡路さん。仕事にも恋にも全力でぶつかった80年の生涯だった。
フィリピンは、法律で離婚禁止なので離婚したくても出来なかった。
日本とフィリピンは、常識が真逆なところがあるので、この時は理解してもらえ
なかったのでは? 偶然なのか分かりませんが、三男と四男とも錦之介さんの子供。子供に先立たれる親の気持ちは計り知れないですね
淡路恵子さん 最期まで貫いた女優魂「鏡は見たくない」と…
記事投稿日:2014/01/20 00:00 『女性自身』編集部
「母の遺品を整理するのは、正直、イヤです。
女モノですから、たとえば下着なんかさわれないですし……」と苦笑する、
島英津夫(53)。1月11日、食道がんのため亡くなった、淡路恵子さん(享年80)。長男で俳優の島は、最期まで淡路に頼りにされ、彼だけに淡路さんは
“母の素顔” を見せてきた。
「昨年6月に入院して以来、『自分の顔を見るのがイヤだ』と言って、
鏡を見なくなったんです。『退院したときに見る。今はきっとやつれた
汚い淡路恵子だから、私は見ない』と言っていましたね」
最期まで “女優魂” を貫いた淡路さんは、弱音は一切吐かなかった。やがて、
余命が短いことを自ら悟った淡路さんは、島に向かって、こう語ったという。
「『私に何かあっても、悲しまないでね』と。『お母さんはきっと楽になって、
天国でお父さん(萬屋錦之介)や、晃廣(三男)と哲史(四男)に
再会が叶うんだから……』と」
‘87年に離婚した萬屋錦之介さん(享年64)。その錦之介さんとの間に授かった
2人の息子を、ともに非業の死で喪っている。三男・晃廣さんは、’90年にバイク事故で急逝。四男・哲史さんは’04年に淡路さんの自宅に侵入し、金品を物色していた
容疑で逮捕される。そして、その6年後の10年に自ら命を絶っている。
家族の前では、ゲームに夢中になる、少女のような無邪気さもたびたび見せた。
「“ドラクエ”好きは有名ですが、生半可な“好き”じゃないんですよ、本当に(笑)。 僕、離婚して数カ月、母の家に厄介になっていたので、よく知っていますが、
夜通し朝の6時ごろまでやっていましたよ、ピコピコと。お酒が好きで、酔っ払うとずーっとしゃべっているんですが、その話もドラクエのことばかり。『ここのスラ
イムはね、ここから入って、宝箱を取るといいのよ』とかなんとか。最近は『ファイナルファンタジー』もやっていたんですが、あれは声が出るのがイヤなんですって。
『なんでこんな下手な声優が、私の夢を壊すのよ!』って(笑)。だから、
ドラクエしかやらなくなりましたね。いま思えば、親父と別れた後ですよね。
ドラクエをあんなにやるようになったのは。
ドラクエでストレス発散をしていたのかもしれません」
萬屋さんとの離婚は87年。ドラクエ第一作が出たのは、その前年のことだった。
淡路さんはいま、亡き家族たちとともに、空の高みから遺された家族を見守っていることだろうーー。
淡路恵子さん死去 墓場まで持っていった「あの話」
2014/01/30/ 16:00 週刊朝日
食道がんのため亡くなった「昭和の大女優」淡路恵子さん(本名=井田綾子、
享年80)の通夜が、1月21日、東京・青山葬儀所で営まれた。
「何もして差し上げられなかった自分を責めています」。
女優の草笛光子(80)は、唇をかみしめた。
SKDの1期下で共に娘役の看板スターとして活躍した草笛は、「私はボーッとしてるほうなので、よく怒られて気合を入れられました」と振り返り、淡路さんの過去に
ついても触れた。「事実として、こういうことがあったというのは、知っています。でも、そういうものに対して私は腹が立っている……。公の場では話せないことが
あるけれども、お別れの会を開いて、そこで淡路さんの代わりに(話したい)」
萬屋さんの不倫とか借金のことですか、との報道陣からの問い掛けには、
「ご想像にお任せします」とだけ言い残した。
草笛発言の真意について、現場にいた芸能関係者は次のように話す。
「淡路さんは、借金や不倫について、これまで一度だって泣き言ひとつ言ったことがない。萬屋さんと甲にしきの不倫に関しても、淡路さんは『私は本人から聞いたことしか信じない、お友達ですもの、彼女は』と言っていたほど。草笛さんは生前、
淡路さんが何も語らなかった真意を代弁してあげたくなったのでは?」
淡路さんの名言は「ドラクエは裏切らない」。ドラクエになぞらえれば、
大女優はまさに勇者であった。
※週刊朝日 2014年2月7日号
最期は、苦しまずにホッとしたような顔で・・・。
食道がんで亡くなって、モルヒネを投与されたお陰で?
やすらかに眠るように亡くなったんですね
天国で子供と錦之介さんと再会して、今頃、仲良く話でもしていますか?
ご冥福をお祈りいたします。
人に嫌な事をしてこないで、胃のところから余計なことを言ってこないで
人の後ろに憑かないで、憑依しないで。私が書いている時に文書を消さないで
人の感情やパワーを抑えないで。1度直したら2度と嫌な事をしてこなしで
水晶で見て、人の弱みを言ってコントロールしないで、長女は近くに来ないで
個人保護法や言論の自由や表現の自由があるので、思考を停止しないで。
自分が言わせたい言葉を、人に憑依して言わさないで
伊勢物語のあらすじ
西の京の女
現代語訳
むかし男がいた。
人々が奈良の都を離れ
新しい都はまだ人家も揃っていないとき
この新都の西の京にひとりの女性がいた。
その女は世間の人より優れていた。容姿ではなく心が素晴らしい。
まったくの独り身というわけでもなかったらしいが
あの、恋に一途な男がいい仲になって
翌朝帰ってきて、どう思ったのか
ちょうど三月一日の雨がしとしと降っているときに
歌を贈った。
詩
起きているのでもなく、寝るわけでもなく夜を明かしました。
朝になると春らしい長雨がしとしと降っています。私はその長雨を見ながら、
ぼんやり春だなーと物思いにふけって一日を過ごしてしまいました。
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました