吉良中学校横の道を南に700mほどのところに鎮座する富田神社です。
富田神社境内正面。
境内を囲む玉垣には、寄贈した夫婦の氏名と結婚日が刻まれていた。
以前に市内の平原の白山神社や宮迫の神明社にもあった「おしどり玉垣」だ。
「夫婦(めおと)玉垣」という呼び方もあるようだが、そもそもどちらも検索してもあまりヒットしない。
なんか他に正しい名前があるのだろうか。
社標は大正四年十月建立、「岡﨑町 石工 中田和■」の銘。
鳥居は比較的新しく、平成六年十一月建立、市内の神谷石材店によるもの。
また、境内正面向かって右手には戦没者を慰霊する石碑が立っていた。
境内全景。
狛犬。昭和三年、作者不明。台座に御大典記念とある。
RC造の社殿。由緒で触れる、平成六年の遷座の際に建て替えたようだ。
境内の奥には建て替え前のものと思われる鳥居が解体して置いてあった。
柱に「岡﨑石工藤原…」や寄附者なのか「…兵衛尉…」の文字が見えたが年代は分からず。
せっかく古い鳥居があるなら立てて残してくれるとうれしいのだが。
由緒は「御遷座記念」碑の裏に書かれている。
勧請は寛正五年(1464)、この地を開拓した饗庭妙鶴丸(あいばみょうかくまる)が牛頭天王を祀って鎮守としたのが始まりする。
妙鶴丸の名前はここから東へ1.5㎞ほどの山の上に建つ饗庭神社の合祀社や、八幡社や白山社の由緒にも登場する。
ただし、饗庭の八幡社などは永徳三年(1383)の勧請というので、ちょっと年代的に開きがあって同じ人物とは考え難い。
史料上では室町時代の軍記物『太平記』に足利尊氏の寵臣として饗庭氏直、またの名を命鶴丸(みょうづるまる)という人物が確認できるらしい。
命鶴丸は建武二年(1335)生誕とされるので永徳三年に神社を勧請したというのとは一応矛盾しない。
なので由緒に沿って考えると、富田神社を勧請した妙鶴丸はその息子か孫なのかもしれない。
あるいは饗庭の八幡社は息子、富田神社は孫で両方妙鶴丸を名乗ったとかいろいろ考えられるが、まぁ推測でしかない。
その後、明治時代に牛頭天王社から富田神社に改名した。
大正二年に字堀ノ内の御廣前社(おひろまえ)、字銭池の稲荷社と秋葉社、字天白の天白社、字泰田の八幡社を合祀した。
合祀祭神の中の天香香背男(あめのかがせお)は、私は初めて見た名前だが、日本書紀に出てくる星の神だというから、天白社に祀られていたのだろう。
平成六年に遷座を行い現在の社殿となった。
見た目は地味だけど、周りの神社と由緒がリンクしているところがちょっとエモかった(若者言葉)