今回は、天北線に存在した恵野(めぐみの)仮乗降場を取り上げたいと思います。


まず、手書きで恐縮ですが、天北線の路線図を載せておきます。
今回で天北線の仮乗降場のご紹介は3例目となり、今さらではありますが…。

青字は仮乗降場(民営化時に正駅になったもの、または仮乗降場のまま廃止になったもの)です。
国鉄時代に正駅になったものについては黒字で記しています。
赤字は民営化後に臨時駅として開設されたものです。
なお上音威子府駅は民営化時に臨時駅となっており冬季(12月1日〜3月31日)は休止となりました。


仮乗降場来歴

昭和31(1956)年5月1日

 恵野仮乗降場として開業

昭和62(1987)年4月1日

 民営化に伴い、恵野駅となる

平成元(1989)年5月1日

 路線の廃線に伴い廃止


恵野仮乗降場は生まれも廃止も5月1日でした。

国鉄末期には多数の駅が都市部に誕生しましたが、この時代、まだ千歳線の電化から間もない昭和57(1982)3月1日、同線に「恵み野」という駅が誕生し、さらに天北線の「恵野」が民営化と同時に正駅になったことで、ごく短期間かつ非常に離れた場所になりますがJR北海道に同じ《めぐみの》という読みの駅が2つ存在していた時期があったのです。


天北線は、国鉄再建法の成立後に制定された第二次特定地方交通線の廃止基準を満たしてはいましたが、標津線、名寄本線、池北線とともにいわゆる長大4路線に数えられ、民営化後も国により2年間の赤字補填がなされ廃止は一時保留とされました。

しかし冬季の代替交通手段の確保などの目処も立ち、廃線となり路線バスに転換されました。

最終運行は平成元年(1989)4月30日、名寄本線と同日で、営業最終日まで急行列車が走っていたのは一連の赤字ローカル線の廃線としては初めての事例となりました。


長大4路線の中ではこの前日に標津線が廃止となり、池北線は第3セクターの北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線への転換が決まり(転換は同年6月4日)、この名寄本線と天北線の廃止によって、北海道内では国鉄再建法に基づく廃止対象路線の廃止が完了しています。


仮乗降場名の由来

「北海道の駅 878ものがたり」によりますと、「この辺りの地区名からとった」とあります。

所在地は枝幸郡中頓別町上頓別で、現在の住所には「恵野」というものはないようです。

正確な命名の経緯は不明ですが、開拓地に願望地名として付けられがちな地名です。

昭和30年代に命名された国鉄の乗降場にしては現代風に感じられる名称ですが、これも仮乗降場ならではと言えるのでしょうか。


以下は参考情報となります。

「角川日本地名大辞典 北海道(上)」に上頓別の「恵野」という地名は出ていないものの、「上頓別」の項を見ますと、明治末期に定着者が現れ、明治45年に福島県田村郡から4戸が入植したのが最初の記録となっています。

同書の記述から察するに、上頓別の地にはアイヌの人々の定着はなかったようですが、上頓別から分かれる道道647号「兵安上頓別停線」によって結ばれている「兵安」の地区名(中頓別町の字名)は「兵知安川(べいちあんがわ、ペーイチャン川とも)」という河川名によっており(pe-ichan;川上のサケ・マスの産卵場、の意)、アイヌ語地名が一帯に皆無であったというわけではないようです。

上頓別の地名は公的には国鉄宗谷線(後の天北線)の駅名として大正5(1916)年に付いたのが初出のようで、行政字名としては昭和13(1938)年に中頓別村(当時)の字名として初めて出現しました。

昭和30(1955)年には上頓別全体で92戸530名の人口を誇り、恵野仮乗降場が開設された昭和31年はまさに絶頂期であった頃です。

昭和40(1965)年には73戸376名、昭和50(1975)年には40戸148名まで減少、現在の上頓別駅跡や恵野駅跡附近には国道275号線こそ通っていますが、一帯は農場が広がるのみで、開拓が始まった頃の「上頓別原野」と呼ばれた時代の姿に還りつつあり、人家は多くありません。


なお千歳線の「恵み野駅」の由来は前掲の「北海道の駅 878ものがたり」によれば、「恵み野ニュータウン団地があり、俗称として『恵み野』が定着していることと、地元の要望もあり『恵み野』とした。」と記述されています。

ニュータウン名の「恵み野」は、所在する自治体である「恵庭市」の「恵」と、広大な土地としての「野」をとって命名されたそうですので、天北線の「恵野」とは由来は異なります。

なお「恵庭(えにわ)」はアイヌ語地名で、「エエニワ」、すなわち「エ・エン・イワ」(頭のとがった山、恵庭岳のこと)から来ているそうです。

「e-en-iwa」で、「e」は「頭、顔」、「en」は「尖っている」の意ですが、「e-en」で熟語的に完動詞として用いられて「鋭い、先が尖っている、刃が切れる」という語義になります。

「iwa」は「岩山、山」の意で、古くは祖先の祭場のある神聖な山を指したそうですが、現在ではただの山の意に用いる語だそうです。

したがって、和語の「岩」と同じ音ですが和語に由来するものではないと考えられています。



ダイヤ

天北線の運行系統は浜頓別駅を境に分かれていましたか、仮乗降場についても浜頓別駅以南の各仮乗降場と、以北の各仮乗降場とでそれぞれ停車ダイヤは足並みを揃えていました。

最末期に近い、昭和63年3月13日の改正、この改正では青函トンネルが開業していますが、この時の天北線は音威子府駅から南稚内駅まで全線を通して運行する列車は下り6本、上り5本、それに加えて急行「天北」1往復でした(この時点では客車列車でした)。

区間列車としては、下りは朝に休日運休の声問発稚内行き、夜の最終として音威子府発浜頓別行きが、上りは朝に稚内発声問行き(南稚内〜声問間は休日運休)と浜頓別発音威子府行き、夕方に稚内発曲淵行きが設定されていました。


恵野仮乗降場改め恵野駅については、朝一と最終の下り2本、最終の上り1本が通過、停車は上下とも5本でした。

この数字は音威子府〜浜頓別間の他の元仮乗降場と同数となります。

一方、浜頓別〜南稚内間の元仮乗降場は安別駅に1本の通過がある以外は上りは全列車停車でしたが、下りは前述の朝一の1本が安別と飛行場前も通過していました。

北頓別仮乗降場飛行場前仮乗降場を取り上げた際にも出ましたが、宇遠内仮乗降場は最後まで一貫して全普通列車停車という扱いでした。




天北線は、元々交通路として重要であった天塩川ルートをとらず、頓別川ルートからオホーツク沿岸の開拓を目指して開通した、元の宗谷本線の一部でした。

天塩川ルートが宗谷本線に編入されて頓別川ルートは天北線として切り離されたものの、最後まで急行列車も運転されていた、重要路線であり続けました。


今回取り上げた恵野仮乗降場を含む頓別川上流域のエリアは、産業の斜陽化で原野に還りつつあります。

それでも先人たちの、豊かな恵みある土地となりますようにという願いを込めて付けたと思われる「恵野」の地区名は、今もこの地に刻まれています。

地名としては失われたものの、駅跡という形で現在も駅名に触れることができます。

新天地を目指して入植した昔日の人々の熱い想いを偲ぶよすがとして、語り継がれていって欲しい地名です。


今回もお読み頂き、ありがとうございました。