飛行場がない飛行場前(ひこうじょうまえ)仮乗降場…。

北海道の仮乗降場としてはかなり有名なところでした。


この仮乗降場は、仮乗降場多産地帯であった天北線のなかでも、山軽駅〜浅茅野駅に安別仮乗降場とともに2連続の仮乗降場として一際目立っていました。


天北線は宗谷本線の音威子府駅から東に分かれてオホーツク海岸に沿って北上し、南稚内駅で再び宗谷本線に合流する長大な路線で、JR化後も廃線間際まで急行列車も運転されていました。

元々は宗谷本線の一部として開通し、遅れて日本海側の幌延駅を経由する現在のルートが開通後、そちらに宗谷本線の名を譲り、こちらは天北線という別路線として切り離されました。


国鉄再建法に基づく特定地方交通線の路線廃止は、路線名単位での執行であったため、天北線という独立した名前がもらえたばかりに廃止対象となりました。

似たような例として、日田彦山線と添田線の例などがあります。

いずれにせよ、後からできた方が土木技術の進歩などでルート的にも優れていることが多く、本線の名を譲るということはそちらの方が人口の流動が大きかったり主要な街を通っていたりする場合が多く、本線から転落したローカル線の悲哀を感じるところであります。

特に添田線などは美幸線と一二を争う「国鉄の赤字ワースト路線」という不名誉な称号の常連でしたので、廃止もやむなしでした。

ちなみに昭和43(1968)年からのいわゆる「赤字83線」の廃止の取り組みで廃止となった中に、添田線と同じ福岡県にあった幸袋(こうぶくろ)線というのがありました(昭和44年廃止)が、そちらも廃止直前は国鉄きっての赤字路線として知られていました。

福岡県と北海道とでは、石炭産業の隆盛と斜陽化という、共通した要因があります。

北海道の場合はさらに離農やニシン漁の衰退などの要因も合わさっています。


仮乗降場来歴

昭和30(1955)年12月2日

 局設定の仮乗降場として開設

昭和62(1987)年4月1日

 国鉄民営化に伴い正駅となる

 JR北海道飛行場前駅に

平成元(1989)年5月1日

 路線の廃線により廃止


この昭和30年12月2日というのは、宗谷本線に一斉に大量の仮乗降場が設置された日でもあります。

現在、仮乗降場時代の面影を色濃く残しており物置改造の待合室があることでも人気の「糠南(ぬかなん)駅」もこの日の開設です。

天北線にも同時にたくさんの仮乗降場が生まれましたが、飛行場前のお隣の安別仮乗降場は昭和31年11月19日開設です。

余談ですが、仮乗降場は晩年に冬季休止になるケースが散見される一方、開設も11月〜2月の冬季だったというケースが多いように感じるのですが、偶然なのでしょうか。

道路の整備がまだ不十分で、冬季の交通をかなりの度合いで鉄道に依存していた昭和30年代前半という時代背景も関与しているとは考えられますが、あくまで私の個人的な推測に過ぎませんので、悪しからず。


仮乗降場名の由来

「名は体を表さない」仮乗降場として語り草になっている当乗降場ですが、戦中は軍用飛行場が確かにこの地にありました。

大戦末期に浅茅野飛行場として建設されたものの、程なくして敗戦を迎えたため、飛行場としては殆ど活用できず、仮乗降場が開設された時点では飛行場の設備も既に撤去済みであったようです。

戦中であれば防諜上、「飛行場前」などという仮乗降場名にはしなかったでしょうから、ある意味では飛行場が役目を終えたことで「飛行場前」となったとも言え、なんとも運命のいたずらを感じます。


ダイヤ

昭和37年交通公社版時刻表によりますと、この区間、一日5往復の普通列車があり、うち下りの一番列車と、上りの最終列車が当乗降場を含む多くの仮乗降場を通過するダイヤであったほかは、飛行場前仮乗降場については普通列車は全て停車していました。

当時の天北線の仮乗降場は皆、同じ停車本数に揃えられていたようで、一足早く廃止された北頓別のみ、下り2本が通過となっていた他は、いずれの仮乗降場も一日1往復のみ通過となっていました。

ただし、宇遠内仮乗降場のみ、急行以外は全列車停車とされていました。

浜頓別駅以南では、1往復本数が多くなりますが、下りの音威子府駅〜浜頓別駅間の区間列車は仮乗降場を全て通過する列車ですが、上りの浜頓別駅〜音威子府駅間の区間列車は仮乗降場にも全て停車していました。

区間列車として他には、幕別駅(後の恵北駅)〜稚内駅(下りは南稚内駅止まり)1往復、曲淵駅〜稚内駅1往復の設定がありました。


一方、JR化後間もない昭和63年のJR北海道発行の時刻表を見ますと、下りは一日6本に増えていますが、やはり一番列車は仮乗降場由来の駅は宇遠内以外全て通過としており、飛行場前仮乗降場改め飛行場前駅はこの下り1本のみが通過となっていました(急行は除く)。

上りは5本のままでしたが、最終列車は仮乗降場由来の駅のうち宇遠内と飛行場前、常盤に停車し、安別、新弥生、寿、上駒、周磨、恵野は通過するという運用でした。

浜頓別以南に1往復区間運用が設定されているのも昭和37年と変わりありません(下りは仮乗降場由来の駅を全て通過)。

稚内口の区間運用ですが、恵北折り返しの方は声問折り返しに一駅短縮され、曲淵駅折り返しの列車は上りの稚内発曲淵行きの片道のみの運転となっていました。

天北線はこの翌年、平成元年には廃線となってしまいますが、最期まで、一日1往復、急行「天北」が札幌と稚内とを天北線経由で結んでいました。

天北線内の停車駅は上下とも、小頓別、中頓別、浜頓別、鬼志別でした。

小頓別、中頓別、浜頓別と似た名前の停車駅が続きますが、小頓別~浜頓別間は45.8kmもあり、下りで48分、上りで49分を要しており、誤って下車すると大変なことになったことでしょう。

なおこの時点では、上音威子府駅は冬期営業休止となっており、全列車が通過扱いでした。



仮乗降場多産地帯であった旭川鉄道管理局管内の仮乗降場は、数が多いゆえに、ともすれば殆ど記憶に残らず埋もれてしまうものですが、当乗降場は、その名前ゆえに現役当時から知名度を獲得し、今も語り継がれている、ある意味では幸運な仮乗降場だったかも知れません。

同じ山軽駅〜浅茅野駅間にあった弟分の安別仮乗降場と比べても、今日においては圧倒的に飛行場前仮乗降場の方が話題に上るように思われます。