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ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

絵画、衣装作品や製作風景を紹介。

[尾張國 熱田太神宮縁起   現代語訳 その五]


下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。


現代語訳 :  三村  稔


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日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、ご帰還されて尾張の国に向かわれた。篠木(しのぎ)に到着されて、お食事をされていると、稲種公(イナダネのキミ)の従者である久米の八腹(クメのヤハラ)というものが、駿馬にむち打ち、急いで参上して、申し上げるには、

『稲種公が、海に落ちて、お亡くなりになりました。』

日本武尊は、突然の訃報にお悲しみになり、涙を流されて、おっしゃるには

『現や、現や』(うつつや、うつつや)

※この『うつつや』の言葉によって、その地を【内津】(うつつ)といい、社は、今、天神と録され、春日部の郡にある

また、日本武尊は、『稲種公は、どうして海に落ちたのか?』とお尋ねになり、それに八腹が、答えて申し上げるには

『駿河の海上を渡っておりましたところ、鳥がおりました。鳴く声も可憐で、羽根が美しくございましたので、この鳥のことを尋ねますと、この地方では、[鶚駕鳥(みさごどり)]と呼ぶとのことでございました。
稲種公は、「この鳥を捕らえて、我が君(日本武尊)に献上しよう!」とおっしゃって、帆を上げて、鳥を追われました。
そのとき、風波が荒くなり、船が傾き沈み、稲種公も海に落ちてしまわれました。』

日本武尊は、お食事されていたものをお吐きになり、食欲を失くされ、悲しみお嘆きになって何も、お手につかなくなってしまわれた。

そこで、行幸を促し申し上げて、宮須媛の屋敷にお帰りになられた。

この時、お食事を献上し、宮須媛は、自ら玉盃を献上されていると、この媛の着ている衣裾([衣裾]をヲスヒという)が、月水で染まっていた。

日本武尊は、これをご覧になって歌われておっしゃるには、

マソキ  ヲハリノヤマト    

まそぎ  尾張の大和  

ヲチコチノ  ヤマノ  カヒヨト(カヒト)

をちこちの  山の  かひ(峡)よ(由、ゆ)と

 ミワタルヒ  カハノハ

視わたる日 かはのは

(註:1)

ホソタワヤ  カヒナヲ

細たわや        腕を 

マキネムト  ワレハモヘルヲ

まき寝むと  我は思へるを

ヨリネムト  ワレハモヘル

寄り寝むと  我は思へるを

ワキモコ  ナカケセル

吾き妹子  汝が着せる

ヲスヒノウエニ(ニ)  アサツキノコトク

衣裾の上に       あさ月の如く

ツキタチニケリ

月 立ちにけり

宮須媛は、お答えになって歌われて申し上げるには、

ヤスミシシ  ワカヲホキミ  タカヒカル  ヒノミコ

八富知し  我が大君  高光る  日の御子

アラタマノ  キヘユクトシヲ  トシヒサニ

あらたまの  来経行く年を  年久に

ミコマチカタニ  ツキカサネ

皇子 待ちかたに  月 重ね

キミマチカタニ  ウヘナ ウヘナ

君 待ちかたに うべな うべな

シモヤ

しもや

ワカケセル  ヲスヒノウエニ

我が着せる 衣裾の上に

アサツキノコトク  ツキタチニケル

あさ月の如く 月立ちにける

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[記紀との比較]

註:1 [古事記]には、

 サワタルクビ   ヒハホソ   タワヤカヒナヲ
さ渡る鵠             弱細          たわや腕を

とある。

次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注] 156頁1行を参考

ミワタル  ヒ  カハノ    ホソ  タワヤ 
と、この文献の註釈者は、『カハノ(何波乃)』を四角く囲んでルビを当てていない。

[古事記]には、「尾張国に還り来て、先の日に契りたまひし美夜受比売の許に入りましき。ここに大御食献りし時、・・・・」とある。

次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注] 155頁12~13行

[日本書記]には、「尾張に帰られ、尾張氏の宮簀媛をめとって、長く留まられた。」とある。
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀(上)] 170頁11行

ともに、篠城での稲種公のエピソードの記述はない。

※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。

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尾張國 熱田太神宮縁起   現代語訳 その四

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳    三村  稔


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ここに日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、上総(カズサ)より陸奥(ミチノク)に入られ、大鏡を船首に懸け、海路より葦の浦を廻って、玉の浦を横切り渡られた。

稲種公(イナダネのキミ)もちょうど、その場所で参上し、山道の様子を細々とご報告申し上げ、共に蝦夷(エミシ)の地に向かった。

その蝦夷の賊長、島津神、國津神たちは、竹の水門(ミナト)に集まって、抵抗しようとしたが、遥か遠くに、大王(日本武尊)の御威勢を拝見し、自ら後ろ手に縛り、首を痛めつけ(面縛手過)、共に弓矢を奪い、日本武尊に拝して、申し上げるには、

『貴方様は、御容貌を仰ぎ御拝見致しますに、人倫が秀でていらっしゃり、御威の猛々しさは、神のようでございます!どうか、お名前を教えて頂きたく存じます。』

王(日本武尊)は、これにお答えになっておっしゃるには、

『我は、現人神(アラヒトガミ)の子である』

ここに、蝦夷たちは畏れおののき、天皇の徳に帰した。

そのため、その罪をお許しになり、その賊長を捕虜にされて、その身をお従わせになられた。

蝦夷は、すでに平定され、日高見(ヒダカミ)の国より退いて西南に廻り、常陸(ヒタチ)を経て甲斐の国に到着され、酒折(サカオリ)の宮に滞在された。

夜が深くなり、人々も寝静まる頃、ともしびを灯してお食事をされた。

この夜、歌をもって侍者たちにお問いになっておっしゃるには、

ニヒバリ ツクバ  ヲスギテ イクヨカ ネツル
(新治  筑波を過ぎて  幾夜か  寝つる)

諸々の侍者たちは、答えることができなかった。

灯火をとる者が、王の歌の末に続けて申し上げるには、

カガナヘテ  ヨニハココノヨ  ヒニハ  トヲカヲ
(考なへて  夜には九夜  日には  十日を)

そうすると、灯火をとる者をお褒めになって厚く褒美をお与えになった。


日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、稲種公(イナダネのキミ)と更にご相談されておっしゃるには、

『私は、山道を行こう。公は、海道から帰還せよ。尾張の宮酢媛の屋敷でまた会おう。』

日本武尊は、甲斐より北に転じ、武蔵・上野を経て、西の碓水坂に到達した。突然、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を恋しく思われた。

そのため、碓水の嶺にお登りになって、東南の方を向かれて、お嘆きになっておっしゃるには、

『吾嬬(アヅマ)はや』
[嬬]は、ここでは、[ツマ]という。

そのため、坂東の諸国を名付けて[吾嬬(アヅマ)の国]というのだ。


(日本武)尊は、お進みになり信濃にお入りになった。山は高く、谷は深く、人馬が通ることも滅多にない。

日本武尊は、杖をつかれて、裳の裾を持ち上げて、山野を歩かれた。長らく進まれて、山の頂きに到達され、お食事をされて飢えを癒された。

山の神は、王を悩まそうとして、白鹿に化けて王の前に立った。王は、これを怪しまれて一個の蒜(ヒル、ニンニク)を白鹿にむかって、投げつけられると、眼に当たって死んでしまった。

そうすると、王はたちまち道を失われ、進む方向がわからなくなられた。その時、白い犬が自らやって来て、王をお導びきしようとした。犬について行かれると、美濃に出ることができた。

これより先、信濃坂を渡る者は、神気にあたり、病み臥すことがみだりに多くなった。
鹿の死後、この山を越える者は、蒜を噛んで、人や牛馬に塗れば、毒気にあたらずにすんだということだ。

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[記紀との比較]

[日本書紀]からの引用が多いように思われるが、稲種公との合流や再び別れる記述は、[日本書紀]にはない。
また、酒折の宮では、大伴の武日に兵士を与え、その後、日本武尊は、信濃に行き、越の国に吉備武彦を使わし別れたが、白犬に導かれた後に合流したという記述があるが、この縁起では、記述されていない。

[古事記]では、細かいやり取りがあまり描かれていない。
エソードの順が異なり、蝦夷平定→蒜と白鹿→「あづまはや」→酒折の宮の歌となっている。

※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。



尾張國 熱田太神宮縁起   現代語訳 その三

下記のサイトで原文を閲覧できます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳    三村  稔


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日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、駿河に到着された。その地の賊長は、服従したふりをして、欺いて申し上げるには、

『この地は、野原がもの寂しく、四方、遠いところまでよく見えます。大きな鹿たちが、群れをなしておりますので、ぜひとも、狩をお楽しみください!』

日本武尊は、その言葉をお信じになり、野中に入られ、獣を探し求められた。

賊は、(日本武尊を)謀り殺そうとして、火を放ってその野を焼いた。

日本武尊は、突然の騙し打ちに、為す術もなくいらしたが、その帯びておられた神剣が、ひとりでに抜け出て、四方の草を薙いだ。

また、持っておられた嚢を開かれたところ、中に火打が一枚あった。

驚きお喜びになり、火を打たれ、向かい火をおつけになって、お免れになられた。そして、ことごとく、その賊党を焼き滅ぼされて、生存者はいないほどであった。

そのため、その地域を名付けて、[焼津](ヤイヅ)と言う。
今は、[益津(ヤクヅ)]の郡と訛っている。

その剣を名付けて、[草薙]と言う。
[草薙]は、[クサナギ]と言う。


また、相模(さがみ)を経て、上総(かずさ)に向かおうとされ、海を望んで、言挙げ(高言)をされて、おっしゃるには、[高言]を[言挙げ]と言う。

『これは、小さな海だ!立ち跳ねてでも、渡ることができよう!』

すると、海の中ごろに至ると暴風がたちまち起こった。

王(日本武尊)に従う側妻で、名を弟橘媛(オトタチバナヒメ)という者がいた。
穂積氏の忍山宿称(ヌシヤマのスクネ)の娘である

王に申し上げて言うには、

『今、風や波が激しく怒り、王船は、まさに沈んでしまいそうでございます。これは、きっと海神の心でございましょう。どうか、我が身をもって、王の命を贖わせてくださいませ!』

この言葉を言い終えないうちに、波に向かって、水中に入ってしまった。

そうすると、風が和らぎ、波が静まって、王船は、岸に着くことができた。

その時代の人は、その海を名付けて、[馳水](ハシリヅ)といった。

弟橘媛は、海に入って後、七日目になって、御櫛が、波にのって、浜辺についた。それで、その櫛をとって、墓を作り、安置した。

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[記紀との比較]

[古事記]においては、焼津のエピソードは、相模の国で、国造(クニノミヤツコ)に荒ぶる神が沼にいるという進言で、騙されている。

[日本書紀]の記述がほぼ採用されている。
剣みずからが、抜け出して、草を薙ぐというのは、『一説によれば』と少し控えめに記す。

今の焼津は、駿河の国だが、古事記の誤記である、とか、相模の国に焼津が別である、とか、焼津は、もともとは、相模国であった、など様々な説がある。


※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。

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