尾張國 熱田太神宮縁起 現代語訳 その二
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冬十月 壬子(みずのえ ね) 癸丑(みずのと うし)
日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、(東征に)出発された。
戊午(つちのえ うま)
回り道をして、伊勢太神宮を参拝され
斎王 倭姫命(ヤマトヒメのミコト)
斎王は、日本武尊の叔母にあたる。
に申し上げて、おっしゃるには
『 今、勅命を承って、東方に逆賊征伐に参ります。お顔をお慕いするあまり、回り道をして、お別れのご挨拶に参りました。』
倭姫命は、そのお志に感動されて、一振の神剣をお授けになって、おっしゃるには
『決して、身から話すことがありませんように!』
また、一つの御嚢をお与えになって、おっしゃるには
『もし、危険な事態に陥ったなら、その嚢の口をお解きなさい!』
日本武尊は、剣と嚢を拝領され、もとの行路へと戻られると、尾張の国、愛智郡に到着された。
その時、稲種公(イナダネのキミ)が、申し上げるには、
『 この郡、氷上の邑(さと)は、私の故郷でございます。どうか、大王。 行幸をお抜けになって、ここでお休みください。』
日本武尊は、その熱心な誠意にこころ打たれ、
その地に留まれた。
その間に、ふと、一人の美しい乙女をご覧になり、その名をお尋ねになられた。
その乙女は、稲種公の妹君で、
名は宮酢媛(ミヤスヒメ)であるとお知りになった。
すぐに、稲種公にご命令になって、その美しい娘をお娶りなり、ご結婚の後は、そのご寵愛は、極めて厚かった。
数日、久しく留まられ、お二人離れることができないほどであった。
そして、稲種公と行路の事を相談してお決めになり、おっしゃるには
『私は、海道を進もう。(稲種)公は、山道を進みなさい。かの坂東の国(箱根山から東の地)で必ず会おう!』
言葉を交わして、お約束になり、それぞれ先の道を進んでいかれた。
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[記紀との比較]
伊勢神宮での倭姫命とのエピソードでは、
[日本書紀]には、剣のみで、嚢の記述はない。
※次のエピソードで出る火打は、もともと持っているように記述されている。
[古事記]には、剣と嚢の記述がある。
また、[古事記]では、東征について、これは、帝に疎まれた自分を亡きものにするために違いないと、日本武尊が嘆く姿が描かれる。
紀記の双方のエピソードが絶妙にまざっている。
尾張の国に立ち寄るエピソードは、[日本書紀]にはなく、[古事記]には、記述がある。
[古事記]より、さらに詳しく、建稲種公の懇願や宮酢媛との出会いのエピソードがあるが、注目すべき相違点は、結婚の時期である。
[古事記]においては、この時には、婚約のみし、伊吹山に赴く前に帰還した折りに結婚しているのに対し、[熱田大神宮縁起]では、この始めの出会いの時に、
『即ち、稲種の公に命じて、佳娘を娉納(めと)る。合巹(ごうきん)の後、寵幸 周く厚し。 数日、ひさしく留まりて、手を分かつに忍びず』とあり、
稲種公の妹と知るや否や、すぐに、結婚をして、離れず一緒にいたように描写される。
[古事記]では、東征からの帰還後、尾張の国で、宮酢媛と歌を交わされた後に
『かれ、ここに御合ひしまして、』と改めてその時、結婚された様子が描写されるが、
[熱田大神宮縁起]では、そのような描写はなく、夜に草薙の剣が光ったエピソードに続くので、東征前に結婚されているように思われる。しかし、強引に[古事記]の記述に合わすなら、
この『ひさしく留まりて』は、東征からの帰還後の滞在のことだと解釈できなくはない。
※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)]
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。
↓氷上姉子神社近くにある[寝覚の里]
日本武尊と宮酢媛が過ごした屋敷跡と伝えられている。
氷上山の頂上にある屋敷跡(熱田神宮 元宮)と少し離れており、日本武尊がそちらに滞在し、媛は、こちらの方に控えてたので、すぐには会わなかったのかもしれない。
氷上山は、今は森になっているが、もう少し木が少なければ、当時、海岸線にあるこの屋敷を上から見ることもできたので、媛を遠目に見るには、丁度よいかもしれない。

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