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ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

絵画、衣装作品や製作風景を紹介。

今日は、みなさんに、感謝を申し上げます!

なんと、記事ランキング3位になりました。
全く何故なのか、わかりませんが(@_@)
皆様のお力添えのお陰です。

加えて、先の6月20日に成海神社に参拝しましたが、そのご神徳もあるかと思っています。
※天赦日と一粒万倍日と神吉日が重なるとのことです。どれも初めて聞きましたが(@_@)

YouTubeなどで、運気がいい日で、何か始めるのがいい日とか神社にいくといい、などと聞いていましたので、早朝に今、作っている女性用の装束を持って、神社にいって神様にお見せしました。

早朝でしたが、他の方もいたので、一瞬、装束のコーデを『この衣に、この裳に、この帯に、このヒレ』とお見せしたくらいですが。
姫神さまにその旦那さまとお兄さんですから、お喜び頂けたのかなぁと。

そのあとは、目標としていたことが難なくクリアできておりまして、新しい目標も抱けた次第です。

去年から、止まってしまっていた衣装のアイデアも、もう生地も買ってあったんですが、そちらでも、『はっ』として、『そーゆうことか!』と、いう次第で、同じ生地で、造る物を変えまして、とてもいい具合になっています。
※それでも、まだ使うかまだわかりませんが(@_@)

まさに[インスピレーション]といった具合です。

私事ですが、コロナの影響を多大に受けまして、約2ヶ月の自粛がありました。
反面、止まっていた方面の制作もかなり進めることができているのですが、今年は、今までのような大作の制作は難しく、できることを少しづつといった具合になりそうです。

[熱田太神宮縁起]は、あと八回くらいあるかと思いますが、こちらも、この神話を広く知って頂きたいというだけの思いでやっておりますので、引き続き、こ支援よろしくお願いいたします。

[熱田太神宮縁起]の最後には、こんな言葉がありました。

庶わくば、神明の霊跡、万代の長伝となさしめむ!

願わくば、この神様の書物が、いく世代にも長く語り継がれますように!というような意味です。少しでも、お役に立てることを願います。







去年(2019年)の中部白日展に出品した作品です。

今は、基礎からやり直すつもりで、バルグレッスンなどもですが、アカデミックな人体の勉強もし直しております。
※今は、漢文とにらめっこしてますけど(@_@)
(僕は、もともと史学科なので、それはそれで懐かしく楽しんでおります。)

豊田市美術館でクリムト展を観た時に、『クリムトうめぇ~(>_<)』と10代後半のクリムトに打ちのめされたので、制作したような具合です。

題は、[ 後ろ手を組む若い男 ]とつけてますが、ただの人体デッサン的な油彩です。

モデルは、大学の野球部で頑張ってた男子なので、顔も腕も足も真っ黒(@_@)

[ 後ろ手を組む若い男]
M30号  油彩   2019年制作







↓制作途中の画像が残ってたので。
グリザイユをして、モデリングしてますが、まだまだ足りないですね・・・


尾張國 熱田太神宮縁起   現代語訳 その二 

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳    三村  稔


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冬十月  壬子(みずのえ ね)   癸丑(みずのと うし)

日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、(東征に)出発された。

戊午(つちのえ うま)

回り道をして、伊勢太神宮を参拝され

斎王  倭姫命(ヤマトヒメのミコト)
斎王は、日本武尊の叔母にあたる。

に申し上げて、おっしゃるには

『 今、勅命を承って、東方に逆賊征伐に参ります。お顔をお慕いするあまり、回り道をして、お別れのご挨拶に参りました。』

倭姫命は、そのお志に感動されて、一振の神剣をお授けになって、おっしゃるには

『決して、身から話すことがありませんように!』

また、一つの御嚢をお与えになって、おっしゃるには

『もし、危険な事態に陥ったなら、その嚢の口をお解きなさい!』

日本武尊は、剣と嚢を拝領され、もとの行路へと戻られると、尾張の国、愛智郡に到着された。

その時、稲種公(イナダネのキミ)が、申し上げるには、

『 この郡、氷上の邑(さと)は、私の故郷でございます。どうか、大王。 行幸をお抜けになって、ここでお休みください。』

日本武尊は、その熱心な誠意にこころ打たれ、
その地に留まれた。

その間に、ふと、一人の美しい乙女をご覧になり、その名をお尋ねになられた。

その乙女は、稲種公の妹君で、
名は宮酢媛(ミヤスヒメ)であるとお知りになった。

すぐに、稲種公にご命令になって、その美しい娘をお娶りなり、ご結婚の後は、そのご寵愛は、極めて厚かった。

数日、久しく留まられ、お二人離れることができないほどであった。

そして、稲種公と行路の事を相談してお決めになり、おっしゃるには

『私は、海道を進もう。(稲種)公は、山道を進みなさい。かの坂東の国(箱根山から東の地)で必ず会おう!』

言葉を交わして、お約束になり、それぞれ先の道を進んでいかれた。

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つつぎは、こちら↓↓↓

[記紀との比較]

伊勢神宮での倭姫命とのエピソードでは、
[日本書紀]には、剣のみで、嚢の記述はない。
※次のエピソードで出る火打は、もともと持っているように記述されている。
[古事記]には、剣と嚢の記述がある。
また、[古事記]では、東征について、これは、帝に疎まれた自分を亡きものにするために違いないと、日本武尊が嘆く姿が描かれる。

紀記の双方のエピソードが絶妙にまざっている。

尾張の国に立ち寄るエピソードは、[日本書紀]にはなく、[古事記]には、記述がある。

[古事記]より、さらに詳しく、建稲種公の懇願や宮酢媛との出会いのエピソードがあるが、注目すべき相違点は、結婚の時期である。

[古事記]においては、この時には、婚約のみし、伊吹山に赴く前に帰還した折りに結婚しているのに対し、[熱田大神宮縁起]では、この始めの出会いの時に、
『即ち、稲種の公に命じて、佳娘を娉納(めと)る。合巹(ごうきん)の後、寵幸 周く厚し。 数日、ひさしく留まりて、手を分かつに忍びず』とあり、
稲種公の妹と知るや否や、すぐに、結婚をして、離れず一緒にいたように描写される。

[古事記]では、東征からの帰還後、尾張の国で、宮酢媛と歌を交わされた後に
『かれ、ここに御合ひしまして、』と改めてその時、結婚された様子が描写されるが、
[熱田大神宮縁起]では、そのような描写はなく、夜に草薙の剣が光ったエピソードに続くので、東征前に結婚されているように思われる。しかし、強引に[古事記]の記述に合わすなら、
この『ひさしく留まりて』は、東征からの帰還後の滞在のことだと解釈できなくはない。

※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。


↓氷上姉子神社近くにある[寝覚の里]
日本武尊と宮酢媛が過ごした屋敷跡と伝えられている。
氷上山の頂上にある屋敷跡(熱田神宮 元宮)と少し離れており、日本武尊がそちらに滞在し、媛は、こちらの方に控えてたので、すぐには会わなかったのかもしれない。
氷上山は、今は森になっているが、もう少し木が少なければ、当時、海岸線にあるこの屋敷を上から見ることもできたので、媛を遠目に見るには、丁度よいかもしれない。


始めからは、こちら↓↓↓