尾張國 熱田太神宮縁起 現代語訳 その一
下記のサイトで原文を閲覧できます。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102
こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。
現代語訳 三村 稔
ーーーーーーーーーーーーーーーー
尾張の国 熱田太神 縁記
(註:[宮]はなし、[縁起]ではなく[縁記]とある)
正二位 熱田太神宮は、神剣を主神(かむざね)としている。
もともとは、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名を改めた。
その社(やしろ)は、尾張の国 愛智郡に立っている。
所以は何かというと
昔、大足彦 忍別天皇(オホタラシヒコ ヲシワケのスメラミコト) は、(註: 第12代 景行天皇)
播磨の稲日太郎媛(イナヒヲホイラツヒメ)を皇后とされ、お二人の皇子がお生まれになった。
第一皇子を大碓命(オヲウスのミコト)と申し上げ、第二皇子を小碓尊(ヲウスのミコト)と申し上げる。
1日のうちに、同じお腹に双子でご誕生されたので、天皇は、これは好ましくない思われ、碓(うす)に向かって叫ばれた。
そのため、そのお二人は、『大碓』『小碓』と申し上げる。
小碓尊は、またの名を日本武尊(ヤマトタケルのミコト)と申し上げる。
幼い頃から、勇ましく計り事にも長けておられ、壮年になられると、容貌は、逞しく堂々としていて、身長は、一丈(約3m)、力は、鼎(かなえ)を上げることができるほどであった。
景行天皇の四十年 秋 七月
癸未(みずのと ひつじ) の一日
戊戌(つちのえ いぬ) (7月16日)
天皇は、群卿に向かって詔りして、おっしゃるには、
『朕は、東の夷が、反逆をして、荒ぶる神も多く、乱れていると聞く。
国家の忍耐は、非常に苦しい状態にある。
誰を遣わして、その乱を平定させようか。』
群臣たちは、誰を推挙してよいかわからなかった。
すると、日本武尊が、奏上されるには
『 臣(わたくし)は、先頃、西の賊を征伐いたしました。今回のお役目は、大碓命の努めでございましょう!』
大碓命は、この奏上を聞くと、恐怖のあまり激しく動揺し、驚いて逃げ出して、草むらに隠れてしまった。
直ぐに、(天皇は)使者を遣わしてお召しなり、ここに天皇は、おとがめになっておっしゃられるには、
『 そなたが、往くことを望まないのに、どうして強いて、遣わすことがあろうか。
なぜ、賊にまだ相対したのでもないのに、恐れおののき、心迷うのか。
為すべきことを為さぬ責をどの地へ行けば、逃れられるというのか! 』
ここに、日本武尊は、猛々しく大きな声でご奏上されるには、
『熊襲(クマソ)が、既に服従して、まだ幾年も経っていないのに、蝦夷(エミシ)が反乱をしております。討伐し、平定するのは、いつの日となるでしょう。
臣(わたくし)は、身を粉にして、その乱をおさめましょう。』
天皇は、お手に斧鉞(まさかり)をお取りになり、日本武尊にお授けになって、仰られるには、
『多くの夷の中、蝦夷は、荒くれ者どもの長である!父と子の区別もなく、兄弟で疑い合い、各々が、国土を貪り、次から次に掠めとる。
恩を承けても、忘れやすく、怨みごとは、必ず報いる。そのため、頭髻(たぶさ、髪の束ねた
ところ)に矢を隠し、衣服の中に刀を帯びている。
或いは、仲間で群れを作って、辺境を侵略し、或いは、隙間を伺って、平民から奪い取る。
狼の子のような性質で、未だに天皇の徳に従わず、さらに山には、祟り神がおり、郊外には、荒ぶる神がいて、人民を悩まし乱している。
こうした状態が長年に渡っている。
今、朕が、そなたの人となりを見るに、身体は、立派で堂々としており、志は、まさに英雄である。向かうところ、敵はなく、攻めるところ、必ず勝つ!
まことに、形は、我が子であるが、実は、神のような人であると知っている。
この天下は、そなたの天下である。
この皇位も、そなたの位である。
願わくば、深い考えを巡らして、後々の事まで見通した計画を立ててあたり、
内乱の気配を探り、異変を知り
これを知らしめるのに畏れをもってなし、
これを懐かせるのに徳をもってせよ。
弁舌をふるって、荒ぶる神を和合させ
武力をふるって、姦鬼を追い払え 』
日本武尊は、斧鉞をお受けになって、再拝されて奏上されるには、
『臣(わたくし)は、あやまって、虚弱ではございますが、勅命を承りて、東征いたします。
もし、神霊の冥助に頼り、天子の明威を借りて
その場所に行き、教え諭すのに徳ある教えをもってして、それでもなお、服従しないものあれば、兵を挙げて、討伐いたしましょう。』
(日本武尊は、)重ねて、再拝された。
天皇は、勅を出して、吉備武彦(キビのタケヒコ)と建稲種公(タケイナダネのキミ)を日本武尊に付き従わせ、また、七拳脛(ナナツカハギ)を膳夫(かしわで:料理係)とされた。
ーーーーーーーー
続きは、こちら↓↓↓
[記紀との比較等]
『所以者何』から先は、ほとんど[日本書紀]からの抜粋であると思わる。
大碓命は、[日本書紀]では、草むらに逃げた件で、美濃の国に赴任することとなる。
[古事記]では、熊曾征伐前に、小碓尊により、殺害されており、この時には、故人となっている。
東征の副将としては、[日本書紀]では、『吉備の武彦と大伴の武日連』の二人の名があるが、[建稲種公]の名はない。
[古事記]では、『吉備臣等の祖、名は御鉏友耳建日子(みすきともみみ たけひこ)』の一人のみ記述がある。
※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)]
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。















