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今回、登場する[ 稲種(イナダネ)公 ]は、建稲種命(タケイナダネノミコト)のことで、尾張の国造の跡取りで、宮須媛(ミヤスヒメ)のお兄さんです。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に付き従って、従軍していますが、日本武尊が海路なら陸路を、陸路を行かれれば海路を、と別動隊として、軍を進めています。今回は、日本武尊が陸路で戻られる時、海路での事件が語られます。
日本武尊、建稲種命、宮須媛命の3柱の神様が、成海神社の御祭神となっています。
西尾市立図書館蔵 岩瀬文庫【熱田寛平記】より
13頁 8行~16頁 4行
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現代語訳 : 三村 稔
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日本武尊は、ご帰還されて尾張の国に向かい、篠木(しのぎ)に到着されて、お食事をされていると、稲種公の従者である久米の八腹というものが、早馬に乗って、急いで参上して、申し上げるには、
『稲種公が、海に落ちて、お亡くなりになりました。』
日本武尊は、それをお聞きになると、お悲しみになり、涙をされて、おっしゃるには
『現か、現か』(うつつか、うつつか)
※この『うつつか』の言葉によって、その地を【内津】(うつつ)といい、社は、今、天神とされ、春日部の郡にある
また、日本武尊は、稲種公が海に落ちた理由をお尋ねになり、それに八腹が、答えて申し上げるには
『駿河の海を渡っておりましたところ、鳥がおりました。鳴く声も珍しく、羽根が美しかったので、地元の者にこの鳥のことを尋ねますと、[鶚駕鳥(みさごどり)]というとのことでございました。』
稲種公は、『この鳥を捕らえて、我が君(日本武尊)に献上しよう!』と言われて、帆を上げて、鳥を追われました。
そのとき、暴風が吹き、荒波が起こり、船が傾き沈み、稲種公も海に落ちてしまわれました。』
日本武尊は、これをお聞きになるとお食事をおやめになって、食欲もお失くしになり、悲しみのあまり何もお手につかなくなってしまわれた。
そこで、ご招待申し上げ、宮須媛の屋敷にご帰還された。
その時、宴会を催し、宮須媛のお手から杯を献上されていると、この媛の着ている衣裾(これをヲスヒという)が、月水で染まっていた。
※月経があり、経血がついていた。
註) おそらく初潮を迎えたということと思われる。
日本武尊は、これをご覧になって、歌を歌われてるには、
マソキ ヲハリノヤマト ヲチコチノ
まそぎ 尾張の大和 をちこちの
ヤマノ カヒヨト(カヒユト) ミワタルヒ カハノハ
山の かひ(峡)よ(由、ゆ)と 視わたる日 かはのは
(註:1)
ホソタワヤ カヒナヲ
細たわや 腕を
マキネムト ワレハモヘルヲ
まき寝むと 我は思へるを
ヨリネムト ワレハモヘル
寄り寝むと 我は思へるを
ワキモコ ナカケセル
吾き妹子 汝が着せる
ヲスヒノウエニ(ニ) アサツキノコトク
衣裾の上に あさ月の如く
ツキタチニケリ
月 立ちにけり
宮須媛は、お答えになって歌われて
ヤスミシシ ワカヲホキミ タカヒカル ヒノミコ
八富知し 我が大君 高光る 日の御子
アラタマノ キヘユクトシヲ トシヒサニ
あらたまの 来経行く年を 年久に
ミコマチカタニ ツキカサネ
皇子 待ちかたに 月 重ね
キミマチカタニ ウヘナ ウヘナ
君 待ちかたに うべな うべな
シモヤ
しもや
ワカケセル ヲスヒノウエニ
我が着せる 衣裾の上に
アサツキノコトク ツキタチニケル
あさ月の如く 月立ちにける
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註:1 古事記には、
サワタルクビ ヒハホソ タワヤカヒナヲ
さ渡る鵠 弱細 たわや腕を
とある。
ミワタル ヒ カハノ ハ ホソ タワヤ
と、この文献の註釈者は、『カハノ(何波乃)』を四角く囲んでルビを当てていない。
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このあと、[ 鳴海らを~ ]の歌に続きます。
続きは、
画像は、氷上山の熱田神宮寺本宮。
宮須媛のお屋敷の跡地と伝わる場所です。
稲種公の見たミサゴの動画があったので、貼っておきます!↓↓↓





