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ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

絵画、衣装作品や製作風景を紹介。

[尾張國 熱田太神宮縁起  現代語訳  その八]

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。


現代語訳 :  三村  稔


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但し、日本武尊(ヤマトタケルのミコト)が、伊吹山において、病をお受けになった理由は、神剣を御身よりお離しになったためである。


この神剣は、素盞鳥尊(スサノオのミコト)が、出雲の国において、得られたものである。


昔、素盞鳥尊は、天より降られ、出雲の国の簸(ヒ)の河の川上に到着された。

この時、川上から大きな声で泣くのをお聞きになった。その声の主を尋ね求めて行かれると、一組の老いた翁(おきな)と老いた嫗(おうな)がいて、二人の間に一人の少女を置いて泣いていた。


素盞鳥尊は、お尋ねになっておっしゃるには


『お前たちは、何者だ?なぜ、このように泣いておるのか?』


お答えして申し上げるには


『わたくしめは、国津神の大山祇(オオヤマツミ)の子でございます。名は、足名槌(アシナヅチ)、手名槌(テナヅチ)、この少女は、わたくしめの子で、名は櫛稲田媛(クシイナダヒメ)と申します。


泣いておりますのは、以前は、わたくしめには、八人の女子がおりましたが、毎年、尾八岐大蛇(ヲヤマタのオロチ)の為に、呑まれてしまいました。


そして、今、この少女もまた、呑まれようとしておりますが、逃れ免れる手立てもございません。そのために、悲しみ泣いておるのでございます。』


素盞鳥尊がおっしゃるには


『もし、そうであるならば、お前はその少女を我に奉じるべきだ。』


老いた翁は、答えて申し上げるには


『あえて、背きませぬが、どうか、御名をお聞かせください。』


お答えになって、おっしゃるには、


『我は、天照大御神の弟である』


ここで、翁と翁は、(このお方が)天津神と知って拝謝して申し上げるには


『ともかく、仰せのままにお任せ申し上げます』


素盞鳥尊は、たちどころに、櫛稲田媛を湯津瓜櫛(ユツウリグシ)にお変えになり、御髻(みずら)にお挿しになって、足名槌と手名槌に、八醞(やしほり)の酒を醸させて、また、假庪八間(さすきやま)を作り、一面に八つの戸を開き、おのおのに、槽(おけ)を置いて、酒を盛り、そうして大蛇を待った。


その時になって、大蛇がやってきた。頭と尾がおのおの八岐(やまた)ある。眼は、赤酸醤(あかかがち)の如く、松や柏が背の上に生えていて、八つの丘と八つの谷の間に延び広がっている。その腹は、みな爛(ただ)れ破れている。


酒の匂いを嗅いで、八つの戸に頭を分けて、酒を飲んで酔って寝てしまった。その時、素盞鳥尊は、帯びておられた十拳(とつか)の剣を抜いて、その蛇をズタズタにお切りになった。簸の河の水は、しばらく血が流れていた。


蛇の尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そのため、その尾を割り裂いて中を見ると、中に一振の剣があった。これが、いわゆる叢雲(むらくも)の剣であった。


元の名は、天叢雲剣(アメノムラクモのツルギ)。大蛇のいる所の上に常に雲があったため、この名をつけたのだろうか。日本武尊の東征の年になって、名を改めて草薙剣(クサナギのツルギ)となった。


素盞鳥尊は、おっしゃるには


『これは、神剣である。どうして、あえて私が秘蔵するだろうか。』


(それで、)天照大御神に献上されたのだ。


そのため、その大御神の斎女が神剣を拝領していた。それを日本武尊にお授けになったのである



[尾張國 熱田太神宮縁起   現代語訳 その七]

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳 :  三村  稔


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伊吹山に到着されると、山の神は、大蛇に化けて、道を遮り邪魔をした。


日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、主神(かむざね)が蛇に化けているのをお分かりにならないで、おっしゃるには


『この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いであろう!もし、(主神を)殺すならば、どうしてその使者など、愁う必要があろうか!』(注:1)


そして、蛇を越えてお行きになられた。

しばらくすると、暴風が吹き、大雨が降りだし、山や谷は、薄暗く視界が悪くなった。


恐れ慌てられて、山を越えてゆく道もわからなくなってしまわれたが、雨の中を押し切り、強引にお進みになって、やっと山の麓にでることができた。


意識が遠のき、酔っているかのようになってしまわれたが、山の下の泉のそばにお座りになって、その水をお飲みになると、意識がはっきりとされた。故にその泉を名付けて[居醒泉(サノガヰのミツ)]と言うのだ。


それから日本武尊は、お体を病まれた。


尾張にお帰りになろうと伊勢に移られ、尾津の浜に到着された。以前、東征に向かわれた年、この浜辺に停まって、お食事をされた。

この時、一振の剣を帯から解かれ、松の下に置かれた。それをお忘れになって、そこを去ってしまわれたが、今日に至っても、剣はなお、そこにあった。


そのため、歌われておっしゃるには


ヲワリニ  タダニ  ムカヘル


尾張に  直に  むかえる


ヲヅノサキナル  ヒトツマツ


小津の崎なる  一つ松


ワキヲ  ヒトツマツ  ヒトニアリセバ


吾子を 一つ松 人にありせば


タチハケマシヲ  キヌキセマシヲ


太刀 はけましを  衣 着せましを


ヒトツマツ ワキヲ


一つ松  吾子を


(そして、)能褒野に到着されると、異常なほどに衰弱された。


それで、捕虜にしていた蝦夷たちを太神官に献上し、また、吉備武彦(きびのたけひこ)を遣わして、天皇に奏上しておっしゃるには


『臣(わたくし)は、朝廷より命を受け、遠く蝦夷を征伐いたしました。それは、神の恩寵を賜り、天皇の威光にお頼り申し上げて、叛らう者を罪に伏させ、荒ぶる神を自ら柔軟にさせ、ここをもちまして、冑を巻き納め、戈(ホコ)を納め、勝利を祝う歌を歌って、ここに帰還いたしました。


しかるに、天命にたちまち至り、月日は、あっという間に、過ぎてゆくものでございます。


どうして、この身が亡くなることを惜しみましょう。


ご尊顔を拝して、この東征のご報告することが叶いませんことが悔やまれます。』


既に、鈴鹿山をお過ぎになって、病の痛みが危機迫る状態になられた。


そのため、歌われておっしゃるには


ヲトメノ  トコノヘニ  ワカヲキシ


乙女の  床の辺に 吾が置きし


ツルキノタチ  ソノタチハヤ


剣の太刀  その太刀はや


鈴鹿の中瀬をお渡りになると、たちまち水の流れにしたがうように、薨去された。その時、三十歳であられた。


そのため、その瀬を名付けて『能知瀬(ノチセ)』という。

能知(ノチ)は、命が終わるという言葉である。今、改めて『長瀬』というのは、訛ってしまったからだ。


天皇は、これをお聞きになって、安らかにお休みにもなれず、お食事をされても、味をお感じにもなれず、昼夜、咽びお嘆きになっておっしゃるには、


『我が子、小碓王は、昔、熊襲が反逆した時、まだ、総角を結ってもない歳で、征伐に赴き、軍功を上げた。


また、傍らを離れず、朕の及ばぬところを補佐してくれた。


今、東夷が動乱が起こったが、征伐するものがいないので、愛しいと思う気持ちをこらえて、賊の地に送り出した。


少しの間も、この子の事を考えないことはなく、夜明けから、日が暮れるまで、鶴のように首を長くして、その凱旋を待ちわびた。


何の禍ぞ!何の罪ぞ!


意もせずに、にわかに我が子を失うとは。


今より後、いったい誰とともに、帝王の大業を治めるというのか。』


そこで、群卿や諸々の役人たちに勅令を出されて、伊勢の国の能褒野に(日本武尊を)葬らせた。


その時、日本武尊は、白鳥に姿を変えて、陵墓よりお出になられて、大和の国を目指して、飛び去られた。


群臣らは、その棺を開いて、中を見ると、衣の中は空になっていて、お体や骨は見当たらなかった。


それで、使いを急ぎだして、白鳥を追い探させたところ、大和の国、琴弾原(コトヒキのハラ)に(白鳥は)とどまった。それで、その場所に御陵を造った。


白鳥は、更に飛び立って、河内の国の志紀の郡に至り、古市の邑(フルイチのムラ)にとどまった。また、その場所に御陵を造った。


そのため、その時代の人は、この三陵を名付けて、[白鳥の御陵]と言った。


しかし、遂に白鳥は、高く舞い上がり、天に登っていった。(御陵には)ただ衣と冠のみを埋葬したのであった。


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続きは、こちら↓↓↓


[記紀との比較]

(注:1)
[日本書紀]には、
既得殺主神、其使者豈足求乎
とあるが、
この縁起では、
若得殺 其使者 豈足愁乎

となっている。
文脈を考えても、省略か欠落の可能性が高い。

坂本太郎・家永三郎町・井上光貞・大野 晋 校注
[日本書紀(二)] 岩波文庫 481頁 13、14行

内容は、[日本書紀]からのものだが、[日本書紀]では、病を受けてから、尾張の国に帰還したが、『宮簀媛の家に入らないで、伊勢に移って尾津に着かれた。』とある。
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 講談社学術文庫
171頁5~6行

この縁起では、尾張に帰っていないところは、注目すべきところである。

ご病気の最中の歌は、『ヲワリニ タダニムカヘル・・・』の松の剣の歌のみ。

[古事記]においては、山の神は、牛のような大きさの白い猪とされる。
息吹山~居寝清泉(いさめのしみず)~当芸野(たぎの)~杖衝坂~尾津崎で、松の剣の歌を歌われ、三重村~能褒野という行程が記される。
ヲトメノ トコノヘニ・・・』の歌は、亡くなる直前の歌と記される。

※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。


はじめからは、こちら↓↓↓


[尾張國 熱田太神宮縁起  現代語訳  その六]

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳    三村  稔


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日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は、また歌われておっしゃるには

ナルミラヲ   ミヤレバトホシ  ヒタカチニ

鳴海浦を(鳴海辺を)  見遣れば遠し  日高路に(直 徒歩に)


コノユフシホニ    ワタラヘムカモ

この夕潮に   渡らへむかも

ナルミ】というのは、宮酢媛(ミヤスヒメ)の住んでいる郷の名で、【成海】というところである。

これより、前にも日本武尊は、甲斐の国の板折の宮において、宮酢媛を恋しく思われ歌われた

アユチカタ    ヒカミアネコハ   ワレコムト

年魚市潟(あゆち潟)  氷上姉子は  我れ来むと

トコサルランヤ   アハレアネコヤ
   
床 去るらんや   あはれ  姉子や

この数首の歌は、地方民謡(風俗歌)になっている。

日本武尊は、久しく滞在されている間、夜中に厠にいかれた。

その辺に一本の桑の樹があった。帯びておられた剣(草薙の剣)を帯から解かれ、桑の枝にお掛けになった。

厠を出られたが、剣を忘れて寝殿に戻られてしまった。

暁の頃になって、目を覚まされて、桑に掛けていた剣を取りに行こうと思われた。

すると、樹いっぱいに照り輝いて光彩が射していた。しかし、(日本武尊は、)神の光にも、憚られないで、御剣を持ち帰られた。

宮酢媛に桑の樹の光の状況をお伝えになると、媛は、答えて申し上げるには

『この樹は、もともと怪異は(不思議なことは)ございません。なので、剣の光でございましょう。』

そう申し上げると、黙して、そのまま寝てしまった。

その後、(日本武尊は、)宮酢媛にお語りになって、おっしゃるには、

『私は都に帰って、必ず貴女の身を迎えよう』

そして、剣を帯から解かれて、お授けになられておっしゃるには、

『この剣を宝として持ち、私の床の守りとしなさい。』

その時、近習の家臣である大伴建日(オオトモのタケヒ)が、お諌めして申し上げるには

『これを留め置いてはなりません!なぜかと申しますと、これから向かう息吹山には、荒ぶる悪神がいると聞いております。もし剣の気がなければ、どうして毒害を除くことができましょうか!』

すると、日本武尊が、言挙げをされておっしゃるには

『たとえ、かの荒ぶる神がいたとすれば、足を挙げて、蹴り殺してやろう!』

そして、そのまま、剣を留められ、ご出発された。

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続きは、こちらから↓↓↓


[記紀との比較]

[古事記]には、「かれ、ここに御合しまして、その御刀の草那芸剣をその美夜受比売の許に置きて、伊服岐の山の神を取りに幸行しき。」とある。

次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注] 156頁8~9行

[日本書記]には、「尾張に帰られ、尾張氏の宮簀媛をめとって、長く留まられた。そこで、近江の五十葺山に、荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簀媛の家におき、徒歩で行かれた。」とある。
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀(上)] 170頁11~13行

※[日本書紀]、[古事記]の内容は、
宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (上)] 
次田 真幸 著 [古事記(中) 全訳注]
ともに、講談社学術文庫
を参照した。

↑友人によるこの部分の原文写しです。
四行目『先是日本武尊』が『光是日本武尊』と間違えています(>_<)



熱田神宮 元宮 
宮簀媛の屋敷の跡地と伝えられる。