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ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

絵画、衣装作品や製作風景を紹介。

背子(はいし)というベストのようなものを着けた古代の女性の装束です。

背子の下の白い衣(きぬ)も袖を少し広げたものにしています。下の裳(も)も少しグリーンよりのものに変更して、仕立て直しました。

あんまり変わって見えませんが、比礼(ひれ)以外は、前回のとは、別のものです(@_@)

背子を裳の中にインして着る方が奈良時代っぽくなりますし、エレガントかもしれません。
配色は、成海神社の拝殿にかかってる絵を参考にさせて頂きました。

※[古代]としてるのは、神話の時代~古墳時代あたりを想定してますので、衣(きぬ)は、衿なしで左前の合わせにしております。
奈良時代の着方なら、衿ありの合わせは、反対の右前になります。

[日本誕生]という三船敏郎主演の映画では、このような衣装が多く登場しました。
背子は、奈良時代のものなので、この映画でこのような感じで着ているものは、背子とは言わないのかもしれませんが、それでしたら、申し訳ありません(>_<)

神話の時代の衣装は、埴輪などを参考に日本画などで、イメージ化されているので、埴輪の実際の再現とも違いますし、弥生、古墳、飛鳥、奈良といった時代が混ざっていることもあります。
よく唐代の衣装になっていることも多いですね。デコルテを出して、胸の中央で、裳をとめていて、西洋のエンパイアラインに似ています。

古事記などでいうと神武天皇以降は、考古学より考証で、それより前の神代の神様たちは、ある程度、自由でよいのでは・・・と僕は考えております。
神様たちは、死んでないのでずーと生きてる設定ですので、奈良時代の格好してたりそのあたりが混ざってても、好きにコーディネートしてるという具合です。
飛鳥時代以降は、かなり考証が進んでいますので、そのあたりからは、シビアになってゆくと思いますが、文書で残されたという意味の[歴史的]には、日本の資料では、神武天皇の御践祚が、紀元前660年。日本武尊は、一世紀頃。
魏志倭人伝などは、二世紀頃に卑弥呼で、日本書紀の神功皇后あたり。

考古学的には、埴輪や古墳などは、三~五世紀あたりで、これ以前の衣装などは、秦、漢代~三國志と埴輪の間とも言えます。北魏あたりの装束が、埴輪と似てるようにも思えたりで。

いくらなんでも、魏の時代の卑弥呼が唐風の格好をしていたりするのは、どうしても違和感があります。

上の白い衣(きぬ)は、北魏あたりの[袍](ほう)を参考に型紙を作りました。正倉院の写経生の汚れた服も、袍に似た作りです。身頃から、袖が出てくるように丁字状態に袖を足すようにしています。
ネットの画像でみる限りですが、正倉院の写経生の服は、着物のように身頃がまっすぐ四角で、肩のところがなっていて、肩から袖が別布でついているようにみえます。

なかなか考え出すとキリがない時代です。

今回のは、神代の女神様用で、前回の記事のは、人代の姫用です。



再度、作り直しております。古代の衣装(@_@)

これは、上着の[衣]の袖をかなり細目に作ってあります。
堂本印象の[木花開耶媛](※姫では?)で描かれてる衣装を参考にしています。

帯は、倭錦(しずり)を模して、継ぎ合わせて縫ってます。織るのは、挫折しましたので(>_<)

裳も作り直してますが、今、構想中の作品には合わないとなりまして、この色は、また別の機会に登場となりそうです(@_@)

なかなか質感や色が決まりませんが、型紙的な形は、納得できるものになってきました。

袖の広いものもや、男性物も作っています。
まだまだ道のりは長いです(>_<)


[尾張國 熱田太神宮縁起  現代語訳  その九]

下記のサイトで原文を閲覧できます。


http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102


こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。

現代語訳 :  三村  稔


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日本武尊(ヤマトタケルのミコト)が、にわかに昇天されてから後、宮酢媛は、平生の約束を違えず、独り御床を守り、神剣を安置した。


(神剣から)光彩が射すことは続き、霊験も著しく知れ渡った。もし、祈り請う者があれば、信心が神に通じることは、当然の理(ことわり)であるかのようであった。

※則感応同於影響

※影響・・・物に影があり、音に響きがあるように当然の理の意


ここに宮酢媛は、親族や馴染みの者たちを集めて、お互いに相談をされて、おっしゃるには


『わたくしの身は老い衰え、朝夕、将来を期持することが難しくなった。※昏暁 難期 事


わたくしが、この世を去る前に社の敷地をきめて、神剣を遷し奉らなければならない。』


皆で相談して、この言葉に感化されて、その社の地を定めた。


楓の樹が一株あった。自然に炎上し焼けて水田の中に倒れた。

燃える炎は消えずに水田はなお熱かった。


それで、熱田の社と名付けた。


ーーーーーーー


天命開別天皇(アメ ミコト ヒラカスワケのスメラミコト : 天智天皇)  七年 戊辰(つちのえ たつ)


新羅の僧 道行が、この神剣を盗み、己が国に移そうとして、ひそかに神の祠に祈り入り、神剣を取り、袈裟に包んで伊勢の国に逃げさった。


一宿の間に、神剣は、袈裟を抜け出して元の社に還り着いた。


道行は、さらに還ってきて、練禅して祈り請い、また(神剣を)袈裟に包んで逃げ、摂津の国に到着した。


難波の津より、船の綱(もと綱)を解いて、帰国した。

海上で狼狽して、さらにまた難波の津に漂着した。


すると、ある人が神のお告げを受けて言うには


『我は、熱田の神剣である。しかし、妖僧に欺かれて、新羅に着いた。はじめは、七条の袈裟に包まれたが抜け出し、社に還った。その後、九条の袈裟につつまれたが、それは、抜け出ることができないのだ。』


その時、役人や民たちは、驚いて怪しみ、この流れ者にとどまるよう求めた。


道行は、心の中で考えた。


『もし、この剣を捨て去れば、取り押さえられる責は、免れるだろう!』


そして、神剣を捨て去るも、剣は身から離れなかった。道行は、なす術がなく、窮地に陥った。拝み終えて自首をして、ついに斬首刑が言い渡された。


天渟中原瀛真人天皇(アメ ヌナハラ ヲキマヒトのスメラミコト : 天武天皇)の朱鳥元年

戊戌(つちのえ いぬ) 夏 巳己の一日 戊寅(つちのえ とら)


天皇のご病気を占うと、草薙の剣の祟りであると出たので、役人に勅令を出して、尾張の国 熱田の社に還し置かれた。


ーーーーー


これより、始めて社守(やしろもり)を七員、設置する。


一人を長として、六人を列(ならび)とした。


並びに傜役を免じた。


およそ神剣をこの国に祀り申し上げる者は、すべて宮須媛と建稲種公に縁がある。


宮須媛が、この世を去って後、祠を建てて、これを崇め祀り、氷上姉子天神と名付けた。


その祠は、愛智郡氷上邑にある。


海部(アマベ)氏を神主とした。海部は、尾張氏の別姓である。


稲種公は、火明命(ホアカリのミコト)の十一代の孫、尾張の国造(くにのみやつこ)

乎止與命(オトヨのミコト)の子、

母は、真敷刀婢命(マシキトベのミコト)である。実に尾張氏の祖である。


ここに熱田明神をもって尾張氏神とした。


宮酢媛、及び建稲種命は、大宮の相殿の神である。


そして、尾張氏の人をもって、神主や祝(はうり)等の職を補っている。


ただし、この神社は、もともと、縁記がなかったので、去る貞観十六年(西暦874年)の春、神宮の別当 正六位 上尾張の連(むらじ) 清稲が、古い書物を捜しもとめ、長生きの老人から物語を問い尋ね、大まかな書き写しを加えて、縁記として編纂した。

※[縁起]ではなく、[縁記]と記述


守 従五位下 藤原朝臣 村椙が、理劇の隙に(※理劇之隙)、その文によく目を通し、締めの句が質素であることを嫌い、おおかたを、博学の学者を訪ねて、これを筆削した。


どうか、神明の霊跡(この縁起)を万代に長く伝えられんことを願う。


それで、三通を写し、一通は、公家に進呈し、一通は、社家に贈り、一通は、国衙に留めた。


寛平二年(西暦890年)十月十五日


古本に言うには


右大臣 基房公は、勅命を承って、当社の縁記をお尋ね下さった。それで、家本を写して、献上したのである。


延久元年(西暦1069年) 八月三日


大宮司 従三位 伊勢守 尾張宿禰 真信



応仁元年 七月四日


神宮寺の前竹の内の不動坊本をもって、これを書いた。


古本に言うには


前述の(右の)縁記は、誤りが多いので、出来のよい写本(善本)を調べ、これを写して仕上げ申し上げた。


慶長九年(1604年) 正月七日


右京の亮(すけ) 尾張宿禰 是仲


正保三暦 (1646年) 六月三十日


泥江縣(ヒジエアガタ)の祠官


源 重利



ーーー完ーーー


[日本書紀との比較]

[日本書紀]の[天智天皇]には、『この年、沙門道行が、草薙剣を盗んで、新羅に逃げた。しかし、途中で風雨にあって、道に迷いまた戻った。』とある。
※[この年]は、天智天皇七年。

宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (下)] 講談社学術文庫
232頁12、13行

さらに、[日本書紀]の[天武天皇 下]には、『十日、天皇の病を占うと、草薙剣の祟りがあると出た。即日、尾張国熱田社に送って安置させた。』とある。

宇治谷 孟 著 [現代語訳 日本書紀 (下)] 講談社学術文庫
308頁9、10行

※この病が癒えぬまま、天武天皇は、3ヶ月後に崩御される。

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