下記のサイトで原文を閲覧できます。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102
こちらの資料は、西尾市立図書館の【熱田寛平記】となります。寛平二年(西暦890年)に藤原村椙が、貞観(西暦859~877年)の縁起を筆削して記したとのことです。
現代語訳 : 三村 稔
日本武尊(ヤマトタケルのミコト)が、にわかに昇天されてから後、宮酢媛は、平生の約束を違えず、独り御床を守り、神剣を安置した。
(神剣から)光彩が射すことは続き、霊験も著しく知れ渡った。もし、祈り請う者があれば、信心が神に通じることは、当然の理(ことわり)であるかのようであった。
※則感応同於影響
※影響・・・物に影があり、音に響きがあるように当然の理の意
ここに宮酢媛は、親族や馴染みの者たちを集めて、お互いに相談をされて、おっしゃるには
『わたくしの身は老い衰え、朝夕、将来を期持することが難しくなった。※昏暁 難期 事
わたくしが、この世を去る前に社の敷地をきめて、神剣を遷し奉らなければならない。』
皆で相談して、この言葉に感化されて、その社の地を定めた。
楓の樹が一株あった。自然に炎上し焼けて水田の中に倒れた。
燃える炎は消えずに水田はなお熱かった。
それで、熱田の社と名付けた。
ーーーーーーー
天命開別天皇(アメ ミコト ヒラカスワケのスメラミコト : 天智天皇) 七年 戊辰(つちのえ たつ)
新羅の僧 道行が、この神剣を盗み、己が国に移そうとして、ひそかに神の祠に祈り入り、神剣を取り、袈裟に包んで伊勢の国に逃げさった。
一宿の間に、神剣は、袈裟を抜け出して元の社に還り着いた。
道行は、さらに還ってきて、練禅して祈り請い、また(神剣を)袈裟に包んで逃げ、摂津の国に到着した。
難波の津より、船の綱(もと綱)を解いて、帰国した。
海上で狼狽して、さらにまた難波の津に漂着した。
すると、ある人が神のお告げを受けて言うには
『我は、熱田の神剣である。しかし、妖僧に欺かれて、新羅に着いた。はじめは、七条の袈裟に包まれたが抜け出し、社に還った。その後、九条の袈裟につつまれたが、それは、抜け出ることができないのだ。』
その時、役人や民たちは、驚いて怪しみ、この流れ者にとどまるよう求めた。
道行は、心の中で考えた。
『もし、この剣を捨て去れば、取り押さえられる責は、免れるだろう!』
そして、神剣を捨て去るも、剣は身から離れなかった。道行は、なす術がなく、窮地に陥った。拝み終えて自首をして、ついに斬首刑が言い渡された。
天渟中原瀛真人天皇(アメ ヌナハラ ヲキマヒトのスメラミコト : 天武天皇)の朱鳥元年
戊戌(つちのえ いぬ) 夏 巳己の一日 戊寅(つちのえ とら)
天皇のご病気を占うと、草薙の剣の祟りであると出たので、役人に勅令を出して、尾張の国 熱田の社に還し置かれた。
ーーーーー
これより、始めて社守(やしろもり)を七員、設置する。
一人を長として、六人を列(ならび)とした。
並びに傜役を免じた。
およそ神剣をこの国に祀り申し上げる者は、すべて宮須媛と建稲種公に縁がある。
宮須媛が、この世を去って後、祠を建てて、これを崇め祀り、氷上姉子天神と名付けた。
その祠は、愛智郡氷上邑にある。
海部(アマベ)氏を神主とした。海部は、尾張氏の別姓である。
稲種公は、火明命(ホアカリのミコト)の十一代の孫、尾張の国造(くにのみやつこ)
乎止與命(オトヨのミコト)の子、
母は、真敷刀婢命(マシキトベのミコト)である。実に尾張氏の祖である。
ここに熱田明神をもって尾張氏神とした。
宮酢媛、及び建稲種命は、大宮の相殿の神である。
そして、尾張氏の人をもって、神主や祝(はうり)等の職を補っている。
ただし、この神社は、もともと、縁記※がなかったので、去る貞観十六年(西暦874年)の春、神宮の別当 正六位 上尾張の連(むらじ) 清稲が、古い書物を捜しもとめ、長生きの老人から物語を問い尋ね、大まかな書き写しを加えて、縁記として編纂した。
※[縁起]ではなく、[縁記]と記述
守 従五位下 藤原朝臣 村椙が、理劇の隙に(※理劇之隙)、その文によく目を通し、締めの句が質素であることを嫌い、おおかたを、博学の学者を訪ねて、これを筆削した。
どうか、神明の霊跡(この縁起)を万代に長く伝えられんことを願う。
それで、三通を写し、一通は、公家に進呈し、一通は、社家に贈り、一通は、国衙に留めた。
寛平二年(西暦890年)十月十五日
古本に言うには
右大臣 基房公は、勅命を承って、当社の縁記をお尋ね下さった。それで、家本を写して、献上したのである。
延久元年(西暦1069年) 八月三日
大宮司 従三位 伊勢守 尾張宿禰 真信
応仁元年 七月四日
神宮寺の前竹の内の不動坊本をもって、これを書いた。
古本に言うには
前述の(右の)縁記は、誤りが多いので、出来のよい写本(善本)を調べ、これを写して仕上げ申し上げた。
慶長九年(1604年) 正月七日
右京の亮(すけ) 尾張宿禰 是仲
正保三暦 (1646年) 六月三十日
泥江縣(ヒジエアガタ)の祠官
源 重利
ーーー完ーーー



