現在の不景気の原因は、企業の相対的国際競争力低下です。それは、通信コストと輸送コストの低下、及び、資本と技術の発展途上国への移転(企業の進出など)により、人件費の安い国に生産拠点が移ったのが原因です。国境を跨いだ自由な市場経済という体制を世界がそしてその一員である日本国が選んだ時に、既に決まっていたことです。それへの対応は人件費を下げること、政府の経済規模を小さくすること、企業のブランド力や製品開発能力の向上などの組み合わせでしかできません。円安政策は、いままでの個人のそして企業の国際的蓄財を消し去る自殺行為に過ぎないと考えます。この政策は、名目で賃金を下げられないので、円安という形で実質的に人件費を下げる政策であり、企業の競争力をその分瞬間的に上昇させます。しかし、政府のばらまきによる、経済感覚の全国的な麻痺により、最終的には財政、企業および個人の蓄財などをオフセットするだけで終わると思います。つまり、バブル崩壊による恐慌の後、弱い円、無貯蓄、現在の同程度の不景気で落ち着くことになると考えます。
因に、円高は長年の経常黒字を貯め込み、それが海外投資へ向かわなかった閉鎖的な金融の結果だと思います。円高は、企業や個人が稼いだ円で外貨を買い、企業買収や海外投資を行うことで、解消すべきです。
(個人や企業が金を使わないのは、将来への不安からだと思う。その主因は政治のレベルが低いことである。日本では、自らを儒と位置付ける教育(儒教)によって、「我こそは日本維新の中心に立つ!」という様な人が出現する頻度が低く、そのため世襲の三流議員に政治を任せることになり、議会制民主主義といっても名ばかりの低レベルのものとなっている。更に飛躍して言えば:現世を悲観的にみるとも言える仏教文化と「明日のことを思い煩うな。明日は明日自身に任せれば良い」が根付いている西洋文化との違いも、日本独特の貯蓄癖の一因かと思う。)
 ポジショントークとは、自分の立場を良くするためになされた一件論理的な発言のことをいう「和製英語」である。株式市場などで、ある証券会社がある会社の株を多量に買い入れ、暫時保持しているとき、その会社についての評価・格付けを、客観データと一見論理的に思える解析に基づいて、高く発表するような場合である。これは当然の誘惑であり、法律に触れないとされるレベルで日常茶飯事である。

 しかし、このような“見え見え”の行為により、実際に利益が得られるのは、“言葉を信じること”は、会話が成立する基本的要件だからである。つまり、我々人間は言葉を学ぶ(覚える)時に、相手の発したことばを信じることを同時に学ぶのである。「人は言葉を話す存在」であるとすれば、嘘を何のためらいもなく言うことは、自分は人でないことを容認することになる。

 最近、TPP(環太平洋パートナーシップ)の議論の際、しばしばこのポジショントークが現れる(と思う)。例えば、農村の票をあてにする議員やその近くの関係者が、「本当に問題なのは、農産物に関する関税撤廃よりも、ISD条項なのだ。」というような発言がそれである。ISD(Investor state dispute settlement)条項は、不公正な待遇により不利益を被った企業があった場合、その株主が国際的な仲裁裁判所に提訴し、その決定に基づいて損害賠償を対象国から受ける事が出来るという条文である。彼らは、ISD条項により、我が国が国家としての独自性を維持できなくなるというのである。ある評論家は、「従って、TPPはグローバル企業が儲かるようにできていて、それ以外の企業には何の益もない。そして、国家の意味がじょじょに薄くなって行く。」とテレビで発言している。

 しかし、私はこれもポジショントークだと思う。TPPであれNAFTAであれ、自由貿易により、それぞれが得意の分野を担当して、全体として豊かな経済圏を築こうというものである。従って、得意でないものには非関税障壁を設けて、国内産業を保護しようという考えに固執する人は、ISD条項があるからTPPは恐ろしいなどとは言わず、「自由貿易には反対である」と言えば良いのである。「それはとんでもない時代遅れの考え方だ」と反論されて、返す言葉が無いから、ISD条項を持ち出して煙に巻こうとするのである。ISD条項は、当事国が「そんなつもりではなかった」という非関税障壁をあぶり出す装置であるから、至極当然のものと考える。

もちろん、あらゆる変化には喜ぶものと痛みに苦しむものが出てくる。そこへの手当が加盟諸国の政府の仕事である。 また、我が国の特殊な事情、つまり、戦後65年を経ても未だに独立国家としての体をなしていないことを考えた場合、我が国がまともな体制を築くまでの今後20年ほどの間、この東アジアで自由主義国家としての体制を維持出来る位置は、米国を中心とした環太平洋諸国の中にしかないと思う。TPPは文字通りパートナーシップであり、貿易だけの問題ではなく重要な外交問題でもあると考える。
ーーー素人ですが、以上のように考えます。ーーーー
 TPPは環太平洋パートナーシップ(TRANS-PACIFIC PARTNERSHIP)の略称である。 貿易だけでなく経済関係一般について出来るだけ共通のルールで国を運営し、関税などの障壁をゼロにもっていき、それによって加盟各国の雇用創出と経済の発展を一層確実なものにしようというものである。従って、TPPの締結後一定期間経てば、最終的には価値観の共有と規制の撤廃を通して、ある地域で得意な経済分野はその地域が多く分担するという形になって行く筈である。不公正な制度が残っていれば、それは一定期間の内に公正なものに変えて行く覚悟が必要である。ここで、”公正”は、自由と合理的なルールという物差しで計られると考えられる。従って、米国が勝手に決めるのではないかという危惧は、会議などでの発言を放棄するのなら兎も角、一定の交渉力を持つ国には不必要だと考える。
 日本には多くの不公正が存在し、それにより利益受けその体制を守ろうとする勢力が存在するのは事実である。それらの勢力は、TPPを恐れるのは当然である。例えば、田舎の兼業農家が減反保証金などを受けるために小規模な田畑を維持することが、公正である筈がない。一票の格差を大きく維持することで、結果として農協、特定郵便局長会、日本医師会などの声を大きくし、都市部に住む日本の産業を支えている大勢の声に規制を加え、前者と結託した政治屋どもが維持してきたのである。護るべきは、他国よりも進んだ制度(例えば国民皆保険制度など)であるが、それらは“一般大衆の為になる”という正当性が大きな力となり、毀損されることは無い筈である。
 いろんな形の怪しげな意見が反対理由として出されている。その代表的なものには農作物の輸入関税を護るための食料安保論や、混合医療を解禁すると日本の医療保険制度が潰れるという国民皆保険破綻論である。また、いろんな反対勢力が共通して出している、「中国などとの経済関係の方が大きいのに、何故TPPなのだ」というTPP不要論である。先ず食料安全保障であるが、農業を過保護状態に維持することによっては食料安保は達成されないことを我々は知るべきである。話を簡単にするために、米中心の食生活を考えてみる。宮沢賢治の詩(雨にも負けず)にあるように、一人一日あたりの食料として5合(0.7 kg)の米が必要である。この量は、日本全体で一年に3000万トンとなり、現在の産出量はこの30%程度に過ぎない。また、江戸時代から今日まで、それだけの米を産出したことはない。つまり、過去一貫して国民の一部は飢えていて、その貧しさが人口を低く抑えて来たのである。現在、先進工業国となり貿易により外貨を稼ぎ、強い円でもって食料を輸入することが可能になった。つまり工業における競争力により、食料安全保障が達成されているのである。その「強い経済をどう維持するか」という課題の中の一環として、我々はTPPを考えなければならない。牛肉の全頭検査とか、残留農薬とか、そのようなものに関するルールは専門家が議論すれば良いことである。米国の牛肉をあの自己主張の強い米国人が食べている事実をもっと重視すべきである。
 次に、日本医師会が反対している混合診療の解禁について一言。混合診療の禁止は単に患者側の不利益というだけでなく、保険診療が認められている部分についても一旦リストにのっていない治療法を併用すれば保険適用できないというのは、やはり論理的に無理があると思う。保険でカバーする部分による保険費用は、手術ロボット、MRI、重イオン治療(保険が効かない?)などの医療法の発展による費用の全般的な高額化の問題とともに、別途議論すべきである。日本医師会(開業医の加盟する団体)が反対するのは、単に患者が大きな病院に流れてしまうことを危惧しているとしか私には思えない。
 中国が第一の貿易相手国であり、何を今更米国中心の窮屈な制度に加盟するのか?と言う議論には、「我が日本国は、今後とも中国を第一の経済パートナーとしてやって行けますか?」について、真剣に答を探せば自ずと明らかだろう。TPPは環太平洋パートナーシップであり、経済だけに限ったものではない。日本国は現在、法と正義、自由と自立などの欧米の価値観を受け入れている。米国は米国の利益を第一に主張するだろう。しかし、TPPに参加しているのは多くの分野で価値観を共有している国々であり、一参加国による非論理的なゴリ押しが通ったとしたら、それはその他の国々の交渉力のなさが大きな原因の一つであると思う。日本国の国際的交渉力の欠如に関しては、日本独自に解決するしかない。
 以上、TPPには恐れず予断を排して交渉に参加すべきと考える。